第22話 過去Ⅳ
「お前たちにはある砦を落としてもらう」
あれだけいた少年たちが、イヌとネコのふたりだけとなった翌日。
頭領は珍しくふたりに座るよう命じた。
いつもなら簡単に訓練内容を説明して終わりだから、話はせいぜい一、二分程度。座る必要なんてない。
それがわざわざ座れと言うのだから何だろうと思っていたら、いきなり突拍子もないことを言い出した。
「砦って……そんなの僕たち子供で落とせるものなんですか?」
「普通は無理だ。が、ネコ、お前は誰よりも身軽に断崖絶壁を登ることが出来る。そしてイヌ」
ジロリと頭領に睨みつけられて、イヌは体をビクリと震わせた。
「お前は闇に乗じて相手に気付かれず殺す術に長けている。そんなてめぇらならあの砦を落とせるはずだ」
そう言って、頭領は簡単に砦襲撃の概要をふたりに説明した。
聞けばなるほど、頭領がこれまで少年たちに課してきた訓練の意味が理解出来る。
すべては砦を落とすため――。
その為に少年たちは落ちたら死ぬ可能性がある崖を何度も登らされ、気配を消して獲物を狩ることを覚え、仲間を相手に他人を殺すことに馴れさせられたのだ。
そんなことのために――。
正直、イヌの胸の内にもそんな想いがこみ上げる。
だけど何も言わなかった。
言ったところで何になるだろう。死んだ仲間たちはもう戻ってこないし、自分もまたもう昔の自分には戻れない。
「あの、頭領。ひとつだけいいですか?」
でも、ネコの考えは違ったようだ。
「なんだ?」
「僕たちはここ数ヶ月、あんたに命令されて危険な崖を登り、友だちの命を奪って生きてきました。それがまさかそんなことのためだったなんて、まるで悪い夢を見ているかのようです」
イヌにとって恐怖でしかない頭領に、ネコが面と向かって不平を口にする。
イヌはネコが頭領の怒りを買って殺されるんじゃないかとハラハラした。
「そうかい。だが、これが現実だ。イヤだって言っても、やってもらうぞ、ネコ」
「分かってますよ。それにやらないと死んでいった仲間たちが浮かばれない。あんたの計画を僕たちが見事にやりきらなきゃ、みんなは何で死ななきゃいけなかったんだって話になる」
「その通りだ。分かってりゃいい」
「でも、無事砦を落としたら、あんたにとって僕たちはもう用済みのはずだ」
ネコはイヌの視線を感じ、安心させるように微笑みを返すと、ひとつ大きく深呼吸して言った。
「だからその時は僕たちを解放してほしい」
頭領はしばらく何も言わず、ただじっとネコを睨みつける。
その視線に負けることなく、ネコもまた頭領を睨み返した。
交わるふたりの視線はお互いに一瞬たりとも反らされることはない。
ただイヌだけが驚きと戸惑いを隠すことなく、ふたりの顔を交互に見やるのだった。
「……ネコ、てめぇいつから俺様にそんな偉そうな口をきくようになった?」
「あんたの切り札が僕たちふたりだって分かった、ついさっきからですよ」
残された少年がふたりとなり、それぞれの役割がはっきりとした今、頭領はこれまでみたく彼らを無碍に殺すわけにはいかなくなった。
ふたりを育て上げるのにもかなりの時間がかかっている。今ここでどちらか一方でも失えば、またやり直しだ。
「……ふん、まぁいいだろう。分かった、砦を落としたらお前たちは自由だ。約束してやる」
「本当ですか?」
「あの砦さえ落とせば、お前たちなんて用なしだ。どこへでも行きやがれ。その代わり絶対にあの砦を落とすんだ。いいな?」
頭領が言葉に怒気を含ませて凄んでみせた。
ネコはコクリと一回頷く。
そしてその視線が自分にも向けられて、慌ててイヌも大きく頷くのだった。
それから頭領はふたりを置いて、どこかへと出かけるようになった。
長い時は一週間も帰ってこない時もある。
その間にふたりは逃げることも出来ただろう。
しかし、少年たちはひたすら来るべき日の為に訓練を繰り返していた。
ひとつは逃げるにしてもどこに行けばいいのか分からなかったからだ。
頭領が言うには、ここから一番近い村でも歩けば五日はかかると言う。しかも道が分かっていてそれだ。道も分からずに無闇に歩き回っては、いつ辿り着けるか分からない。
下手したら野垂れ死にもありうるし、危険な野生動物に襲われる可能性もある。
無駄に逃げるのは得策じゃなかった。
そしてもうひとつはネコの取り付けた約束が、ふたりに希望を与えたからだ。
