第三話
時計は八時四十分から始まる一時間目の授業にギリギリ間に合うか間に合わないかの時間を指している。
いつもなら
「間に合ったぁ」
授業開始のチャイムと同時に
「堀川さんっていつもギリギリか
同じクラスになって一ヶ月。初めて話しかけてきたその女子の名前は……なんだっけ。
「家は遠くはないかな? 自転車で二十分くらいだよ」
「へえ、いいなあ。私は自転車でその倍くらいはかかっちゃうの。バスもあるんだけど一時間に一本な上に駅までだから、そこから学校まで歩いてこなくちゃいけないのよね」
「そりゃ不便だ」
「
「田舎モンって……深見さんはお
「あらそう? よく言われる」
わざとらしく髪を耳にかける仕草をして、彼女はニッと笑った。
「先生、
「そうだね。階段ダッシュで上ってくるんじゃなかった」
一段飛ばしで
今日の日直の子が職員室まで
「堀川さんって
「そりゃ喋れるよ」
「てっきり植田さん以外とは喋りたくないんだと思ってた」
「そう見えた?」
「うん。むしろ植田さんのほうが喋らせたくないって感じかな」
深見さんの視線が横にずれて、またニッと
「伊与、電話したのに切ったでしょ!」
「え、そうなの? 覚えてない」
「モーニングコールしても
「本気出したからね。私が本気出したらこんなもんだよ」
「本気出す場面
萌々子が
「伊与はもう高校生なんだから、いい加減、自分で起きなきゃ
説教する萌々子の向こうで、「ほらね」と言いたげに笑う深見さんの顔が見えた。
けれど私は友達が少ないことを不安に思ったことは一度もない。
「堀川、ちょっと」
昼休み、一階に下りて食堂に向かう私を呼び止めたのはチャン先生だった。ちょいちょいと手招きされたので、萌々子には先に行ってもらうことにして、先生と一緒に中庭へ向かった。
「放課後、行こうと思ってたんですよ」
「その前に伝えておきたいことがあってな」
まさかもう
「鏑木がまだ来てないんだ」
あれだな、停学明けで気まずくなったんだろうな。分かるよ。私だって一時間目の授業の
「今日中に来ないと、廃部ですか」
「うーん……そこが今、問題になってるんだよなあ」
先生は困り顔で
「昨日のことは日置先生から聞いた。それで今日の放課後、部員たちを集めて話をすることになってるんだ」
「私も行っていいですか」
「駄目だ。お前は部員じゃないだろ」
「でも」
食い下がる私を制するように、先生が手を上げた。それでも引き下がれなくて、不満が顔に出た。
「ちゃんとやるから……やるからそのシャクレ顔はやめろ」
「ほんとにちゃんと
「聞くよ。鏑木の気持ち、分かるから」
人の心の
授業帰りだったのか、先生は大量のノートと教材を持っていた。一番上にある教科書を見て、彼が日本史担当であることを私は初めて知った。
「先生ってなんで弓道部の
「
無責任な態度の理由の
「俺だけじゃないぞ、
「そういう大人の事情は知りたくなかった」
「いや、知っとくべきだ。いいか、部員は俺のことを無責任だなんだって言うけど、俺に言わせてみりゃ部員のほうが無責任だよ。大人の事情も知らずに無責任に青春してるんだから」
休日出勤しても手当が
「でも、そんな俺の態度がいけなかったのかもしれんなあ」
ベンチの
「部活ってのは、本来は逃げ道であるべきなんだよ」
拭いた眼鏡をそのままに、先生はぽつぽつと話し出した。
「教室なんていう狭い空間から解放されて、のびのびやれる場所が部活なんだよ。そうだろ?」
授業が終わると
「だからそういう場所で、イジメなんか起きてちゃいかんわけだよ。起こさせちゃ、いかんわけだよ」
「え、おお? 先生、泣いてる?」
今日は四月にしては暑いから、先生の
おろおろしていたら、先生はノリのきいた自前のハンカチを取り出して顔全体を拭いた。眼鏡をかけなおした先生は、いつものチャン先生に
「すまん。変なところ見せたな」
「いや、お気になさらず」
「鏑木が来るかどうかは分からんが、ちゃんと部員全員から話は聞く。決め付けたり、
「
「ああ。結果はどうであれ、そこで聞きたいだろ」
私を見下ろすチャン先生の顔はとても
ぱちぱちぱちぱち、しきりに目を開閉させる私に気づいたのか、先生は
放課後、チャン先生から預かっていた
道場内は二週間も使われていなかったせいか、少しホコリっぽくなっていた。
弓道場はグラウンドの
足元を行き
「なにしてんですか、鏑木先輩」
向こうも向こうで私がいるとは思っていなかったらしい。立ち
「話し合い、もう始まってますよ」
話しかけてみたが反応がない。
いつまでたっても動こうとしないので、呼びかけを
「ヌシだ」
今度はすぐ後ろで声がした。鏑木先輩は私の
