第四話
「いいか鏑木、部長追い出したからって弓道部はてめえのモンになったわけじゃねえからな」
茶髪の男子生徒は、道場に入るやいなや宣戦布告のように告げた。本人は決まった、とでも思ったのだろう。しかし自信に満ち
「堀川、うなじを
「おい聞いてんのかコラ、なんか言えコラ」
「大悟、
「
「そっちじゃねえよ! 俺だ俺! 藤原先輩
「喧嘩は駄目だって言ったろ」
「また上半身に力が入りすぎてる」
「無視すんな!」
体操着とジャージに着替えた私は、
「さっきからうるさいぞ」
「てめえが無視するからだろ!」
「道場では静かにしろ」
「大悟、
「藤原先輩も何か言ってやってくださいよ! こいつ俺らがいない間にちゃっかり新入部員入れてるんすよ! しかも女子!」
指を差された私はロボットのようにぎこちない動きで道場の
ただ歩けばいいというものではない。弓道には正しい歩き方がある。両手は体の側面に置いて前後に
曲がり方も決まっている。直角に、ただし内側の足は外側の足に重なってはいけないのだ。頭では分かっているけど、自分が思っているほど体は正確には動いてくれない。
「堀川、下を向くな。四メートル先を見ろと言っただろう」
「
うるっさいわ。
さっきからこの調子で一回も
「先輩、いつまでこれやるんですか。いい加減、別のことしたいんですけど」
「半年は
「はー!?」
信じられないと声を上げたのは私ではなく茶髪のほうだった。
「お前なんにも反省してねえのな! 厳しくしたって部員はついてこねえだろうが!」
「基礎を
「高校の弓道に求めるレベルじぇねえって言ってんの!」
「うるさい。俺の指導に口を出すな」
「やっぱ
「大悟!」
盛り上がってるところ悪いんだけど、私もう百周くらいはしてるよ? このまま回り続けたらたぶんバターになるよ? 昔そんな絵本読んだことあるけど、なんて名前のやつだっけ。
「堀川、止まれ」
鏑木先輩の
「次は座り方と立ち方だ。俺がやるから見とけ」
「そんなのも決められてるんですね」
「
すっと足をひいて座った先輩の
「ちなみにこの動作は全部弓と矢を持ってやるからな」
「私、自信なくなってきました」
何も持ってないのにろくに歩けもしなければ座れもしない。初日とはいえ、けっこうへこむ。自分では器用なほうだと思っていただけにプライドは粉々だ。
「最初から
「なんかコツとかないですか。上手くなる裏技とか」
「だから練習あるのみだ。と言いたいところだが」
「あるんですか!」
絶対無いと思ってたよ。あったとしても教えてくれるわけないって。
鏑木先輩の意外な返答に少し
「なんですかこれ、
「『弓道教本』だ」
「おおー」
開いてみると当たり前だが文字ばかりだった。古びた白黒写真がときどき
「貸してやるから読むといい」
「分かりました。家で読んできます」
借りた教本をぱらぱらめくっていると、視線を感じて顔を上げた。騒いでいた茶髪とそれを押さえていた眼鏡が、
「み、見ましたか、先輩」
「鏑木が笑ってる……」
視線を移してみると、そこには
「ていうかお前、女子!」
「堀川です。なんですか」
「お前、なんで弓道部に入ってんだよ。入れる
「それは昨日までの話でしょ。弓道部は
「こいつが部長ぶん殴ったの知らねえのか?」
「知ってます」
殴った理由もね。
とは言わずに
「大悟、今日は鏑木を責めに来たんじゃないだろ」
「けど藤原先輩。俺、やっぱり
眼鏡あらため藤原先輩は
「部長たちを
茶髪の男子、大悟は
「……でも、悪かったよ」
大悟がもぞりと動いたかと思うと、あぐらから正座に変わった。ひどく
「部長たちが、お前をハブってたのは知ってた。知ってて何もしなかったのは、悪かったよ」
「俺も副部長なのに何もしてやれなかった」
ごめんなさい、と正座した藤原先輩が深々と頭を下げる。鏑木先輩は軽く目を見開いたかと思うと、なぜか私に向かって助けを求めるような視線を向けてきた。入部一日目の私に何をさせるつもりだ。首を横に振り、顎をくいくい動かす。そっちで処理しろというメッセージを、先輩はちゃんと理解したようだ。
「……
「お前のそういうところムカつく。俺はお前らとは
「俺は、自分の責任を他人に背負わせるつもりはない」
