第三話


 ぼうした。

 時計は八時四十分から始まる一時間目の授業にギリギリ間に合うか間に合わないかの時間を指している。まくらもとに置いてあったスマホの着信は三回。すべて萌々子からだった。

 いつもならあきらめて二時間目から登校している私だが、思うところあってあわてて家を飛び出した。片手には朝食代わりのバナナを握り締め、マウンテンバイクにまたがり、学校までの道のりを過去最高速度で走りぬけた。その形相たるや、女子高生かゴリラかと問われれば、おそらく後者であっただろう。

「間に合ったぁ」

 授業開始のチャイムと同時にすべり込んだ教室には、先生はまだ来ていなかった。私は、思わずあんとともにつぶやいていた。息を整えながら鞄から教科書を取り出していると、前の席の女子がとつぜん振り向いて声をけてきた。

「堀川さんっていつもギリギリかこくだよね。家遠いの?」

 同じクラスになって一ヶ月。初めて話しかけてきたその女子の名前は……なんだっけ。そう当番は違うし、まともに顔を見たのも今日が初めてだしでまったくかんでこない。そんな私のかつとうを察したのか、彼女は「ふか」と名乗った。背中までまっすぐにびたかみりんとしたまなしが大和やまとなでしを思わせる。しようっけはまるでなく、鼻の辺りに散ったうすいそばかすがあいきようを感じさせた。

「家は遠くはないかな? 自転車で二十分くらいだよ」

「へえ、いいなあ。私は自転車でその倍くらいはかかっちゃうの。バスもあるんだけど一時間に一本な上に駅までだから、そこから学校まで歩いてこなくちゃいけないのよね」

「そりゃ不便だ」

田舎いなかモンはつらいのよ」

「田舎モンって……深見さんはおじようさまっぽいけど」

「あらそう? よく言われる」

 わざとらしく髪を耳にかける仕草をして、彼女はニッと笑った。じようだんなんて言いそうにないタイプに思えたが、中身はずいぶんとお茶目な性格をしているようだ。

「先生、おそいね」

「そうだね。階段ダッシュで上ってくるんじゃなかった」

 一段飛ばしでけ上がってきたのに先生はいまだにやってこない。これで自習だったらゴリラになった意味がまるでないではないか。

 今日の日直の子が職員室までかくにんしに教室を出て行った。教室の空気は早くも自習ムードで、クラスメイトたちはえんりよなくおしやべりを始めた。

「堀川さんってつうに喋れるのね」

「そりゃ喋れるよ」

「てっきり植田さん以外とは喋りたくないんだと思ってた」

「そう見えた?」

「うん。むしろ植田さんのほうが喋らせたくないって感じかな」

 深見さんの視線が横にずれて、またニッとくちびるり上げた。直後に肩に誰かがれた。萌々子だった。

「伊与、電話したのに切ったでしょ!」

「え、そうなの? 覚えてない」

「モーニングコールしてもうめき声だけ聞こえてくるし、よく今日は遅刻しなかったね」

「本気出したからね。私が本気出したらこんなもんだよ」

「本気出す場面ちがってるから」

 萌々子があきれた顔で私の机におしりせた。周りをわたすと、ほかの子たちも席を立って自由に会話をしている。

「伊与はもう高校生なんだから、いい加減、自分で起きなきゃよ」

 説教する萌々子の向こうで、「ほらね」と言いたげに笑う深見さんの顔が見えた。

 けれど私は友達が少ないことを不安に思ったことは一度もない。せまい世界には、狭い世界なりのごこの良さというものがある。ただ萌々子と私の違いは、入ってくる人間をこばむか拒まないか、それだけだった。


「堀川、ちょっと」

 昼休み、一階に下りて食堂に向かう私を呼び止めたのはチャン先生だった。ちょいちょいと手招きされたので、萌々子には先に行ってもらうことにして、先生と一緒に中庭へ向かった。

