1 僕の日課はだいたいにおいてこれしかない

 空は、黒い壁によって塞がれていた。

 まるで巨大な鍋ぶたをされたように分厚い黒い雲に覆われた空を、僕はぼんやりと眺めていた。


 僕の一日は――だいたい空を眺めることからはじまる。

 空を閉ざされ、海を汚染され、大地を破壊され、住む場所すら奪われて絶望した人類のほとんどが、今は空を眺めたりなんかしないけれど、僕は大抵の場合、あごを上げて視線を空に向けている。

 日課みたいなものなんだと思う。


 特に焦点を定めずに、ぼんやりと口を開けて何もない虚空を眺めているそんな僕の姿は、周りの子供たちには異様に映るみたいで、『夢遊病患者』――『スカイウォーカー』なんてあだ名をつけられて馬鹿にされていた。


 だけど、僕は案外そのあだ名を――そのコールサインを、なかなかに気に入っていた。


 スカイウォーカー。

 

 夢遊病患者じゃなくて――

 空を渡る者。

 懸け橋。


 そんな意味合いで捉えれば、それはやはりなかなか悪くないネーミングな気がする。本当になんとなくだけど。


 僕は日課通り窓の外の空を眺めながら、他の日課をこなしていく。

 ラジオをつけて、コーヒーを入れる。

 僕の日課はだいたいにおいてこれしかない。


 空を眺める。

 コーヒーを入れる。

 ラジオをつける。


 単純かつ洗練された生活様式こそ、健康で健全な毎日への第一歩に他ならない。

 たぶん。


『ハローハロー、地球のみなさん――』

 

 旧式のラジオからは、パーソナリティの軽快なトークが聞こえてくる。


『――今日も人類ただ一つの民間ラジオ放送から、ご機嫌で最高なな放送とナンバーをお送りします。ハローハロー。パーソナリティのオブライエンです。本日の天気は、もちろん曇り。ところどころ、黒い雨が振るかな? ファースト・ギガントでほとんど吹き飛んだ南半球は、激しい嵐模様。たぶんね』


 ラジオパーソナリティはハスキーな声で流れるようにトークを続けていく。少しの嫌味や皮肉を添えながら。


『車の渋滞や、電車の遅延はありません。地上にはほとんど人がいないからね。人類のほとんどは地下都市――ジオ・フロントでネズミかモグラみたいな生活を営んでいるので、まぁ平和かな? さて、人類は今日を生き延びることができるのか? やれやれって感じだけど、好む好まざるにかかわらず、それは空から降ってくるからね。僕たち人類を守ってくれる頼もしい戦闘機乗り――ガンツァー・ヘッドに感謝を捧げて、今日も一日気楽に過ごしていきましょう。空を駆ける命知らずの子供たちに幸あれ。さて、ここで一曲。こんな気の滅入る曇り空にぴったりの一曲? 翼をください』


「ちょっと、お湯が沸いてるわよ」

 

 声を掛けられて、僕はようやく視線を目の高さに戻して振り返った。

 そこには、赤みがかった金色の髪の毛の女の子が立っていた。


「ああ、アリサ。おはよう」

「おはようじゃないわよ。お湯が沸騰しているだけじゃなくて、床がびしょびしょじゃない? 全く、あんたはどんなお湯の注ぎ方をしてるのよ」

「ああ、ごめん」

「いつもいつも空ばかり眺めてるからよ」

 

 アリサはぶつぶつと呟きながらコンロの火を止めて、二つ並んだマグカップに沸騰したばかりのお湯を注いでいく。同時にブーツでの底で雑巾をかけながら、手際よくコーヒーをつくった。器用なものだ。

 

 白い制服を折り目正しく規律正しく着こなした彼女は、僕と同じ戦闘機乗りで、この『新横浜基地』に配属されている子供の一人。ドイツ空軍から派遣されてきたアリサは、この基地でも一位二位を争う凄腕の戦闘機乗り――


