彼女は
実夏が退院してから、三週間が経過した。
夏休みは終わり、実夏は中学校に復帰し、ある程度いつもの生活が戻ってきた。
父ちゃんと母ちゃんは、実夏の記憶を取り戻させようと躍起になっているらしく、先週、先々週と、家族全員で出掛けた。出掛け先は湖と水族館で、どちらも実夏の思い出に強く残っているであろう場所だった。
その姿勢にはある種の信念を感じられたが、同時に憐れにも思えた。何というか、焦り過ぎに見えるからだ。俺は医者の話を聞かなかったから本当のところはわからないが、こういうのは焦らないでゆっくりと取り戻させるのではないのだろうか。
だから俺は、少なくとも実夏とは記憶を失う前と同じように接するようにしていた。
それがわかったのは、実夏が退院してから三週間が経過した、日曜日の事だった。
その日は父ちゃんも母ちゃんも仕事があり、俺と実夏は二人きりで留守番をしていた。
俺は朝食を作るべく、午前六時に起床して、パジャマから部屋着に着替えて、リビングに向かった。
リビングには、まだ起きていないだろうと思っていた実夏がいた。ソファに座り、テレビを見ていた。巨大ヒーローが出てくる、子ども向けの特撮番組だった。
「……実夏、おはよう。起きてたんだ」
「あ、おはようございます、和真さん」
実夏はにこやかに笑って言ったが、声にはあまり張りがなく、その顔色はおおよそいいとは言えなかった。
退院してから、実夏は日に日に顔色を悪化させていた。原因はわからず、本人は気丈に振る舞ってはいるのだが、衰弱していっているのは、火を見るよりも明らかだった。
「特撮見てたんだ?」
「はい。この時間帯にやってるテレビで、一番気になったんです」
「へえ……!」
俺は少し驚いて、それを声に乗せていた。
「どうかしたんですか?」
実夏はそれに気付いたのか、首を傾げて言った。
「あ、いや、その……記憶をなくす前の実夏も、特撮が好きでさ。この後に一時間連続でやる特撮番組も見てたんだ」
それを聞いた実夏は、一瞬だけ表情を曇らせた。しかしすぐに表情をぱっと明るくして、
「そうなんですか。じゃあ、もしかしたら記憶が戻るのも近いのかもしれませんね」
嬉しそうに言った。
「かもな。んじゃ、朝ごはん作ってくるわ。何かリクエストとかある?」
「あ、お任せします」
「りょーかい」
俺はそう言うと、朝食を作るべく、台所に向かった。
朝食を食べ終え、食器の片付けも終えた頃。
「…………あ、ちょっとお手洗い行ってきますね」
実夏はそう言って立ち上がると、何故か駆け足でトイレに向かった。
「…………?」
俺はその事が何となく気になり、実夏の後を追った。
トイレの前まで移動すると、何か異様な音が聞こえてきた。それは間違いなく、嘔吐している音だった。
「ちょっ、実夏!? 大丈夫か!?」
幸いドアには鍵がかかっていなかった。俺は慌ててトイレのドアを開けた。そこには、しゃがみこみ、便器に向かって嘔吐を続ける実夏の姿があった。
「おっ、おい……!」
俺は実夏の後ろでしゃがみ、実夏の背中をさすり始めた。この位しか、対処法が思い付かなかった。
吐瀉物が胃液だけになるまで、実夏は吐き続けた。
吐くのを止めた実夏は俺を見て、何故か絶望したような表情を作った。
俺はとりあえず実夏に口をゆすぐように言ってから、台所からゴム手袋と消毒薬を調達してゴム手袋を両手に嵌め、便器から飛び散った吐瀉物をトイレットペーパーで綺麗に拭き取ってから、消毒薬をかけた別のトイレットペーパーで床を拭いた。トイレットペーパーは流し、ゴム手袋は洗ってからビニール袋に入れて密閉してゴミ箱に捨てた。
「さて……。実夏ー! 終わったぞー!」
俺の言葉に、返事はなかった。
「あれ……?」
リビングを覗いてみたが、実夏はいなかった。台所も、同様だった。
「二階か……?」