「だからそれがムカつくんだって! お前の言ってることは正しいんだけど、正しいだけが良いことじゃねえだろ? 怒るの我慢して苦しくねえか? 俺はお前見てると、ときどき息苦しくて仕方がねえ」
この人は、責めてほしいんだ。鏑木
「本当に、もういいんだ」
「よくねえよ」
「弓道部に
鏑木先輩と目が合い、すぐに
「これからも弓道を続けていいって、言ってもらえたんだ。今も、五十年後も。許してもらえたから、だから、もういい」
「堀川、ちゃんとやってるか?」
穏やかな
「安達? 何しに来たんだアイツ」
「副部長と、えっとそっちは……まあとにかく、二人とも、来てたんだな」
チャン先生は気まずそうに頭を
「堀川、
鏑木先輩に言われ、道場の
「先生、座ってください。あ、あと道場に入るときは一礼するんですって」
「こ、こうか?」
「全然ダメですねー。あそこの国旗に向かってするんですよ。あーダメダメ、背中が曲がってます」
「お前も全然できてないだろ」
背後から鏑木先輩に
「ちょっと様子を見に来ただけだから、すぐに帰るよ。
「何遠慮してるんですか。
「なにが顧問だよ。ろくに顔も出さなかったくせに」
立ち上がった大悟が
「おめーがちゃんとしてねえから、部員が暴走すんだろうが」
「さっきは鏑木先輩が悪いって言ってませんでしたっけ」
「うるせえ。下っ
「はあ? 私、下っ端じゃなくて新入部員なんですけど。ニューフェイスですよ。ちやほやされこそすれ、
「こいつがどれだけ
チャン先生はその
「そっちこそチャン先生のこと知らないじゃないですか」
チャンって
「チャン先生はたしかに最初はやる気ないし無責任だしメタボだったけど、鏑木先輩のために話し合いの場を作ってくれたし、今日だって心配して様子を見にきてくれました。前とは違うんです。メタボ以外は」
「お前が一番貶してんじゃねーか」
先生が自分のお
「いいですか、教師は顧問やって当たり前じゃないんですからね。給料増えないばかりかプライベートの時間が
「おい、安達が顔
「泣かないでください先生。大悟の言うことなんて気にすることないんです」
「お前のせいだろ! あと先輩をつけろ!」
分厚い肉のついた先生の背中を
「先輩のときといい、先生のときといい、とりあえず
視界の
「一年のくせに生意気だぞお前」
「二年のくせに生意気だって、たぶん藤原先輩にも思われてますよ」
「だあああムカつくコイツ! 藤原先輩
「落ち着け大悟! 相手女子! あとお前のこと生意気だと思ってるけど嫌じゃないから!」
やっぱり思ってるんだ。大悟がショックを受けた顔で大人しくなった。打たれ弱いタイプか。
「そもそも二人は何しに来たんですか? 部活、
チャン先生の話じゃ、弓道部員たちは
「辞めてねえよ」
「うん、辞めてない。安達先生、そうですよね?」
話を
「全員分の退部届は受け取っていない。そういうことですね?」
鏑木先輩が
「分かりました。じゃあ藤原先輩、部長をお願いします」
「鏑木、いいの?」
「藤原先輩以外、いないでしょう」
「いや、そっちじゃなくてね。俺たち、弓道部に戻ってきていいのかってこと」
鏑木先輩は不思議そうに目を
「弓道、やりたいんでしょう? どうして俺がそれを邪魔できるんです」
鏑木先輩の弓道に対するあまりにも
「それから梅路が副部長だ。いいよな?」
「へ? お、俺?」
「鏑木先輩、血迷っちゃだめです」
「ぶっ飛ばすぞ一年」
「堀川ですってば。鏑木先輩、本当にいいんですか」
「ああ。俺が部の代表になっても、堀川以外はついてこないだろうし」
「私が当たり前のようについてくると思ってるんですね」
「違うのか?」
返答はしなかった。
副部長か……グフッ、と笑ってるそこの大悟も勘違いするなよ。命令されても私は言うこと聞かないからな。
その日の夜、借りた『弓道教本』を読んだ。最初は意気込んで表紙をめくった
「ねーちゃん、ごはんだって」
もうそんな時間か。家に帰ってから二時間以上が
「何読んでたの?」
「弓道の本」
「
「ソッコー寝たから分かんない」
ベッドの下から『弓道教本』を拾い上げると、弟は興味
「新ちゃん、それ読んだらどんな内容だったか姉ちゃんに教えて」
