9.0cm


――ピピ、ピピピピピ

「……あ、ああ」

  けたたましいアラームで目を覚ました。


 9:01と時計に表示されていた。

 溜息を吐く。昨日のショックからか、ずっと寝ていたようだ。

 あれから楓からの連絡も着信履歴もない。楓は電話の後、一日をどういう心情で過ごしたのか。


 ふらふらとしたまま、机に向かう。

 何枚も重ねて置いてある原稿用紙。

 侘しい気持ちのまま握った鉛筆。

「大丈夫だ、大丈夫」

 消える思い出はちっぽけだ。小説の執筆だけに専念すればいい。思い出が消える前に完成させればいい。


 絶対忘れない楓の失恋を綴ると決めた。

 この思い出なら消えないはず。



 白猫は塀の上で、夕日に一人思い馳せていた。溜息を吐いている。

 黒猫がぴょんと跳んで塀の上に乗った。そっと白猫に寄る。

 白猫は夕日を見続けていた。白猫の仲の良く思いも寄せていた茶褐色の毛の猫が、遠くに行ってしまうのだ。黒猫はそれを知っていた。

 優しい目をして、黒猫は白猫の毛を撫でた。

 ニャー……消えてしまうような鳴き声を黒猫が出す。

 やっと白猫が黒猫の存在に気付く。驚き振り向いた。

 目線を合わせられる黒猫。照れて視線を逸らした。その表情に白猫も尻尾を振る。

 また明日から頑張れる、と言っているようだった。

 黒猫はずっと照れていた。



 なんだろうか。

 普段より適当に書いている気がする。

 俺は日常で使うことのない言葉で出来事を表すのが好きで、うきうきする。

 ただ今日は「思い馳せる」とかいう言葉では満足しない。

 削れる思い出も知り、気分が晴れない。


 そして既に鉛筆の先が丸まっていることを知った。

 ――削らなければ。


 勿論躊躇いはあった。思い出をこれ以上消したくはない。

「まだ、書けるよな」


 俺は芯が木に隠れるまで、鉛筆を使い続けた。

 しかし文体はシンプルで、書いていてつまらない。執筆を投げ出しそうになる。


 諦めなかったのは、まだ楓の言葉が残っていたからだった。

「頑張れ!未来の小説家!」お世辞だと知っている。ただこんな形で勇気付けられるとは。

 諦めない。決心した。

 自分を奮い立たせて、完成に近づけていった。


 しかし、どんなものも尽きてしまうもの。

「……限界か」

 ついに、木に芯が隠れる。もう削らない限りは、小説は進まない。


 仕方なく、机から離れた。

 俺の鉛筆削りまでの一歩一歩は、重かった。辛いが、それ以外に方法はない。


 いつも以上に穴の奥にある刃は鋭く見えた。

 ……暫く黙っていた。消えない。そう信じている。


 目を瞑って、意を決した俺は。


 鉛筆を削った。


 ガガガガガガ……


 ――9.0cm


 ゆっくりと目を開けた。

「消えたか?」実感が湧かない。


「そうだ」

 真実を知るために目に付けたものは、俺の小説だった。

「……消えてるはずないよな。俺と楓の思い出だもんな」

 不安に襲われている。

 それは束の間のことで、すぐ晴れると信じていた。


 覚束おぼつかない手先で、原稿用紙を一枚ずつ捲る。

 現れた自分の文章を睨んだ。

「忘れてないよな?忘れてないよな!」

 自分に問う。


 しかし……

 俺は、目を疑った。

 別れを惜しむ?

 思いを寄せる?

 慰める?


「どのことだよ……何の思い出だよ!」

 何度読んでもあるのは

 


「嘘だろ……」

 俺は失望した。膝から崩れ落ちる。机に掴まっていた。さもなくば二度と立ち上がることが出来なさそうだったから。

 急な目眩も起こる。視界も歪む。


 このまま思い出は全て消えてしまうのか――

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