第四話


「いいか鏑木、部長追い出したからって弓道部はてめえのモンになったわけじゃねえからな」

 茶髪の男子生徒は、道場に入るやいなや宣戦布告のように告げた。本人は決まった、とでも思ったのだろう。しかし自信に満ちあふれた顔がくもるのにそう時間はかからなかった。

「堀川、うなじをばせ」

「おい聞いてんのかコラ、なんか言えコラ」

「大悟、おん便びんに」

かかとが浮きすぎだ。さっきも言っただろう」

「そっちじゃねえよ! 俺だ俺! 藤原先輩はなしてください!」

「喧嘩は駄目だって言ったろ」

「また上半身に力が入りすぎてる」

「無視すんな!」

 体操着とジャージに着替えた私は、める三人の目の前で道場内をぐるぐると歩き回っていた。気分は動物園のおりの中をはいかいするレッサーパンダだ。鏑木せんぱいに見守られながら歩くというシュールな光景に、なぜか誰もツッコんでくれない。日置先生は鏑木先輩と話をしてすぐに帰っちゃったし、今道場にいるのは私たち四人だけだった。

「さっきからうるさいぞ」

「てめえが無視するからだろ!」

「道場では静かにしろ」

「大悟、おさえて」

「藤原先輩も何か言ってやってくださいよ! こいつ俺らがいない間にちゃっかり新入部員入れてるんすよ! しかも女子!」

 指を差された私はロボットのようにぎこちない動きで道場のはしから端を歩くのに必死だった。

 ただ歩けばいいというものではない。弓道には正しい歩き方がある。両手は体の側面に置いて前後にらず、踵はできるだけ上げずにゆかを擦るように歩かなければいけないのだ。一見簡単そうに思えるがこれが意外と難しく、左右にふらふらぶれるし、力が入ってポンコツロボットみたいな動きになる。

 曲がり方も決まっている。直角に、ただし内側の足は外側の足に重なってはいけないのだ。頭では分かっているけど、自分が思っているほど体は正確には動いてくれない。

「堀川、下を向くな。四メートル先を見ろと言っただろう」

 きわめ付きには視線の位置すらも決められていた。四メートルってどんだけだよ。ジャイアント二人分か? けっこう遠いな。

あごが上向いてるぞ。かたが上がってる。お前、姿勢悪いな」

 うるっさいわ。

 さっきからこの調子で一回もめられてない。何が善処するだよ。その日のうちににされるとは思わなかったわ。

「先輩、いつまでこれやるんですか。いい加減、別のことしたいんですけど」

「半年はれんだ」

「はー!?」

 信じられないと声を上げたのは私ではなく茶髪のほうだった。

「お前なんにも反省してねえのな! 厳しくしたって部員はついてこねえだろうが!」

「基礎をおろそかにしたらわざはついてこない。今がかんじんなんだ」

「高校の弓道に求めるレベルじぇねえって言ってんの!」

「うるさい。俺の指導に口を出すな」

「やっぱなぐる!」

「大悟!」

 盛り上がってるところ悪いんだけど、私もう百周くらいはしてるよ? このまま回り続けたらたぶんバターになるよ? 昔そんな絵本読んだことあるけど、なんて名前のやつだっけ。

「堀川、止まれ」

 鏑木先輩のとなりでは、茶髪が眼鏡にめにされてぎゃーぎゃーさわいでいる。それを置物か何かのように無視して、先輩は次の指示を出す。

「次は座り方と立ち方だ。俺がやるから見とけ」

「そんなのも決められてるんですね」

きゆうどうは武道だからな。すきのない動作が必要になってくるんだ」

 すっと足をひいて座った先輩のをして、私も座ってみる。ひざが勢いよく床にぶつかり、自分でもぎこちないのが分かった。先輩はさすがというか堂に入っていて、動作に不自然さがない。