「放課後、行こうと思ってたんですよ」

「その前に伝えておきたいことがあってな」

 まさかもうはいが決まったのだろうか。中庭にあるベンチに座った私は、きんちようかんから両手を無意識ににぎった。

「鏑木がまだ来てないんだ」

 げたなアイツ。

 あれだな、停学明けで気まずくなったんだろうな。分かるよ。私だって一時間目の授業のちゆうで教室入るの気まずいもん。反省していますという顔でコソコソ入ればいいのか、逆に堂々と入って遅刻しましたが何か? という態度で入ればいいのか、どちらが正解なのかいまだに分からない。どちらもためしたけど先生の目はとても冷たかった。

「今日中に来ないと、廃部ですか」

「うーん……そこが今、問題になってるんだよなあ」

 先生は困り顔でぐせのついた髪をいた。

「昨日のことは日置先生から聞いた。それで今日の放課後、部員たちを集めて話をすることになってるんだ」

「私も行っていいですか」

「駄目だ。お前は部員じゃないだろ」

「でも」

 食い下がる私を制するように、先生が手を上げた。それでも引き下がれなくて、不満が顔に出た。

「ちゃんとやるから……やるからそのシャクレ顔はやめろ」

「ほんとにちゃんとせんぱいの話も聞いてくれますか」

「聞くよ。鏑木の気持ち、分かるから」

 人の心のうといと言われる私でも、先生の表情から察するものがあった。これ以上食い下がるのをやめてベンチに座りなおす。

 授業帰りだったのか、先生は大量のノートと教材を持っていた。一番上にある教科書を見て、彼が日本史担当であることを私は初めて知った。

「先生ってなんで弓道部のもんになったんですか」

ひまだろって押し付けられたから」

 無責任な態度の理由のいつたんが明らかになり、私は白けた視線を先生に送った。先生は特に悪びれた様子もなく、眼鏡のレンズをシャツのすそいていた。

「俺だけじゃないぞ、ほかの教師だってだいたいこんなもんだ。みんないやいややってんだよ。部活の顧問になったところで給料が増えるわけでもないんだから、好き好んでやる人間のほうが少ないよ」

「そういう大人の事情は知りたくなかった」

「いや、知っとくべきだ。いいか、部員は俺のことを無責任だなんだって言うけど、俺に言わせてみりゃ部員のほうが無責任だよ。大人の事情も知らずに無責任に青春してるんだから」

 休日出勤しても手当がうんぬん言われても困るんだけど。あと私、生まれてこの方青春なんてしたためしがないから。合唱とか運動会とか、全力で力をいてきたから。全力で力を抜くってなんだって言われたら説明は難しいけど、とにかく青春なんてものは私の人生においてはえんなものだ。

「でも、そんな俺の態度がいけなかったのかもしれんなあ」

 ベンチのはじっこに置いた教材に手を載せて、チャン先生は丸々とした体を小さくさせてうなれていた。

「部活ってのは、本来は逃げ道であるべきなんだよ」

 拭いた眼鏡をそのままに、先生はぽつぽつと話し出した。

「教室なんていう狭い空間から解放されて、のびのびやれる場所が部活なんだよ。そうだろ?」

 授業が終わるとそつこう家に帰っていた元びんわん帰宅部の私に同意を求められても困る。

「だからそういう場所で、イジメなんか起きてちゃいかんわけだよ。起こさせちゃ、いかんわけだよ」

「え、おお? 先生、泣いてる?」

 今日は四月にしては暑いから、先生のほおを伝っているのがあせなのかなみだなのか判別がつかなかった。あと私、ハンカチ持ってない。

 おろおろしていたら、先生はノリのきいた自前のハンカチを取り出して顔全体を拭いた。眼鏡をかけなおした先生は、いつものチャン先生にもどっていた。

「すまん。変なところ見せたな」

「いや、お気になさらず」

「鏑木が来るかどうかは分からんが、ちゃんと部員全員から話は聞く。決め付けたり、めんどうくさがったりしないから、お前は道場で待っといてくれないか」

きゆうどうの道場で?」

「ああ。結果はどうであれ、そこで聞きたいだろ」

 私を見下ろすチャン先生の顔はとてもおだやかでやさしくて、見たことのない光景にまばたきが止まらなかった。部活に対する熱意も誠意もないひとだと思っていたから、なおさらだ。