『ガンツァー・ヘッド』だった。


「早く朝食にしちゃいましょうよ。この後は、訓練にブリーフィングに整備に補給の受け入れっていうフルコースなんだから。それに、補充要員の受け入れもあるみたいだし。はぁ、考えただけでうんざりしちゃう。何で、この――わ、た、く、し、さ、ま、が、雑務までこなさなきゃいけないのかしら?」

 

 傲慢で自信家なところが彼女の魅力の一つでもある。

 少しばかり自惚うぬぼれが強すぎる気もするけれど、戦闘機乗りはそうじゃなくてはいけない気もする。

 

 一度空に上がってしまえば、後は自分の腕のみで生き延びなければいけないのだから、自分の実力と技量に自信を持っていなければ空では使い物にはならないし――仲間たちも、その戦闘機乗りを信頼しないだろう。程度の問題だとは思うけど。


「あんた、また民間放送なんて聞いてるのね? 聞くなら公共放送にしなさいよ」

 

 アリサは、どこか懐かしさを感じさせる音楽を流すラジオに視線を向けて、どうでも良さそうに言った。

 そして、質素な灰色の部屋の中心にぽつんと佇むテーブルの上に、今朝支給された二人分のサンドイッチを広げる。ベーコンとチーズのサンドイッチ。この部屋に椅子はないので、僕たちは毎朝立ったまま食事をしている。ベッドと机、キッチンにわずかな食器類。そして、ラジオ。これが、この部屋のぜんぶ。


「こっちの放送のほうが自由気ままな気がしていいよ。公共放送は堅苦しいしつまらないじゃないか?」

「情報の正確さと信頼性がぜんぜん違うでしょう? こんないい加減な放送、ほとんどデタラメみたいなものよ」

 

 アリサは硬いパンを引きちぎるように噛んで咀嚼そしゃくし、それを無理やり熱いコーヒーで胃の中に流し込む。僕も同じようにコーヒーで胃の中に流し込む。まぁ、悪くない味だった。ハンカチを噛んでるような気もするけど。


「デタラメだっていいじゃないか? 軍に所属していれば『iリンク』経由でリアルタイムの正確な情報はいくらだって手に入るんだし。こういうのは無駄を楽しむもので、娯楽っていうんだよ」

「娯楽くらい知ってるわよ。私たちだって映画や本くらい見るし、音楽だって聞くんだから。でも、この放送は本来許可されない軍専用の電波帯を、不正にジャックして放送しているのよ? テロリストとやっていることは変わらないんだからね。それに、このパーソナリティがいちいち厭味ったらしくてムカツク。『連合』にもう少し余裕があれば、見つけ出してミサイルでもぶち込んでいるところよ」

 

 アリサは最後の一口を食べ終えると、不敵にそう言ってラジオを睨みつけた。

 確かに、軍関係者にこのラジオ放送は疎まれていたけれど、ミサイルをぶち込むというのはなかなかに過激すぎる考えな気がした。


 別にこのラジオ放送がなくなっても僕は構わないし、困りはしないけれど――できることならばそんなことにはならないでほしいと思った。

 僕たちは、人類にミサイルをぶち込むために戦闘機乗りになったわけじゃないのだ。


「食べ終わったなら早く行くわよ。ああもうっ。予定が詰まり過ぎて気が滅入るわ。わたくしさまがこんな朝っぱらから訓練なんて――ほんと、クソッタレだわ」

 

 アリサは再びぶつぶつと呟きながら、綺麗に櫛の入った金色の髪の毛を棚引かせて部屋の外に向かって行った。

 

 僕は、彼女の背中を追う前に振り返って窓の外を眺めた。

 分厚い黒い雲は、依然として空に蓋をしたまま。


 僕は空を眺めたまま部屋の扉に向おうとして、テーブルの脚に自分の足を引っかけてテーブルを倒してしまった。

 ドンガラガッシャンと――大きな音を立てて、マグカップやらが冷たいコンクリートの床に転がり落ちる。幸いステンレス製のマグカップなので割れたりはしない。


 僕の部屋のものは、だいたいにおいてステンレスかプラスチックで統一されているのだ。


「ちょっと、あんたは毎朝毎朝何をやってるのよ? しっかり前を向いて歩きなさいよね」

 

 これも、毎日の日課の一つだった。

 

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