「ちなみにこの動作は全部弓と矢を持ってやるからな」

「私、自信なくなってきました」

 何も持ってないのにろくに歩けもしなければ座れもしない。初日とはいえ、けっこうへこむ。自分では器用なほうだと思っていただけにプライドは粉々だ。

「最初から上手うまくできるやつなんていない。練習あるのみだ」

「なんかコツとかないですか。上手くなる裏技とか」

「だから練習あるのみだ。と言いたいところだが」

「あるんですか!」

 絶対無いと思ってたよ。あったとしても教えてくれるわけないって。

 鏑木先輩の意外な返答に少しおどろいていると、わたされたのはオレンジ色のしよせきだった。

「なんですかこれ、こうりやくぼん?」

「『弓道教本』だ」

「おおー」

 開いてみると当たり前だが文字ばかりだった。古びた白黒写真がときどきけいさいされている。文字は大きめで読みやすそうだ。

「貸してやるから読むといい」

「分かりました。家で読んできます」

 借りた教本をぱらぱらめくっていると、視線を感じて顔を上げた。騒いでいた茶髪とそれを押さえていた眼鏡が、ぼうぜんとした顔で鏑木先輩をぎようしていた。

「み、見ましたか、先輩」

「鏑木が笑ってる……」

 視線を移してみると、そこにはぶつちようづらの先輩がいた。

「ていうかお前、女子!」


「堀川です。なんですか」

 ちやぱつの態度は相変わらずでかい。おそらく二年だろうけど、短気で声の大きい男子は苦手だ。この手の連中は、私みたいな地味な女子には何をしてもいいと思っているところがある。

「お前、なんで弓道部に入ってんだよ。入れるじようきようじゃなかったろ!」

「それは昨日までの話でしょ。弓道部ははいにならなかったんだから、入部して何が悪いんですか」

「こいつが部長ぶん殴ったの知らねえのか?」

「知ってます」

 殴った理由もね。

 とは言わずにだまったまま茶髪の顔を見つめ返した。このひとは鏑木先輩がいやがらせを受けていたことを知っていたのだろうか。知っていて黙っていたのだろうか。

「大悟、今日は鏑木を責めに来たんじゃないだろ」

「けど藤原先輩。俺、やっぱりなつとくいかねえっすよ。鏑木が何も悪くないなんて、先輩も思っちゃいないでしょ?」

 眼鏡あらため藤原先輩はあいまいな表情で、こうていも否定もしなかった。

「部長たちをかばうつもりはねえけど、お前の態度にだって問題あったんだからな。基礎練が大事なのは分かるけど、め付けすぎたら反発生むのは当たり前だろうが」

 茶髪の男子、大悟はにくにくしげに鏑木先輩をにらみつけた。態度に問題があったらいじめてもいいのだろうか。苛められるほうにも原因があるというのはよく聞く台詞せりふだけれど、そんなものはしよせん、加害者の言い訳に過ぎない。

「……でも、悪かったよ」

 大悟がもぞりと動いたかと思うと、あぐらから正座に変わった。ひどくごこを悪そうにしながら、頭を下げる。

「部長たちが、お前をハブってたのは知ってた。知ってて何もしなかったのは、悪かったよ」

「俺も副部長なのに何もしてやれなかった」

 ごめんなさい、と正座した藤原先輩が深々と頭を下げる。鏑木先輩は軽く目を見開いたかと思うと、なぜか私に向かって助けを求めるような視線を向けてきた。入部一日目の私に何をさせるつもりだ。首を横に振り、顎をくいくい動かす。そっちで処理しろというメッセージを、先輩はちゃんと理解したようだ。

「……うめは、俺にいつもどおりからんできてただろ。副部長も、気をつかってくれていたのはちゃんと分かってました。俺にまんが足りなかっただけで、二人は何も悪くない」

「お前のそういうところムカつく。俺はお前らとはちがうんだって言ってるみたいで鼻につくんだよ。俺とお前、そんなに変わんねえだろ。おこれよ。俺らが助けてくれなかったからあんなことになっちまったんだって、ここはキレていいんだよ!」

「俺は、自分の責任を他人に背負わせるつもりはない」

「だからそれがムカつくんだって! お前の言ってることは正しいんだけど、正しいだけが良いことじゃねえだろ? 怒るの我慢して苦しくねえか? 俺はお前見てると、ときどき息苦しくて仕方がねえ」

 この人は、責めてほしいんだ。鏑木せんぱいののしりながらも、先輩を助けてあげられなかったことをいている。大悟の言うとおり、この二人はそんなに変わらない。思ったことを思ったように口に出せない不器用さがそっくりだ。