「中学のときもそう言って僕に読書感想文の本を読ませようとしたよね」
自分で読みなよ、と言われて本は返された。私って本当に駄目な姉だなあ。
「それよりさ、マー
新也はリビングに行きかけていた体を
「マーくん、元気だよ」
「そっか」
「うん。先生が注意してくれたから。マーくんの担任の先生、学校で一番
「もしかして
「そうだよ。ねーちゃん知ってるの?」
「だって私が小学生のときもいたもん。あの先生にキレられたら誰だって泣くね」
イジメなんてしようものならヤクザも真っ青な
「ねーちゃんは? 部活楽しい?」
「まあまあだね」
「なんで弓道部に入ったの?」
「んーなんていうか、……人助け? お
ふぅんと
「ねーちゃんは、
小学三年生の弟の言葉が、高校一年生である私に理解できない。ぶらつかせていた足を
「本当に困ってる人がいたら、今まで
姉ちゃんは今、
弟にとっての理想の姉と、ここにいる私という現実との差が激しくて、姉ちゃんは絶望しそうだよ。
翌日の朝、体の痛みで目が覚めた。全身が、それこそ首の後ろから足の指に至るまで筋肉痛に
スマホを見ると、いつも起きる時間から十分過ぎていた。萌々子からのモーニングコールは入っていない。思い当たるのは、深見さんと
ちなみに自転車を
「おはよう、ホリー」
「おはよう、深見さん」
「そこは『ふかみん』って呼んでくれなきゃ」
「いや、深見さんのあだ名知らないし」
ホリー呼びが当然のようになっているけど、別に支障はないので放置した。
「萌々ちんならまだ来てないよ」
「へえ、
「サッカー部って今日は朝練してたからもう来てるはずなんだけどね」
ところでそのあだ名、勝手につけたと萌々子が知ったら
手段はどうあれ仲良くしたいと思っている彼女の存在は、萌々子が嫌いだと公言する『女子』にはたぶん当てはまらない。
だから萌々子、早く来ればいいのに。
「堀川、スマホ
スマホを鞄に入れて、道場に入る。一礼を忘れたので
すでに道場に集合していた三人は、
「鏑木から昨日教えられたと思うけど、復習として話すね。練習を始める前には必ず国旗に一礼してから唱和をするんだ」
部長に
さっそく国旗に向かって礼をした後、はいと
「表紙を開いて最初のほうにある『
「ほほう」
「じゃ、お願い」
「え。私がですか?」
「いいからとっととやれ」
副部長になった大悟が
昨日は鏑木先輩が読み上げて、後に私が続いた。今は私が読んだあとに、三人の人間が唱和をする。すぐ後ろからする声の重なりは、びっくりするほど力強い。いなくなってしまった部員の存在を
最後の一文を読み上げると、
「ありがとう、堀川さん」
「もうちょっと声を張ったらもっと良かったぞ」
「声ちいせー上に漢字の読み方
大悟は袴を
「この『礼記射義』って
『射法訓』には『
「僕は
「俺が読んだ本だと、たしかに元は孔子の教えらしいな。今の形になるまで様々な人間の手によって
「へえー。孔子ってあの
「それは
「そっちこそ孔子知らなかっただろバカ」
ぼそっと
「大悟」
「……はい」
藤原先輩に
「堀川さんも
「……はい」
二人並んでしゅんとなっていると、藤原先輩は仕方ないなあと言わんばかりに厳しかった表情を
「『射法訓』が弓道における
大悟が彼を
「なんだよ」
「いえ、何も。……ねえ、鏑木先輩」
「だからなんだ」
「四人になりましたね」
先輩の目が
「……そうだな。四人だ」
ひとりじゃない先輩の、そんな顔が見れたのなら。
「お前ら何ぼーっとしてんだ。練習始めるぞ」
「はいはい、行きますよっと」
「
「承知しました」
「いいか堀川、基礎練習ははっきり言ってクソつまらん」
時の流れは早いもので、入部してからふた月がたち、六月になっていた。
「弓道に
矢道の
「弓道の
最近はヌシを見てないんだけど、どうしたんだろう。もしや引っ
「鏑木も藤原先輩もまだ来てない今がチャンスだ。的前練習すっ、ぞ!?」
大悟の頭頂部にビシィッとチョップが決まる。犯人は
「なに勝手なことをしてるんだ」
続きは本編でお楽しみください。
堀川さんはがんばらない/あずまの章 角川ビーンズ文庫 @beans
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