第26話 少女の失敗
時は遡り、青年が海で砦からのロープを待っていた頃。
少女は砦の塔を登り、物陰から海を見張る男の背後に忍び寄っていた。
その男はずっと双眼鏡で海を見ていた。
青年が言うには、それがその人の仕事らしい。いつ来るか分からないものをずっと見続けるなんて、自分だったら退屈で死んじゃうなぁと少女は思った。
でも、おかげで殺すのはとても簡単そうに見えた。
塔を登ってきた自分に気付くそぶりは全くなく、無防備な背中を見せている。
あとはほんの数歩近付いて、青年がやっているように喉をナイフでぐさりとやれば、それでお仕事は終わり。
いつも籠いっぱいの、強盗団の洗濯の方が数十倍大変だ。
なのに、少女の心臓は先ほどから激しく鼓動していた。
ドクン、ドクンと尋常ではない勢いの鼓動が先ほどから繰り返されていて、男に音が聞こえるんじゃないかと心配でならない。
加えて標的に近付く一歩一歩がとても重く感じる。こんなことは初めてだ。なんだか呼吸するのも苦しくなってきた。
早く終わらせたいと思うのに、これ以上先に進んじゃいけないと警告を鳴らす自分もいる。
(ダメだよ、ダメ。早く殺して、今も冷たい海の中で待っているイヌにロープを下ろしてあげなきゃ)
挫けそうになる弱気な自分に活を入れて、少女は腰に吊り下げたナイフへと手を伸ばす。
全ては青年のために。
この砦を落とさなくてはいけない青年のために。
自分が、やるっ――。
が。
カキンッ。
その音は想像以上に大きく響いた。
そして。
「なんだぁ、おめぇ?」
双眼鏡を覗き込んでいた男がゆっくりと振り返る。
醜い目つきの、中年男性だった。
怪訝そうな表情で、顔を真っ青にして震えている少女と、床に落ちているナイフを交互に見つめる。
「……おめぇ、まさかオレを殺しに」
来たのかと男が問いかける前に少女は慌てて、震えた手から滑り落としてしまったナイフを拾おうとしゃがみこむ。
「あっ!」
が、男の方が一足早く、ナイフを蹴り飛ばした。
さほど広くない見張り台の床をナイフが転がり、壁に当たって止まった。
「やはり殺し屋か、娘っ子」
「あ……あああ」
男の卑しく光る眼に、少女は思わずしゃがんだまま後ずさろうするも、恐怖で腰が抜けてしまったのか、お尻をぺたんと床につけてしまった。
それでも少しでも男から離れようと懸命に床を蹴るが
「いっひっひ。逃がすもんかよ」
男にその足をむんずっと掴まれてしまった。
それだけでまるで体中に蟲が這いずり回るような気持ち悪さが走る。
「ひっ!? イヤッ、放してぇ!」
掴まれた足を必死に動かし、敵陣であるにも関わらず、声の限り叫んだ。
叫び声を聞いて、青年が助けにきてくれるのを願った。
「うるせぇぞ、娘っ子!」
しかしかすかな希望に望みを託し、抵抗できたのはほんの一瞬。
男は足を掴みながら、ぐいっと上体を近づけると、勢いよく額を少女の頭へ叩きつける。
「痛いっ!」
目から火花が飛び散るような痛さに少女は悶絶する。
そこへ男に髪を掴まれたかと思うと、今度は後頭部を強烈に床へと叩きつけられた。
「……ッ!」
頭がぐわんぐわんした。
吐きたくなった。
さっきまで思うように動かなかった体から、今度は力そのものが抜け落ちていくのを感じた。
「へっへっへ、大人しくなりやがった。そうだ、それでいい。大人しくしていれば、処刑する前に楽しませてやるべ」
こんなつまんねぇ仕事を長年させられて、しまいには命を狙われたんだ、たまにはこれぐらいの役得がねぇとな、と男が呟くのが聞こえたかと思うと、体を強引にうつ伏せにさせられ、後ろから乗りかかられた。
重い。臭い。首筋に当たる、男の興奮した鼻息が気持ち悪い。
楽しませてやると言ったのに、全然楽しくなかった。
おまけに男がお尻を触ってくる手つきが、どうしようもなくイヤだった。
続けてガチャガチャと男がベルトを緩め、ズボンを脱ごうとする音が聞こえてくる。
少女は知っている。
これから自分の身に何が起きるのかを。
かつて青年に同じことをされそうになった時も、実は知っていた。
でも、あの時は今みたいな気持ちにならなかった。
青年の悲しそうな、見ているこちらも泣きたくなるような瞳を眺めていたら、それで慰めになるんだったらいいかなと思ったのだ。
だけど今は違う。まるで違う。
イヤだ。絶対イヤだ。
助けて、イヌ! 怖いよ! ヤダよ、こんなの!
叫びたかった。が、叫んだところで青年が都合よく助けに来てくれるわけなんてない。
だから。
「おっと、逃げるんじゃねぇ」
男がズボンを脱ぐのをわずかに手間取っている間、少女は持てる力を振り絞ってジリジリと床を這い進んだ。
男がさらに圧し掛かってきて、進めた距離はほんのわずかだったが、それだけで十分だった。
「よーし、じゃあ今からオレが天国に連れてってやるべ」
準備が出来たのだろう、男が少女の下着に手をかける。
やるなら今しかない。
少女は必死になって掴んだソレを後ろ手に持って、思い切り男の脇腹へと突き立てた。
「いっ! いてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
途端に男が上半身を起き上げて絶叫した。
見ると思惑通り脇腹にナイフが突き刺さっている。
少女にとっては運が良かったとしか言いようがない。
男に圧し掛かれ、絶望で意識が朦朧とする中、その瞳に飛び込んできたのはさっき男に蹴り飛ばされたナイフだった。
しかもあともう少し、手を伸ばせば届く位置にある。
心を決めなければいけなかった。
「ナイフ! 娘っ子、てめぇやりやがったなぁ!」
激怒した男が拳を握り締める。
が、少女は殴られるよりも早く、ナイフの柄を掌でさらに深く男の脇腹へと押しやった。
「うぎゃああああああ!」
痛さのあまり男が少女から飛び退いて、床を転げ回る。
そしてごつんと頭を壁にぶつけると、途端に静かになった。
恐る恐る少女が近付いてみると、男は白目をむき、口から泡が吹き出ていた。
死んだ、のだろうか?
いや、息がある。気絶しただけのようだった。
でも、少女はそれで十分だと思った。
このあと青年を砦に呼び寄せ、頭領たちが砦を襲うまで意識を失ってくれればそれでいい。殺さなくていい。
少女は自分の牙が敵の命を抉る先ほどの感触を思い出して、体を震わせる。
自分の身を守る為とはいえ、ぞっとするような感触だった。
(行かなきゃ……)
青年にロープを降ろすため、少女は塔を後にした。
結局、少女は敵の命を奪えなかった。
これを少女はすぐに悔やむことになる。
あの時、勇気を出して止めを刺しておけば、青年にあんな悲劇は訪れなかった。
全部自分のせいだ。
少女は自分を責めた。
そして青年のために、もう一度死地へと足を運ぶ決断を下す。
敵のアジトに奇襲をかけるという頭領に、砦の見張りは自分が殺したんだとウソをつき、青年の代わりという信頼を勝ち取った。
あとはただ気持ちをしっかり持つだけだ。
今度こそしっかりやる、と。
もう躊躇わない、と。
だが。
やはり。
少女は、少女だった。
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