「本当に、もういいんだ」

「よくねえよ」

「弓道部にもどってこられただけで、十分だ」

 鏑木先輩と目が合い、すぐにらされる。気まずくてそうしたのではない、はだれるようなやわらかな視線の動きに、そわりとさせられる。

「これからも弓道を続けていいって、言ってもらえたんだ。今も、五十年後も。許してもらえたから、だから、もういい」

 おだやかな口調で話す先輩の言葉を、大悟と藤原先輩は身じろぎせずに聞いていた。さっきまで納得いかないという顔をしていた大悟はついに観念したのか、ふうと息をはいていた。

「堀川、ちゃんとやってるか?」

 穏やかなちんもくを破ったのは、聞き覚えのあるのんな声だった。チャン先生だ。私の様子を見にきてくれたらしい。

「安達? 何しに来たんだアイツ」

 げんかんへ行くと、先生は道場の外に大きな体をかくし、丸い顔だけを入り口から出していた。何をえんりよしているんだろうか。先生の背中を押して道場の中へとさそうと、鏑木先輩はていねいにおをしたが、大悟は睨みつけ、藤原先輩は不思議そうな表情をかべながらも一応は頭を下げていた。

「副部長と、えっとそっちは……まあとにかく、二人とも、来てたんだな」

 チャン先生は気まずそうに頭をいた。部員の名前も覚えてねえのかよ、という大悟の聞こえよがしの言葉には聞こえないふりをするも視線がうろつく。

「堀川、とん

 鏑木先輩に言われ、道場のとなりにある部室からあまり質が良いとはいえない座布団を出し、道場のゆかに置いた。

「先生、座ってください。あ、あと道場に入るときは一礼するんですって」

「こ、こうか?」

「全然ダメですねー。あそこの国旗に向かってするんですよ。あーダメダメ、背中が曲がってます」

「お前も全然できてないだろ」

 背後から鏑木先輩にかれる。今日私は散々にけなされたんだから、八つ当たりしたっていいはずだ。

「ちょっと様子を見に来ただけだから、すぐに帰るよ。じやしちゃ悪いし」

「何遠慮してるんですか。もんなんだからふんぞり返ってたらいいんですよ」

「なにが顧問だよ。ろくに顔も出さなかったくせに」

 立ち上がった大悟がけんかんあらわき捨てる。チャン先生は座布団に座ることもできず、顔から血の気を引かせていた。

「おめーがちゃんとしてねえから、部員が暴走すんだろうが」

「さっきは鏑木先輩が悪いって言ってませんでしたっけ」

「うるせえ。下っは黙ってろよ」

「はあ? 私、下っ端じゃなくて新入部員なんですけど。ニューフェイスですよ。ちやほやされこそすれ、さげすまれる覚えはありません」

「こいつがどれだけな顧問だったか知らねえだろ。事情も知らねえヤツが口出してくるんじゃねえ」

 チャン先生はそのきよたいをますます小さくさせて反論のひとつもしなかった。げないで大悟の文句を聞いている姿が見ていてあわれで、そして腹が立った。

「そっちこそチャン先生のこと知らないじゃないですか」

 チャンってだれだよと言われたが説明はあとだ。

「チャン先生はたしかに最初はやる気ないし無責任だしメタボだったけど、鏑木先輩のために話し合いの場を作ってくれたし、今日だって心配して様子を見にきてくれました。前とは違うんです。メタボ以外は」

「お前が一番貶してんじゃねーか」

 先生が自分のおなかをしきりに気にしていた。うそがつけないって、美徳である反面、ひとを傷つけるよね。もろつるぎだよ。

「いいですか、教師は顧問やって当たり前じゃないんですからね。給料増えないばかりかプライベートの時間がけずられるんです。こんかつどころか合コンにも行けないんです。先生に彼女ができないのはメタボとダサいファッションと私たち部員のせいといっても過言ではない」

「おい、安達が顔おおってふるえてるぞ」

「泣かないでください先生。大悟の言うことなんて気にすることないんです」

「お前のせいだろ! あと先輩をつけろ!」

 分厚い肉のついた先生の背中をでる。だいじよう、私は先生の味方だ。

「先輩のときといい、先生のときといい、とりあえずみ付きゃいいと思ってるんだから。きゆうどうやると精神がたんれんされるって聞きますけど、どの辺が鍛錬されてるんですか?」

 視界のすみで鏑木先輩がびくっとしていた。すいません先輩、流れだまが当たってしまいましたか。

「一年のくせに生意気だぞお前」

「二年のくせに生意気だって、たぶん藤原先輩にも思われてますよ」

「だあああムカつくコイツ! 藤原先輩はなしてください!」

「落ち着け大悟! 相手女子! あとお前のこと生意気だと思ってるけど嫌じゃないから!」

 やっぱり思ってるんだ。大悟がショックを受けた顔で大人しくなった。打たれ弱いタイプか。

「そもそも二人は何しに来たんですか? 部活、めたんじゃないんですか?」

 チャン先生の話じゃ、弓道部員たちはほかの部活に入ったり、三年は早めに引退して受験勉強に精を出しているらしい。そのおかげで弓道部ははいかたむいたのだ。ん? 悪いのはこの二人じゃない?

