好きだったモノ

 医者からの説明を聞き終えたらしい父ちゃんと母ちゃんが戻ってきて、実夏が患者衣から母ちゃんが持ってきた服に着替えた後、退院の手続きを取った。

 その間に父ちゃんに聞いた話だと、実夏の記憶がいつ戻るのかはわからない事と、脳波が不気味な程に安定しているという事を説明してもらったそうだ。

 来た時と逆の道順を何事もなく辿り、俺達四人は自宅に戻ってきた。

 車から降りると、実夏はぼんやりと家を見上げ始めた。しばらくそうしていたので、


「どうしたの? 何か思い出せそうなの?」


 堪らなくなったのか、母ちゃんが実夏に話しかけた。


「あ、い、いえ、何も……。ただ、今日からここで暮らすんだなって」


 実夏は、少しだけ困った様子だった。

 母ちゃん、気持ちはわかるけど、思い出す事を無理強いすんなよ……。



 俺は実夏を二階の実夏の部屋に案内した。実夏は多少興味を示していたが、俺達と話をしたいと言ってすぐに部屋を後にした。

 リビングに移動してからは、家族四人でずっと話をした。

 実夏がどういった人間だったのかを主として、今までどこに遊びに行ったのか、どこのどんな学校に通っているのか、どんな食べ物が好きだったのか。話題は尽きる事なく、様々な方向に、どんな些細な事でも傾いた。

 夕食の準備をする時間まで、話題は尽きなかった。



 夕食を、記憶喪失になる前の実夏の大好物をテーブルに並べていく。

 ご飯、牛肉と四色野菜(玉ねぎ、ピーマン、赤パプリカ、黄パプリカ)の醤油炒め、ジャガイモとワカメの味噌汁、飲み物は冷たい緑茶。

 恐らくなんてつけなくても、実夏が記憶を取り戻すきっかけを作ろうと言うのだろう。作っている途中から、察していた。


「じゃあ、食べようか。いただきます」


 全員がテーブルの前に座った所で父ちゃんが音頭を取り、俺、実夏、母ちゃんがそれに続いた。


「実夏、口に合うか?」


 俺は醤油炒め担当だったので、少し不安だった。

 実夏は俺をちらりと見て、口の中の炒め物を飲み込んで、


「……おいしいですよ、とっても。和真さんが作ったんですか?」

「あ、ああ、そうだよ。おいしいなら、何よりだ」


 実夏は、何故か俺だけを『和真さん』と呼んでいた。少し違和感は残るが、無理に呼び方を変えさせずに、そのままにしている。


「味噌汁も飲んでみて」


 間髪入れずに母ちゃんが実夏に聞いた。母ちゃん、何も対抗意識燃やさずとも……。

 実夏は味噌汁が入ったお椀を両手で持ち、静かに味噌汁を飲んだ。


「……おいしいです。お母さんが作ったのですか?」


 実夏は穏やかに言った。


「ええ、そうよ。おいしいなら、嬉しい」


 母ちゃんがちらりと俺を見てから、嬉しそうに言った。


「母ちゃん、別に俺に対抗意識燃やさなくてもいいだろ……」


 俺は若干呆れながら言って、改めて醤油炒めの牛肉と野菜四種類を纏めて口に運ぶ。醤油炒めという名前ではあるが、黒酢や塩胡椒で味を整えてある。自分で作ってるから自画自賛にしかならないが、割りとうまいと思う。


「まあ、失敗しなかったんだし、それで良しとすっか」


 俺はひとりごちて、団欒に加わる事にした。



 その日の深夜、全員が寝静まった後。

 全ての部屋の明かりが消えた中で、一部屋だけ、明かりがついていた。

 そこは、トイレだった。


「げほっ、ごほっ……うええ……」


 実夏は、夕食に食べた物を吐き出していた。


「な、んで……げええ……」


 実夏は、目に涙を浮かべながら、トイレに向かって食べた物を吐き続けていた。


「あれ? 電気ついてる……」


 不意に、トイレの外から和真の声が聞こえてきた。


「っ!?」


 実夏はビクリと体を震わせると、周囲に飛び散っている吐瀉物をトイレットペーパーで慌てて拭き取り、トイレに流した。


「消し忘れたのかな……」


 和真はトイレのドアの前に立って言った。

 それを聞いた実夏は、慌ててトイレから出てきた。


「うおっ、実夏か。どしたの? お腹痛かったの?」


 和真が心配そうに言った。


「あ、は、はい。ちょっと食べ過ぎたみたいです……あはは」


 実夏は肩をすくめて苦笑した。


「そ、そういえば、和真さんは何をしにここにいらしたんですか?」

「ああ、喉渇いてな。お茶飲みに降りてきたんだ。そしたらトイレの電気ついてたから、気になって来てみた」

「そ、そうでしたか」

「うん」

「じ、じゃあ、もう寝ますね。お休みなさい」


 実夏はやや強引に会話を終了すると、早足で階段の方へと向かい、やや駆け足気味に階段を登っていった。


「……何だ?」


 和真は、軽く首を傾げた。



「……おいしかったのに……」


 ベッドの掛け布団の中に潜り込み、実夏は困惑を示した。

 実夏は目を瞑って十分程眠ろうと試みたが、眠れず、布団から顔だけを出して周囲を見渡した。幸いな事に、目が馴れているのか、電気をつけずともある程度なら空間を認識出来た。

 部屋の中は、良く言えばシンプル、悪く言えばおおよそ女の子の部屋とは思えない程殺風景だった。クローゼットや本棚、実夏自身が横になっているベッド。全てが白か黒を主体としていて、唯一女の子らしい物と言えば、猫なのか兎なのかよくわからないぬいぐるみが一つだけ枕の隣に置かれているだけだった。


「私は誰なの……?」


 実夏は苦しそうに言ったが、それに答えを示すものはいなかった。

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