 ぱちぱちぱちぱち、しきりに目を開閉させる私に気づいたのか、先生はやわらかな表情をだいこわらせていく。やがていつものぶつちようづらに戻ると、教材をかかえて逃げるように去っていった。真っ赤な耳をそのままに。


 放課後、チャン先生から預かっていたかぎを使って道場に入ると、言われていたとおりにシャッターを開けてかんをした。

 道場内は二週間も使われていなかったせいか、少しホコリっぽくなっていた。おくたよりに倉庫から見つけたモップでゆかれいにすると、あとは道場のふちこしけて、知らせを待つことにした。

 弓道場はグラウンドのけんそうからは切りはなされたところにあるせいか、ひどく静かだった。ときどきやってくるのは鳥かちようちょくらいなもので、のどかな風景についついぼんやりしてしまう。

 足元を行きうアリを熱心に観察していた私の背後で、とびらが開く音がした。もう結論が出たのだろうか。かべにかけられていた時計を見ると、話し合いが始まって五分とたっていない。やがてくつぐ音が聞こえ、道場に姿を見せたのは、

「なにしてんですか、鏑木先輩」

 向こうも向こうで私がいるとは思っていなかったらしい。立ちくしたまま近寄ってこない。

「話し合い、もう始まってますよ」

 話しかけてみたが反応がない。こくだというのにゆうだな。

 いつまでたっても動こうとしないので、呼びかけをあきらめてアリの観察を再開した。すると視界のはしに動く気配を察知した。トカゲだ。はいすいこうふたすきから体を半分出していたそれは、するするとい出してくると私の目の前を横切っていった。

「ヌシだ」

 今度はすぐ後ろで声がした。鏑木先輩は私のとなりこしけると、声に反応して動きを止めたトカゲを指差して言った。

「今の時期になると出てくるんだ。日置先生の話じゃ、二十年前の弓道部創立からずっといるらしい」

「本当に? めっちゃ長生きですね」

「まあたぶん別のトカゲになってるだけだろうけどな」

「じゃあヌシじゃないじゃん」

「そうだな」

 道場のヌシはまたするすると動き出し、別の排水溝の蓋の中へと入っていった。

「日置先生って、別の道場で先生をやってるんですよね」

「ああ。市の弓道協会の会長でもあるんだ。俺はそこに中学のときから通ってた」

「ってことは三年以上はやってるんですね」

「今年で四年目になる」

「じゃあベテランだ」

 鏑木先輩はしようして首をった。

「日置先生は五十年だぞ」

 どことなく常人ばなれしたふんを放っていたのは、半世紀におよたんれんたまものなのだろうか。一見してつうのおじいちゃんである日置先生だけど、話してみるとどこかちがうのが分かる。うちのおじいちゃんが無害なおじいちゃんだとしたら、日置先生にはときどきぶつそうというか、おっかないしゆんかんがあるのだ。

 中学生のときから知っている鏑木先輩なら、きっと同意してくれるだろう。隣に座る先輩を横目でぬすみ見ると、彼は時間なんてまるで気にしていない様子で遠くに視線をやってぼうっとしていた。

 話し合い、行かなくていいのかな。

 このまませんぱいが姿を見せなければ、前と変わらない、一方的に悪者にされて終わるんじゃないだろうか。それでもいいと思っているから、今ここにいるのかもしれないけれど。