いつまで続くか分からなかった地獄が、あともう少しで終わる。
砦さえ落とせば、もう辛い訓練や、人殺しなんかをしなくてもいいのだ。
もちろん、頭領が約束を反故にするかもしれないし、大人、しかもベアダ帝国の兵士を相手に奇襲を仕掛けることへの恐怖心もある。
だけどふたりは自由の身になった時のことを想像し、話し合って、ようやく見えてきた未来への光にひたすら手を伸ばし続けた。
「僕は南の街に住みたいな。あっちは温かくて、海も年中穏やからしいよ」
「へ、へぇ」
「それに美味しい果物もあちらこちらに生っているんだって」
「て、天国みたいだ」
「イヌはどこか行きたいところはないの?」
「わ、わからない。あ、あまり外の世界のことを知らないから」
とは言っても、生まれ育った村のことも薬で消されて覚えてはいないのであるが。
「まぁ、とりあえず砦を落としたら帝都へ向かおう。人がいっぱいいるらしいから、僕たちが出来る仕事もきっとあるだろうし、少なくとも頭領のところにいるよりかは何倍もマシだろうからね」
ネコが微笑んでくるので、自然とイヌの表情も緩んだ。
今やイヌにとってネコはなくてはならない大切な友達、いや兄弟であった。
身長はネコの方が低いものの、自分よりも物事を知っていて、なによりあの頭領に一歩も引かず交渉をしてみせたネコは頼り甲斐のある兄貴分だ。
自分ひとりでは何も出来ないけれど、ネコと一緒なら何でも出来るような気がする。
これからもネコと一緒にいたい。
そう、イヌは心の底から願っていた。
少年たちの当面の目標は、件の砦を落とすこと。
全てはそこから始まる。
だが、肝心のゴーサインがなかなか出なかった。
「ちくしょう。どいつもこいつも考えなしに砦を攻めやがって!」
頭領が悪態をつく。
なんでも大勢の人間が競って砦を落とそうとしているそうで、それが却って砦の守りを堅固なものへとしているらしい。
今の状態では少年たちが奇襲をしかけても上手くいきそうになかった。
「まぁ、どちみち俺が考えた方法以外、あの砦を落とすのは無理だ。今はその時が来るまで待つしかねぇ」
頭領の命令に従って、少年たちは待つことにした。
赤い血染めのたんぽぽが咲き乱れる丘で、何日も、何日も、ただひたすら待ち続けた。
頭領は戻ってくる度に状況がなかなか好転しないと苛立ち、少年たちも落胆はしたが、イヌは決して「待つ」のは嫌いではなかった。
もちろん砦を落として怖い頭領から解放され、ネコと一緒にまだ見たことがない町へ行くのも楽しみではある。
でも、基本的にネコとふたりきりの、他に誰もいない穏やかな生活に安らぎを感じてもいた。
ただ、ネコは少し違うようだ。
最初のうちはイヌ同様気長に待つ姿勢を取っていたものの、半年も経つ頃になると戻ってきた頭領が首を振るたびに落胆の色を濃く見せるようになった。
最近は頭領に多少強引でも決行すべきだと訴えることすらある。
その姿は何かを焦っているようにも見えたが、きっと毎日何も変わらないここでの生活に飽きてきたのだろう。
イヌはそう思っていた。
だが、実際は毎日少しずつ変化していたのだ。
ある日のこと。
イヌはいつものように戦闘訓練の後、ひとりで近くの小川まで水を汲みに行っていた。
普段ならネコも一緒だが、この日はひとりだった。
ネコが久しぶりに崖登りの訓練をしたいと言ってきたからだ。
最近、ネコは崖登りの訓練をしていなかった。
おそらく日々上達してきている戦闘術と違い、何度も同じ崖を登るのはつまらないからだろう。
そう思ってイヌは何も言わなかった。
とは言え、たまには崖登り訓練もしないと体がなまってしまうのかもしれない。
だからやっぱりイヌは黙って頷くと、ひとりで水汲みに出かけたのだ。
かつて水汲みは重労働だった。
子供には大きすぎる桶はひとりではとても運べず、ひとつをふたりで持った。
それが崖登りや狩りや戦闘訓練で鍛えられているうちにひとりで運べるようになり、今では左右の手にひとつずつ抱えてもさほど苦ではない。
そしてこの日はネコの分も合わせて四つの桶を一度で運ぶことに成功した。
イヌは改めて自分の成長を感じる。
成長と言えば、最近はネコの背丈が急激に伸びてきた。
ネコと会話する時の視線がかつては見下ろし気味だったのに、最近はほとんど水平になってきている。
このままいけばそのうち抜かされるんじゃないだろうか?