「辞めてねえよ」

「うん、辞めてない。安達先生、そうですよね?」

 話をられた先生はまどいながら「たぶん」と言った。そのいい加減な返答にいらったのか、大悟の目元がひくついていた。

「全員分の退部届は受け取っていない。そういうことですね?」

 鏑木先輩がかくにんを取ると、そこは自信があったのか、先生は何度もうなずいた。

「分かりました。じゃあ藤原先輩、部長をお願いします」

「鏑木、いいの?」

「藤原先輩以外、いないでしょう」

「いや、そっちじゃなくてね。俺たち、弓道部に戻ってきていいのかってこと」

 鏑木先輩は不思議そうに目をまたたいた。なぜ俺に許可を求めているんだ、と言いたげだ。

「弓道、やりたいんでしょう? どうして俺がそれを邪魔できるんです」

 鏑木先輩の弓道に対するあまりにもじゆんすいな精神に、全員が息をまされる。弓道バカとは心の中で何度も思ったけど、私の認識はちがっていた。先輩はバカの先を行く、弓道ピュアだ。

「それから梅路が副部長だ。いいよな?」

「へ? お、俺?」

「鏑木先輩、血迷っちゃだめです」

「ぶっ飛ばすぞ一年」

「堀川ですってば。鏑木先輩、本当にいいんですか」

「ああ。俺が部の代表になっても、堀川以外はついてこないだろうし」

「私が当たり前のようについてくると思ってるんですね」

「違うのか?」

 返答はしなかった。こうていしてしまったら、私が弓道部にいて当然だと思われてしまう。私が弓道部にいるのはあくまで他に入る部活がなかったからだ。高校生の部活にありがちなきらめけ青春とかいう暑苦しい空気をきらったからだ。その辺、かんちがいされちゃ困る。

 副部長か……グフッ、と笑ってるそこの大悟も勘違いするなよ。命令されても私は言うこと聞かないからな。


 その日の夜、借りた『弓道教本』を読んだ。最初は意気込んで表紙をめくったおくがあるのだが、気づけば深いねむりに落ちていた。弟にり動かされて目を覚ますと手元にあった本はベッドの下に投げ出されていた。

「ねーちゃん、ごはんだって」

 もうそんな時間か。家に帰ってから二時間以上がっているのに、読書はほとんど進んでいない。序章から始まり、弓道の歴史へと続き、そしてた。小説はときどき読むけど、これほどまでのすいに引きずり込まれたのは初めてだ。『弓道教本』、恐るべし。

「何読んでたの?」

「弓道の本」

おもしろいの?」

「ソッコー寝たから分かんない」

 ベッドの下から『弓道教本』を拾い上げると、弟は興味しんしんでページをめくった。私よりも弟のほうがこの本を理解できそうだ。

「新ちゃん、それ読んだらどんな内容だったか姉ちゃんに教えて」

「中学のときもそう言って僕に読書感想文の本を読ませようとしたよね」

 自分で読みなよ、と言われて本は返された。私って本当に駄目な姉だなあ。

「それよりさ、マーぼうはどう? 元気に悪ガキしてる?」

 新也はリビングに行きかけていた体をもどし、私のベッドに座った。弟の体重を受けてベッドが軽くしずむ。そういえばちょっと前までは同じ部屋のベッドで寝ていたことを思い出す。世間いつぱんとしはなれたきようだいよりも、私たちは仲が良いのだろう。ときどきベッドに並んで座って、学校のことや友達のことを話すことがあった。

「マーくん、元気だよ」

「そっか」

「うん。先生が注意してくれたから。マーくんの担任の先生、学校で一番こわいんだよ」

「もしかして先生?」

「そうだよ。ねーちゃん知ってるの?」

「だって私が小学生のときもいたもん。あの先生にキレられたら誰だって泣くね」

 イジメなんてしようものならヤクザも真っ青なはくりよくりつけるだろう。背が高くてガタイもいい、あの太い声でしかられた生徒は体のしんから震え上がっていた。中にはらすほどびびっていた子もいたっけ。