「お前、なんで弓道部に入ろうと思ったんだ?」

 しばすみに生えた綿毛のたんぽぽを見つめて考え込んでいた私に、不意に先輩が話しかけてきた。

「思い出したんだ。見学に来てたのお前だろう」

 その前にもゴミ捨て場で会ったんだけど、そっちは覚えていないようだった。私にしてみれば、あっちのほうがよっぽどインパクトがあったんだけどな。

「なんでって、熱心な活動してなかったからですかね」

「なんだよそれ」

「私、本当はどこの部活にも入りたくなかったんです。弓道部はだるっだるだと評判だったので、これだね! と思ったわけです」

「……ひどい理由だな」

 たぶん先輩みたいな人間には、人生をおよそ三十パーセントの力で生きている私のような人間の心理は理解できないだろう。私にとって百パーセントの力を出すのは、車にかれそうになったときか遅刻になりそうになったとき、これくらいでいい。家電だって省エネを売りにしているんだから、人間が省エネをかかげたっていいじゃないか。

「先輩がいないと部活がなくなっちゃうんです。困るんです。だから、できればでいいんで弓道部をめないでくださいね」

「自分勝手な言い分だな」

「だって私は私のために生きてますから。自分が一番です。先輩も、自分が一番いいように生きてください」

 私にだけは人生を語られたくはないだろうが、今の先輩ときたら絶賛人生を見失い中なので許されるだろう。

 先輩は険しい顔をさらにゆがめ、き出すように言った。

「許せないんだ」

 なぐった相手のことをだろうか。それは当然だろう。うなずいた私に、しかし先輩はこぶしにぎり合わせながら、言いにくそうにうつむいた。その顔はじる人間の表情そのもので、不思議に思った私は首をかしげずにはいられなかった。

 しゆうしんと戦い続けた先輩は、やがてとつとつと話しはじめる。まるで罪を告白するかのように、いるように。

「俺は、なんていうか、その、自分がもっと、すごい人間だと思ってた」

 ひとつ呼吸を置いて、先輩はさらに言いつのる。

「部長たちにいやがらせを受けても、動じちゃいけない。何をされても平然としていようって、はじめて道具をかくされたとき、思った。自分は違う、あいつらとは違うんだから、まん、しようって」

 私は口をはさまず、息を殺して、先輩の言葉を聞いた。

「なのに、できなかった。お前が昨日言ったとおり、カッとして、気づいたら殴ってた。俺は、俺は、弓道が好きで」

 大好きで、

「それに見合う、人間になりたくて、なれているんだと信じてた。でもそうじゃなかった。殴ってしまったことよりも、俺は、俺が思うほど自分がすごい人間じゃないと気づいたことのほうがショックだった。弱くて、みじめで、他人を思いやれない人間。それが俺だと分かったら、恥ずかしくて、許せなかった」

 俯いた先輩の耳は、真っ赤になっていた。このひとは本当に自分を恥じているのだ。

 こんなにも自分に対して厳しい人間がいることに、私はきようがくえてもはやあきれてすらいた。あまりにも要求が高すぎて、自分で自分をがんがらめにしている。今このひとを苦しめているのは、だれでもない、鏑木先輩自身だ。

「なんというか、先輩ってめんどうくさい人間ですね」

 私は私を面倒くさいとは思わないが、周囲は私を面倒くさいと言う。その気持ちが、今ようやく分かった。

「自分がすごいなんて、ほとんどの人間が思ってますよ。そう思ってなくちゃ現実というあらなみわたっていけないから、だからみんな、自分はすごいんだってだまし騙し生きてるんです。そうじゃないって心のどこかで分かっていても、気づかないふりして、きよせい張って生きてるんです」

 私だってそうだよ。自分で自分をすごいと思ってるよ。目に見える結果なんてなくても、やればできるんじゃないかとか、実はかくされた才能があるんじゃないかとか、そう思って生きてるんだよ。

「理想と現実が違ったからなんだっていうんです。死ぬわけじゃあるまいし、いちいちショック受けてたら本当に死にますよ。ちなみに理想と現実が違うことをせつっていうんです。味わえてよかったですね」