「今の時期になると出てくるんだ。日置先生の話じゃ、二十年前の弓道部創立からずっといるらしい」
「本当に? めっちゃ長生きですね」
「まあたぶん別のトカゲになってるだけだろうけどな」
「じゃあヌシじゃないじゃん」
「そうだな」
道場のヌシはまたするすると動き出し、別の排水溝の蓋の中へと入っていった。
「日置先生って、別の道場で先生をやってるんですよね」
「ああ。市の弓道協会の会長でもあるんだ。俺はそこに中学のときから通ってた」
「ってことは三年以上はやってるんですね」
「今年で四年目になる」
「じゃあベテランだ」
鏑木先輩は
「日置先生は五十年だぞ」
どことなく常人
中学生のときから知っている鏑木先輩なら、きっと同意してくれるだろう。隣に座る先輩を横目で
話し合い、行かなくていいのかな。
このまま
「お前、なんで弓道部に入ろうと思ったんだ?」
「思い出したんだ。見学に来てたのお前だろう」
その前にもゴミ捨て場で会ったんだけど、そっちは覚えていないようだった。私にしてみれば、あっちのほうがよっぽどインパクトがあったんだけどな。
「なんでって、熱心な活動してなかったからですかね」
「なんだよそれ」
「私、本当はどこの部活にも入りたくなかったんです。弓道部はだるっだるだと評判だったので、これだね! と思ったわけです」
「……ひどい理由だな」
たぶん先輩みたいな人間には、人生をおよそ三十パーセントの力で生きている私のような人間の心理は理解できないだろう。私にとって百パーセントの力を出すのは、車に
「先輩がいないと部活がなくなっちゃうんです。困るんです。だから、できればでいいんで弓道部を
「自分勝手な言い分だな」
「だって私は私のために生きてますから。自分が一番です。先輩も、自分が一番いいように生きてください」
私にだけは人生を語られたくはないだろうが、今の先輩ときたら絶賛人生を見失い中なので許されるだろう。
先輩は険しい顔をさらに
「許せないんだ」
「俺は、なんていうか、その、自分がもっと、すごい人間だと思ってた」
ひとつ呼吸を置いて、先輩はさらに言い
「部長たちに
私は口を
「なのに、できなかった。お前が昨日言ったとおり、カッとして、気づいたら殴ってた。俺は、俺は、弓道が好きで」
大好きで、
「それに見合う、人間になりたくて、なれているんだと信じてた。でもそうじゃなかった。殴ってしまったことよりも、俺は、俺が思うほど自分がすごい人間じゃないと気づいたことのほうがショックだった。弱くて、みじめで、他人を思いやれない人間。それが俺だと分かったら、恥ずかしくて、許せなかった」
俯いた先輩の耳は、真っ赤になっていた。このひとは本当に自分を恥じているのだ。
こんなにも自分に対して厳しい人間がいることに、私は
「なんというか、先輩って
私は私を面倒くさいとは思わないが、周囲は私を面倒くさいと言う。その気持ちが、今ようやく分かった。
「自分がすごいなんて、ほとんどの人間が思ってますよ。そう思ってなくちゃ現実という
私だってそうだよ。自分で自分をすごいと思ってるよ。目に見える結果なんてなくても、やればできるんじゃないかとか、実は
「理想と現実が違ったからなんだっていうんです。死ぬわけじゃあるまいし、いちいちショック受けてたら本当に死にますよ。ちなみに理想と現実が違うことを
先輩の
「自分が許せないんなら、理想と現実の間を
「誰がへっぽこだ」
「だってそうでしょ。先輩、これからもそうやって自分を責めてたら、将来は引きこもりになってますよ。私には見える。大学行かずに親を泣かせる先輩の姿が」
「勝手に予想するな」
先輩の右手が上がり、ハッとして下げられる。
「先輩」
まだ何か言うつもりかと、鏑木先輩が
「私、先輩を尊敬します」
「……どういう意味だ?」
「先輩はたぶん、誰よりも自分に誠実なんだと思います。だから苦しくなっちゃったんだと思います。私は、そういうの
必死になったらなった分だけ、
「でも先輩は、どんなに苦しくても傷ついても、やっぱり自分に厳しく接していくんでしょうね。
先輩は
「そんな先輩を、尊敬します」
鏑木先輩の顔が、静かに、ゆっくりと変わっていくのが分かった。感情があふれ出す。それを見ないように顔を
「待ってろ」
「はい?」
「ちょっと行ってくるから、お前、帰るなよ。ここで待ってろ、いいな」
「分かりました」
よし、と頷いて先輩は道場から飛び出していった。
ふと視線を足元にやると、ヌシがいた。やったね、と声をかけると、ヌシはするすると
話し合いがあった翌日、六時間目の授業が終わると同時に、机の横にかけていた学生
「堀川さん、これから部活?」