「ねーちゃんは? 部活楽しい?」

「まあまあだね」

「なんで弓道部に入ったの?」

「んーなんていうか、……人助け? おせつかい焼いたらあともどりできなかった感じ」

 ふぅんとあいづちを打ちながら、新也は足をぶらぶらとさせた。

「ねーちゃんは、だんからまったくやる気ないけど、でも本当にやる気がないわけじゃないって僕知ってるよ」

 小学三年生の弟の言葉が、高校一年生である私に理解できない。ぶらつかせていた足をゆかに置くと、あまり笑わない弟が笑って言った。

「本当に困ってる人がいたら、今までめてたやる気を使って助けようとするよね。だからそのときが来るまで、やる気は大事に取っておくんだ」

 姉ちゃんは今、みような表情をしているのが自分でも分かる。弟から見える私という人間が、『良い人』そのものなのがムズがゆい。私によく似ているという弟の顔を見ていられなくて、そっと視線を外す。

 弟にとっての理想の姉と、ここにいる私という現実との差が激しくて、姉ちゃんは絶望しそうだよ。


 翌日の朝、体の痛みで目が覚めた。全身が、それこそ首の後ろから足の指に至るまで筋肉痛におかされている。歩く座る立つの練習をしただけなのに、起き上がることさえつらいだなんて聞いてないぞ。

 スマホを見ると、いつも起きる時間から十分過ぎていた。萌々子からのモーニングコールは入っていない。思い当たるのは、深見さんといつしよに教室を出て部活に行ったこと。そもそも高校生にもなって友達に起こしてもらうなって話なんだけど、私はただ萌々子の自主性を尊重したいだけなので、相手のいやがさすまで甘んじて受け入れるつもりだ。

 ちなみに自転車をぐのは苦痛だったが、こくゆうかいした。

「おはよう、ホリー」

「おはよう、深見さん」

「そこは『ふかみん』って呼んでくれなきゃ」

「いや、深見さんのあだ名知らないし」

 ホリー呼びが当然のようになっているけど、別に支障はないので放置した。

 かばんを机にけながら萌々子の姿をさがす。ろう側に近い席に座っているはずの友人の姿は見えなかった。トイレかな。

「萌々ちんならまだ来てないよ」

「へえ、めずらしい」

「サッカー部って今日は朝練してたからもう来てるはずなんだけどね」

 ところでそのあだ名、勝手につけたと萌々子が知ったらげきするに違いない。さすがに無視できずに文句をつけてくるだろう。おそらく深見さんはそれをねらっているのだ。

 手段はどうあれ仲良くしたいと思っている彼女の存在は、萌々子が嫌いだと公言する『女子』にはたぶん当てはまらない。

 だから萌々子、早く来ればいいのに。


「堀川、スマホえよ。練習始めるぞ」

 スマホを鞄に入れて、道場に入る。一礼を忘れたのであわてて足を止めて礼をした。

 すでに道場に集合していた三人は、みんな一様にはかま姿すがただった。いいなあとうらやましく思うのは、私だけ学校指定のダサいジャージと体操着を着ているからだ。袴姿というだけで、あの大悟ですら普段よりも八パーセント上乗せで格好良く見える。消費税並みのポイントアップを可能にする袴、私が着用できるのは練習が終わってからだそうだ。

「鏑木から昨日教えられたと思うけど、復習として話すね。練習を始める前には必ず国旗に一礼してから唱和をするんだ」

 部長にしようかくした藤原せんぱいやさしい口調で教えてくれた。道場によっては国旗が掛けじくだったりかみだなだったりするらしい。

 さっそく国旗に向かって礼をした後、はいとわたされたのは昨日借りた『弓道教本』と同じものだった。

「表紙を開いて最初のほうにある『らいしや』と『しやほうくん』。これを唱和します」

「ほほう」

「じゃ、お願い」

「え。私がですか?」

「いいからとっととやれ」

 副部長になった大悟がえらそうに命令してくるのを無視して、先輩たちの前に出た私は正座をした。足のこうの骨がごりごりと床に当たって痛い。どうにか収まりのいい位置をいだすと、国語の授業で朗読させられるときと似たずかしさを感じながらたどたどしく唱和を行った。