 先輩のかたを気安くたたいてやると、向こうはぜんとしていた。血を吐くようなおもいでおのれを告白した人間に対してする態度ではないのは分かってる。でもいいの、このひと面倒くさいから。

「自分が許せないんなら、理想と現実の間をめる努力をしたらいいじゃないですか。それをウジウジウジウジ停学明けてもなやんでるなんて、弱くてみじめで他人を思いやれない上に、へっぽこも付け足したらどうです」

「誰がへっぽこだ」

「だってそうでしょ。先輩、これからもそうやって自分を責めてたら、将来は引きこもりになってますよ。私には見える。大学行かずに親を泣かせる先輩の姿が」

「勝手に予想するな」

 先輩の右手が上がり、ハッとして下げられる。ま忌ましそうに私をにらみつけてくる視線が実にここ良い。今の先輩ときたら、実に男子高校生らしい幼さに満ちていた。

「先輩」

 まだ何か言うつもりかと、鏑木先輩がけいかいする姿勢を見せた。

「私、先輩を尊敬します」

「……どういう意味だ?」

「先輩はたぶん、誰よりも自分に誠実なんだと思います。だから苦しくなっちゃったんだと思います。私は、そういうのいやだから、苦しくならないようにだんから力をいて生きてるんですけど」

 必死になったらなった分だけ、かなわないときはしんどくてつらいから。私は私をがっかりさせたくなくて、やる気なんて出さなかった。

「でも先輩は、どんなに苦しくても傷ついても、やっぱり自分に厳しく接していくんでしょうね。きゆうどうも辞めない。周りに何を言われても、弓道が好きだから、ずっと続けていくんです。たぶん五十年以上」

 先輩はおどろくと、三歳くらい若返るようだ。まるで中学生みたいに無防備な顔を見て、思わずみがこぼれた。

「そんな先輩を、尊敬します」

 鏑木先輩の顔が、静かに、ゆっくりと変わっていくのが分かった。感情があふれ出す。それを見ないように顔をそむけてあげたことを、先輩、感謝してほしい。

 えつえるようないきづかいがしばらく続く。そして先輩がとうとつに立ち上がった。

「待ってろ」

「はい?」

「ちょっと行ってくるから、お前、帰るなよ。ここで待ってろ、いいな」

「分かりました」

 よし、と頷いて先輩は道場から飛び出していった。けていく音がだいに遠ざかり、やがて消える。

 ふと視線を足元にやると、ヌシがいた。やったね、と声をかけると、ヌシはするするとはいすいこうふたい、やがてどこかへと去っていった。


 話し合いがあった翌日、六時間目の授業が終わると同時に、机の横にかけていた学生かばんと、ジャージと体操着が入った鞄を肩にかけて立ち上がった。

「堀川さん、これから部活?」

「おっす。今日が初日っす」

「張り切ってるねー」

 前の席の深見さんもこれから部活だそうだ。ちゆうまで行こうとさそわれたのでりようしようした。

「萌々子、そうがんばってね」

「うん。伊与も部活がんばって。あとでお話聞かせてね」

 今週の掃除当番になっている萌々子に声をかけ、教室を出た。

「おーこわ。植田さんに睨まれちゃった」

 となりを歩く深見さんはまったくこたえていない様子でニヤニヤ笑っていた。見た目ははかなげな大和やまとなでしなのに笑い方が非常にゲスい。

「萌々子のこと、きらい?」

「嫌いじゃないよ。てきがいしんき出しな感じとかなおで好感持てる。笑いながら腹の中ではどす黒いこと考えてるヤツよりよっぽどマシだわ」

 ゲスゲス笑う深見さんとは、昨日初めて会話をしたのをきっかけに仲良くなった。そこに萌々子も加わって、休み時間のたびに三人でおしやべりしている。萌々子からは絶対に深見さんに話しかけないけど。