「おっす。今日が初日っす」
「張り切ってるねー」
前の席の深見さんもこれから部活だそうだ。
「萌々子、
「うん。伊与も部活がんばって。あとでお話聞かせてね」
今週の掃除当番になっている萌々子に声をかけ、教室を出た。
「おーこわ。植田さんに睨まれちゃった」
「萌々子のこと、
「嫌いじゃないよ。
ゲスゲス笑う深見さんとは、昨日初めて会話をしたのをきっかけに仲良くなった。そこに萌々子も加わって、休み時間のたびに三人でお
「植田さんって女子から嫌われるタイプよね」
「まあたしかに。でも萌々子も女子嫌いだから、お相子なんだって」
「言うねえ! どうしよう私、けっこう植田さん好きだわ」
よかったな萌々子。深見さんに気に入られたみたいだぞ。
校舎の一階に下りると体育館があるほうへと歩く。会話の途中で、深見さんが女子サッカー部であることを知った。
「茶道部だと思ってた」
「残念。私、紅茶派なの」
「堀川さんは弓道部だっけ。暴力事件起きたって聞いたけど
「その件については解決済みだから大丈夫、かな」
チャン先生
話し合いの様子を聞かされた私は、それは演技だ、とは
「ホリー、私グラウンドだから。また
「あ、うん」
ホリー? と思ったがスルーして手を振ってお別れした。
グラウンドから
何をするでもない。そこに立っているだけで幸せなのだと、先輩の背中が
「来てたのか」
十分に
「道場に入るときは一礼するんだ」
「あ、はい」
ぺこっと頭を下げたら「あとで教えてやる」と言われた。今のお
「俺が戻ったからには、弓道部はもう
「あまり力を入れすぎると新入部員が
「逃げるのか?」
先輩の真顔が
「指導はお
「善処する」
厳しい指導が部員の反発を生んだことを思い出したのか、先輩が
「
「そういえばお前、どうして俺が嫌がらせを受けてるって知ってたんだ?」
扉の取っ手に手をかけたまま動きを止めた。そして
「覚えてないならいいです」
自分でも分からないけれど低い声が出た。
「日置先生!」
道場の周りはフェンスで囲まれている。フェンスの外から手を振る日置先生に駆け寄ると、二日ぶりに会う先生は嬉しそうに
「今日から弓道部が再開すると聞いて、様子を見に来たんです」
「そうなんですね。先輩もきっと喜びます」
日置先生は年に数回、弓道部の指導に
「鏑木君の性格だと、ぶつかり合うこともあるかもしれません。でもどうか彼のこと、見捨てないでくださいね」
「どっちかというと、私のほうが見捨てられないようにしないといけないですね。自分で言うのもなんですけど、熱心な部員じゃないですから」
「それは鏑木君も
ニコニコと会話に興じていた日置先生の表情が変わったのは、その直後のことだった。笑っているようで笑っていない不思議な目で私を見つめ、「これはただの推測なんですが」と前置きすると、言った。
「君は、本当は
は、と息が
「弓道部を
「どうやったらそんな推測に行き着くんですか」
「君がとても必死に見えたから、ですかね」
「私、他人のために必死になるほど人間できてません」
だって先輩、あのとき泣いてたから。
「自分で言うのもなんですけど、私ほど自分本位な人間はそうそういませんよ」
泣くほど弓道が好きなのに、先輩が
「部活難民になるのが嫌だったんです。それに弓道ってあんまり動かなそうじゃないですか。私、運動好きじゃないので、丁度いいかなって」
先輩のためにやったなんて表現は大げさすぎて似合わない。たまたま居合わせた人間が、ちょっとしたお
「そうですか。少し想像力が働き過ぎたみたいですね。すいません、
「いやいや、想像力豊かなのは若い証拠ですよー」
二人でニコニコニコニコ笑いあう。先に素に戻ったほうが負けだ。引き
「それじゃあ鏑木君に会ってきましょうかね」
「はい、どうぞ。私、着替えてくるので、先に入っててください」
日置先生が道場に入っていくところを見届けた瞬間、私の顔から笑顔が消え去った。両手で顔をごしごし
しかし日置先生、あれ絶対に
着替えに戻ろうと一歩足を踏み出したときだった。フェンスの扉が開く音がした。
「
「鏑木、いるのかな」
「あいつ以外、いないでしょ」
「
「しないですよ。たぶん」
知らない男子生徒二人が入ってきて、私と目が合うと立ち止まる。ひとりは見るからにチャラい
「あ?
「新入部員です」
「……
「本当です。そっちこそ誰ですか」
「弓道部員だよ。鏑木いるんだろ? 会わせろ」
どうやら禍根はまだ消えてはいないようだ。前途多難の文字が、さっきよりもはっきりと
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