 昨日は鏑木先輩が読み上げて、後に私が続いた。今は私が読んだあとに、三人の人間が唱和をする。すぐ後ろからする声の重なりは、びっくりするほど力強い。いなくなってしまった部員の存在をめるかのように、三人は声を張り上げる。

 最後の一文を読み上げると、あんのため息がこぼれでた。

「ありがとう、堀川さん」

「もうちょっと声を張ったらもっと良かったぞ」

「声ちいせー上に漢字の読み方ちがってたな」

 大悟は袴をんで転べばいい。黒い感情を心の中でき出した。

「この『礼記射義』ってだれが書いたんですか?」

『射法訓』には『よしじゆんせい』と名前が書かれているのだが、『礼記射義』にはそれがない。どこぞの偉い弓の先生が書いたのだろうか。大悟と視線が合うと、さっと外された。知らないな、こいつ。

「僕はこうだって教えられたけど」

「俺が読んだ本だと、たしかに元は孔子の教えらしいな。今の形になるまで様々な人間の手によってへんさんされたらしいから、正確な作者は書けないんじゃないか?」

「へえー。孔子ってあのさんごくに出てくる頭の良いひとでしたっけ?」

「それはこうめいだろバカ」

「そっちこそ孔子知らなかっただろバカ」

 ぼそっとつぶやいた台詞せりふはしっかりと大悟に届いていた。くわっと目をいた大悟がかくのポーズを取る。

「大悟」

「……はい」

 藤原先輩にいさめられ、大悟は大人しくなる。ざまーみろとほくそんでいると、

「堀川さんもちようはつしない。あと大悟は先輩だ。気に食わないのは分かるけど、道場の中では礼をって接してください」

「……はい」

 二人並んでしゅんとなっていると、藤原先輩は仕方ないなあと言わんばかりに厳しかった表情をほどいていった。

「『射法訓』が弓道におけるわざを、『礼記射義』は理念について説いているんだ。どちらも欠いてはいけないから、練習を始める前には唱和をするんだよ」

 大悟が彼をしたう理由のいつたんが分かった気がする。鏑木先輩がむち、鞭、あめ、と見せかけて鞭だとしたら、藤原先輩は飴と鞭のバランスが非常にすぐれている。どうしてこの人が部長ではなかったのだろうか。藤原先輩が弓道部を率いていれば、鏑木先輩は誰もなぐらずに済んだのかもしれない。まあそうなれば、私は今ここにいないんだろうけど。

 素人しろうとだろうとようしやせず初日から鏑木ズブートキャンプを決行したぼう鏑木氏に視線を移すと、ずうたいに似合わずわいらしく首をかしげられたので思わず笑ってしまった。

「なんだよ」

「いえ、何も。……ねえ、鏑木先輩」

「だからなんだ」

「四人になりましたね」

 先輩の目がいつしゆん大きく見開いて、それからゆっくりと細められていく。たくさんの部員に囲まれ、ひとりきりだった先輩。

「……そうだな。四人だ」

 ひとりじゃない先輩の、そんな顔が見れたのなら。

「お前ら何ぼーっとしてんだ。練習始めるぞ」

「はいはい、行きますよっと」

れい!」

「承知しました」

 ひまじんのおせつかいも、少しはむくわれる気がするのだ。



「いいか堀川、基礎練習ははっきり言ってクソつまらん」

 時の流れは早いもので、入部してからふた月がたち、六月になっていた。

「弓道にあこがれて入部したのに、何ヶ月も弓を引けず基礎練ばかりできてめていくヤツは多かった」

 矢道のりようわきに植えられたツツジが満開になっている。そういえば今日から梅雨つゆ入りか、いやだなあ。

「弓道のだいは的中だ。ててナンボだ。というわけで基礎練は今日で終わりとする」

 最近はヌシを見てないんだけど、どうしたんだろう。もしや引っしか? エサがれなくなったのだろうか。

「鏑木も藤原先輩もまだ来てない今がチャンスだ。的前練習すっ、ぞ!?」

 大悟の頭頂部にビシィッとチョップが決まる。犯人はおくれて部活に来た鏑木先輩だった。

「なに勝手なことをしてるんだ」








続きは本編でお楽しみください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堀川さんはがんばらない/あずまの章 角川ビーンズ文庫 @beans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