「植田さんって女子から嫌われるタイプよね」

「まあたしかに。でも萌々子も女子嫌いだから、お相子なんだって」

「言うねえ! どうしよう私、けっこう植田さん好きだわ」

 よかったな萌々子。深見さんに気に入られたみたいだぞ。

 校舎の一階に下りると体育館があるほうへと歩く。会話の途中で、深見さんが女子サッカー部であることを知った。

「茶道部だと思ってた」

「残念。私、紅茶派なの」

 だまっていれば百合ゆりもかくやというで立ちなのに、ひとは見かけによらないものだ。目指せなでしこジャパンよ、と言って深見さんはゲスくないからっとした笑みをかべた。

「堀川さんは弓道部だっけ。暴力事件起きたって聞いたけどだいじようなの?」

「その件については解決済みだから大丈夫、かな」

 かくした道具はあとでちゃんと返すつもりだった。

 いやがらせをしていた部長たちの言い分だ。鏑木せんぱいはそれを信じるという。信じて許すから、自分が弓道部にもどることも許してほしいと頭を下げてたのんだそうだ。

 チャン先生いわく、先輩は決してがいしやぶったりはしなかったらしい。片方がより悪いとされてしまえば、きっとこんが残っただろう。だから先輩のしゆしよういは立派だったとしきりにめていた。

 話し合いの様子を聞かされた私は、それは演技だ、とはてきできなかった。先輩、道具隠されてブチ切れてたからね。自分はそんなにすごい人間じゃないって言ってたからね。いかりをまんしてこれ以上火が大きくならないように立ち回ったんだと私は予想している。チャン先生が褒めてる横で、先輩は明後日あさつての方向を向き『結果よければすべてよし』みたいな顔をしていたのがそのしようだ。

