9.4cm
時間が経った。
春休み十二日間。
朝。小説を書き始めてからというものの、アラームなしで起きるようになった。理由は分からないが、ずっと小説を意識している。
今日は五、六日目だろう。
今まで誰とも遊びに行かなかった。小説に粉骨砕身していた。執筆に労力をつぎ込んでいた。
鉛筆も9.4cm。
書く程、鉛筆は短くなる。
くれた楓は今頃、きっと荷造りか、終えて電車に揺られているか。既に一人暮らしを満喫しているかもしれない。
俺は使命感に駆られて頑張っているのに。
そんなとき。
プルルルル……
「……電話」
中々ない電話のコール。
携帯を手に取って、相手の名前を確認した。
秋本 楓
「楓……」
画面には楓のフルネーム。
ピッ。
耳にスマホを充てる。
『ヤッホー!』
「いっ!」
耳元で響いたのは、楓の声だった。鼓膜を破る勢いで伝わった声に拒絶してしまう。舌打ちをしながら、スピーカーボタンを押した。耳のみに被害が集中しないように。
『舌打ち、聞こえたよ?』
「
『えー?久しぶりに話せるんだよ?』
「だとしても、突然叫ぶな。音割れてたぞ」
『聞こえなかった?じゃあもう一度――』
「やめろ」
叫ぼうとする楓を焦りながらも、冷静に止めた。
喜びが弊害を齎している。
『口調も変わんないなー。
忙しくって連絡できなかった。寂しくなかった?』
「全然」
『不愛想だなあ、全く』
ずっと忘れられないのは秘密だが。
しかし暫く振りの楓の声に気持ちが昂り、俺は話をし始めた。口から言葉が零れる。
「今楓は何してんだよ」
『あ、もう東京のアパート着いたー。今アパートから電話してる』
「もう着いたんだ。朝まだ早いだろ?」
『今から朝に強くならないと、高校遅刻するから』
楓の真面目なところが見えた。やはり偉い。
「俺は寝不足」
『それまずくない?すぐ寝なよ!』
楓に
「あのさ、
楓の期待に応えるため毎晩起きてるんだけど」と返す。
『ああ、小説?』
溜息を吐き、うんと応答する。
もう忘れたのかと一瞬不安になった。すぐ萎み、苦笑した。
「頑張れ!未来の小説家!同窓会とかで見せてね」
麒麟児だと煽てられた。小説家になれないということを承知の上で書いていることは、楓の夢を壊さないように言わない。
同窓会で、という言葉を気にする。次に合えるのが遠い未来なのかと悲しむ。
『でも不思議。近くにいた拓馬と電話で話すなんて』
どうやら憂う気持ちは同じようだった。
「それだけ、色んなことあったし」
『思い出なら沢山ね』
やはり互いに思い出を懐かしんでいるようだ。
『そういやさ!
修学旅行で拓馬が女湯間違えて入ったって噂が広まっちゃって、ただ女子の勘違いだったことあったよね!
あれ笑ってたけど、内心焦ってたよ!はははっ!』
電話を通した笑い声が、耳に響く。
……俺は黙っていた。
「なあ、楓」
『ごめんごめん。え?』
「俺、記憶ないぞ」
落ち着いて言った。
しかし楓は笑ったまま。
『知ってるって!ただの勘違い』
「そうじゃなくて」
『何?』
――そんな噂、流された覚え、ないぞ。
『え?』
笑いが止まる。
『男子からも弄られてたし』
「弄られてたっけ」
『大騒ぎした奴が、拓馬のこと好きだって噂されたじゃん』
「冷やかされてた?」
『幼馴染の私も被害受けたってのも?
嘘吐いてる?』
「ない。
こんなことあったら生涯忘れないし」
俺と楓の間にも、猫達のような沈黙が流れる。
『私の頬を殴ったことも?』
「覚えて、ない」
いつか殴った出来事を思い出した気がしなくもない。
今はもう知らない。
……気まずくて、仕方なかった。
『あの、ば、バイバイ』
楓が別れの言葉を唐突に言った。
「あ、バイ、バイ」
俺も動揺しつつ、流れのままに別れを告げた。
受話器を置く。
「……」
立ち竦んでいた。
嘘は吐いていない。
俺の思い出が、
なくなっている?
あれだけ楓のことが頭から離れなかったはずなのに。
自分の記憶が作り替えられているような未来の話ではないだろう。
じゃあ、一体何が――
「鉛筆?」
徐に机に置いてある、貰った頃よりかなり短くなった鉛筆を見た。鉛筆を手に取る。
蘇芳色の鉛筆。どんどんと短くなっている。元は15cmだったはず。親指と人差し指で掴めるまで短くなった。
「まさか……」
この鉛筆が、俺の楓との思い出だったら。
俺には沢山の思い出がある。
いや、あったはず。
しかし、鉛筆という個体が俺の「思い出」という形のないものになっていたとしたら。
俺は鉛筆を毎日削っていた。削り落ちるのは木くずと黒鉛、それともう一つあるようだ。
異変には薄々気付いていた。鉛筆を鉛筆削りから抜いたとき、頭が一瞬真っ白になり何かが頭から消えたような実感があった。
正体は分からなかったけれど。
正体は「思い出が消える瞬間」
何の躊躇もなく思い出を削っていた。
「そんな……」
狼狽して、本棚にある幼稚園の頃のアルバムを手に取る。素早くページを捲る。
「いつの話だよ、これ……」
つい最近見たはずの楓とピースサインを出し合っている写真。外にいるようだ。
しかし、
写真は見覚えない。
「いつの写真だ?」
俺は自問自答をする。どれだけ答えても正解に辿り着けない。答え合わせに必要な解答も知らない。
水族館の写真。
節分の写真。
寝ている写真。
どれも見たことない。
そんなはずないのに。
額から変な汗が流れる。
「くそっ!」
俺はアルバムを床に叩き付けてしまった。
大きな音を立て、アルバムが倒れる。アルバムを
カーテンが
俺は途方に暮れた。段々と現実を知らしめられ、打ちひしがれた。
信じられない現状に少しずつ俺も擦り消えそうだった。
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