俺は二階に上がり、実夏の部屋の前まで移動した。ドアに向かってノックをしたが、反応はなかった。そっとドアノブを回して開けようとしたが、ドアには鍵がかかっていた。
「実夏……? おーい、実夏! 鍵かかってるって事はいるんだろ?」
俺がそこまで言った所で、鍵が開く音が聞こえ、ドアノブが回り、ドアが少しだけ開いた。その隙間から、実夏が右目だけで俺を見た。その目には、何やら暗いモノが宿っているように見えた。
「……どうしたんだよ? 具合悪いなら具合悪いって言いな。大丈夫だから」
「…………」
「実夏?」
「…………そうじゃ、ないんです……」
「……何が?」
「…………」
実夏は暫く考えるような素振りを見せて、
「……あの、ちゃんと話すので、入ってもらっていいですか?」
俺を右目だけで見て言った。決意が籠った声色だった。
「……わかった」
俺がそう答えて一歩下がると、実夏はドアを完全に開けながら、俺が通れるようにドアの脇に移動した。
俺が部屋に入ると、実夏はドアを閉めた。
「あの、机の椅子、使ってください」
「ん、わかった」
俺が机の椅子を引っ張り出して実夏の前で座ると、実夏はベッドに静かに座った。
実夏は暫くの間沈黙して、
「……ずっと、食べ物は吐き出していたんです」
訥々と、話し始めた。
「この家に来た日から、ずっと、ずっとなんです……。和真さんやお父さん、お母さんが作ってくれる食べ物は、もちろん凄くおいしいんです。……なのに、体が受け付けないんです……。どうしても、駄目なんです……」
最後の方はすすり泣きをしながら、訥々と話した。
「…………実夏…………」
俺は、こういう時にかける言葉を知らなかったし、咄嗟に見つける事も出来なかった。
「……怖いんです」
「な、何が……?」
唐突に話が変わったように感じて、俺は少し動揺しながら聞き返した。
「お母さんに聞いてみたら、記憶がなくなる前の私は、こんなのじゃなかったそうです……。それに、最近、途切れ途切れに何かを思い出しそうになるんです……。でも、そこにいる私は私じゃなくて……まるで、全部思い出したら、私がいなくなる、みたいで……でも、皆、私が記憶を思い出すのに期待していて…………私は、私は何なんですか……? 学校の皆も、先生も、お父さんもお母さんも、和真さんも……皆、私を見ているようで、私じゃない別の誰かを見ているんです。それが凄く怖いんです……『お前は邪魔だ、お前はいらない』って言われてるみたいで……実際そうで……私は、私は……」
実夏は俯いて、最初の方は訥々と、最後の方には泣きながら言った。とうとう両手で顔を覆い、泣きじゃくり始めた。
「…………」
こういう時、どう接すればいいのか、本当に、わからない。
でも、ここで何もしなかったら、今目の前にいる『実夏』が消えてしまうのではないか……?
俺は、
「…………!」
実夏を、そっと抱きすくめた。
「……実夏、そんなに悩んでいたのに、気付けなくて、ごめん……。記憶なんて思い出さなくていい。それで実夏が苦しむんだったら……。ごめんな……。記憶喪失になった事ないから、痛みを知る事は出来ないけど……でも……俺は、今の実夏でいい。実夏は実夏だ。それ以上でもそれ以下でもないし……ごめん、何か、何を言っても、日和見な……当たり障りのない事言ってるみたいで……」
俺は、今にも壊れてしまいそうな実夏を、優しく抱き締めた。ある程度カウンセリングの本は読んだのだが、これしか思い付かなかった。
実夏は、俺の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。泣き続けた。
日が沈み、夜の帳が落ち始めるまで、泣き続けた。
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