「ホリー、私グラウンドだから。また明日あしたね」

「あ、うん」

 ホリー? と思ったがスルーして手を振ってお別れした。

 グラウンドからはなれ、ゴミ捨て場を通り過ぎる。弓道部の道場は今日もひっそりと静まり返っていた。

 とびらかぎは開いている。こっちは授業が終わってすぐ来たっていうのに、早いなあと感心した。中に入ると、鏑木先輩が道場の真ん中に立っていた。

 何をするでもない。そこに立っているだけで幸せなのだと、先輩の背中がうつたえかけていた。

「来てたのか」

 十分にたんのうしたのか、先輩がこちらを振り返った。ようやく道場内に足をみ入れた私に、先輩が片手を上げて制止した。

「道場に入るときは一礼するんだ」

「あ、はい」

 ぺこっと頭を下げたら「あとで教えてやる」と言われた。今のおじゃだったようだ。

「俺が戻ったからには、弓道部はもう真面目まじめな部活だなんて言わせないからな」

「あまり力を入れすぎると新入部員がげちゃいますよー」

「逃げるのか?」

 先輩の真顔がこわい。逃げないよ。逃げないけども、今は逃げたいかもしれない。

「指導はおやわらかにしていただけるとうれしいかもです、はい」

「善処する」

 厳しい指導が部員の反発を生んだことを思い出したのか、先輩がしぶしぶとだがうなずいた。しかし嫌なかんほどよく当たる私は思った。先輩は善処しないタイプの人間だと。

えてきます」

 ぜん多難の四文字が浮かんで消えた。まあなんとかなるだろ。高校入試もへん足りなかったけどなんとかなったし。

 こう室に行くため道場を出ようとしたそのとき、鏑木先輩が言った。

「そういえばお前、どうして俺が嫌がらせを受けてるって知ってたんだ?」

 扉の取っ手に手をかけたまま動きを止めた。そしていつぱく置いて、振り返る。

「覚えてないならいいです」

 自分でも分からないけれど低い声が出た。めんらった先輩を置いて道場を出て扉を閉める。直後に、「堀川さん」と声がした。

「日置先生!」

 道場の周りはフェンスで囲まれている。フェンスの外から手を振る日置先生に駆け寄ると、二日ぶりに会う先生は嬉しそうにむかえてくれた。

「今日から弓道部が再開すると聞いて、様子を見に来たんです」

「そうなんですね。先輩もきっと喜びます」

 日置先生は年に数回、弓道部の指導におとずれるとチャン先生から聞いた。今は仕事をリタイアして、市が運営する弓道協会の会長を務めているという。

「鏑木君の性格だと、ぶつかり合うこともあるかもしれません。でもどうか彼のこと、見捨てないでくださいね」

「どっちかというと、私のほうが見捨てられないようにしないといけないですね。自分で言うのもなんですけど、熱心な部員じゃないですから」

「それは鏑木君もきた甲斐がいがありそうだ。ぜひ振り回してやりなさい」

 ニコニコと会話に興じていた日置先生の表情が変わったのは、その直後のことだった。笑っているようで笑っていない不思議な目で私を見つめ、「これはただの推測なんですが」と前置きすると、言った。

「君は、本当はきゆうどうに入りたいわけではなかった。そんな気がするんです」

 は、と息がくちびるかられる。日置先生はさらに言葉を重ねた。

「弓道部をはいにさせたくなかったのは、自分の都合のためじゃない。鏑木君に、もう一度弓道をやらせてあげたかったから。ちがいますか?」

「どうやったらそんな推測に行き着くんですか」

「君がとても必死に見えたから、ですかね」

「私、他人のために必死になるほど人間できてません」

 だって先輩、あのとき泣いてたから。

 いつしゆんだけせた顔からこぼれ落ちたなみだを、見てしまったから。

「自分で言うのもなんですけど、私ほど自分本位な人間はそうそういませんよ」

 泣くほど弓道が好きなのに、先輩があきらめなくちゃいけないのはおかしいと思った。

「部活難民になるのが嫌だったんです。それに弓道ってあんまり動かなそうじゃないですか。私、運動好きじゃないので、丁度いいかなって」

 先輩のためにやったなんて表現は大げさすぎて似合わない。たまたま居合わせた人間が、ちょっとしたおせつかいを焼いた、それだけだ。

「そうですか。少し想像力が働き過ぎたみたいですね。すいません、としをとると物事をなおとらえることができなくなってしまって、困ったものです」

「いやいや、想像力豊かなのは若い証拠ですよー」

 二人でニコニコニコニコ笑いあう。先に素に戻ったほうが負けだ。引きりそうになるほおを無理矢理にがおへと変えた。

「それじゃあ鏑木君に会ってきましょうかね」

「はい、どうぞ。私、着替えてくるので、先に入っててください」

 日置先生が道場に入っていくところを見届けた瞬間、私の顔から笑顔が消え去った。両手で顔をごしごしこすって、いつもの無気力顔を取り戻す。

 しかし日置先生、あれ絶対にされていなかったな。最初の質問からして目が確信してたし、私がどんな反応をするのか見てみたかっただけな気がする。ただの興味本位で若人わこうどの心を乱そうとするなんて悪いじいさんだ。

 着替えに戻ろうと一歩足を踏み出したときだった。フェンスの扉が開く音がした。

ふじわら先輩、鍵開いてますよ」

「鏑木、いるのかな」

「あいつ以外、いないでしょ」

だい、分かってると思うけどくれぐれもけんは」

「しないですよ。たぶん」

 知らない男子生徒二人が入ってきて、私と目が合うと立ち止まる。ひとりは見るからにチャラいちやぱつで、もうひとりは眼鏡をかけた背の高い真面目そうな男子。茶髪のほうが一歩前に出てくると、上からいんねんをつけるように顔をのぞき込んできた。

「あ? だれだお前」

「新入部員です」

「……うそだろ?」

「本当です。そっちこそ誰ですか」

「弓道部員だよ。鏑木いるんだろ? 会わせろ」

 ぶつそうな空気に押された私は、半歩後ずさる。

 どうやら禍根はまだ消えてはいないようだ。前途多難の文字が、さっきよりもはっきりとのうかんだ。





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