そう思うと悔しい反面、兄貴分として慕うネコが自分よりも大きくなるのはどこか誇らしくもあった。
「み、水を汲んできたよ」
桶を小屋の脇に置いて、イヌは中へと呼びかける。
水を汲み終えたら、次は食事の準備だ。
今日は何を作ろうかと、ネコに相談するつもりだった。
「…………」
しかし、返事がない。
どうしたのだろうと思って中を覗いてみると、誰もいなかった。
「ネ、ネコ?」
近くにあるとは言え、小川まで往復で三十分はかかる。
それだけの時間があれば、ネコなら崖を三往復は出来るだろう。
なのにまだ戻ってきていないなんて、よほど熱中してるのだろうか。
イヌは小屋を離れ、大樹に結ばれたロープを握りながら崖の下を覗き込む。
岩場に横たわるネコがいた。
その瞬間、イヌは頭が真っ白になった。
頭が勝手に今見た光景を「ネコは訓練で疲れて、岩場で昼寝しているんだ。きっとそうだ!」と自分に言い聞かせてくる。
「ネコ!」
だけどネコの体から流れ出し、岩場を赤く染め上げている血が、イヌのそんな希望を完全に否定していた。
慌ててロープで崖下へと降りると、イヌは横たわったネコへと駆け寄る。
「ネコ! しっかりして!」
その上半身を持ち上げて激しく揺さぶった。
ぐったりと力のないネコの体はただイヌになされるがまま、左右にゆらりゆらりと揺れる。
それだけでこれまで何人もの仲間の死に立ち会ってきたイヌは、もう手遅れだと悟ってしまった。
「どうして! ネコ、あんなに崖を登るのが得意だったじゃないかっ!? そ、それなのにどうして……」
ふとイヌは抱えあげるネコの体が、思っていたよりも重いことに気が付いた。
そうだ、身長がどんどん伸びているってことは、それだけ体重も重くなっていることになる。
その成長がネコから崖を登る身軽さを奪っていたのだとしたら。
そしてそれに薄々気が付いたネコが最近崖登りをやっていないのだとしたら。
「だ、だから……あんなに焦って……な、なのに俺は……」
視界がぼやける。
言葉にならない絶叫が口の奥から迸った。
ネコが自分を置いていなくなる……そんなこと考えたこともなかった。
ネコがいない世界でこれから生きていく……そんなこと考えたくもなかった。
光が闇へ。希望が絶望へ。
世界が一瞬にして崩れ去り、夜目の利く目でも見通すことの出来ない真っ暗闇がイヌの世界を侵蝕していく。
「い、いやだ……お、俺を置いていかないで……置いて」
「イヌ……」
その時だった。
それまでぴくりとも動かなかったネコが、かすかに目を開いてイヌの名前を呼んだ。
「ネコ!」
思わぬ奇跡にイヌはネコの頭を抱きかかえて、自分も相手の名前を叫んだ。
しかし。
「イヌ……ダメだ」
「ダメ? な、なにがダメなんだ?」
「君は……まだこっちに来……」
朦朧としたネコが何を言っているのか、イヌにはよく分からなかった。
ただ、今はそれどころではない。今大切なのは、死んだと思ったネコが辛うじて食い止めた命を決して手放してはいけないことだ。
「ネコ、が、頑張って! お、俺、小屋から何か薬を持って」
ネコの上半身を今一度岩場に横たわらせようとするイヌ。
その腕をネコが掴む。
「い、いっちゃダメだ、イヌ」
「で、でも」
「イヌ……君にはもう……彼女が……」
彼女? 彼女って誰だ?
ますますネコが何を言っているのか分からなかった。
ここには少年たちと頭領だけで、女の子なんて最初から誰もいなかった。
「あ……」
なのに一瞬、イヌの頭の中に一人の少女の姿がフラッシュバックした。
自分と同じ戦争孤児。
だけど自分とは違い天真爛漫で、いつでも明るくて、ずっと暗闇に立ちつくしていた自分さえも眩しく照らし出した彼女。
そう、彼女の名前は――。
「イヌ……彼女と一緒に……生きるんだ」
急速にここではないどこかへと浮上していく意識に、彼女と同じ名前を冠した懐かしい親友の声がいつまでも木霊していた。
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