第3話


 夜、ベッドに入ると隣で藍が笑っていた。そのまま俺の手を取って、外に駆けだすとそこは伊勢原の野原につながっていた。緑色に発光し周回する円盤が近づいてくる。伸びてくる光に包まれて、藍の手が俺の手からちぎれる。もう二度と、つながらないのだ。藍、俺はお前に言いたい事があったんだ。

「さようなら、私のジョバンニ」

俺はお前の事を――。

 そこで目が覚めた。手には確かに藍の手の感触が残っている。その日はずっと部屋から出なかった。


 そして運命の日が来た。絵里ちゃんは先に町田の外れの病院に来ていた。白くて無機質な正方形の空間に、ソファが五つ、窓にはピンクのバラが飾られている。それ以外は何もない、冷たい部屋で俺達は待たされた。絵里ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしていて、時折すすりあげた。たまらなくなって、「ちょっとトイレに行ってくる」と夕闇せまる外に出た。時刻は四時五十分。もうじきあいつは飛翔し、俺の子供も天に還っていく。

どうしたらいい。これが正解なのか? 俺は自問自答し、苦しくなった。どちらにももう会えないとしたら、俺はどっちを選んだらいい。

ぶるぶる

 その時、手の中の携帯が鳴った。FROM 宇宙人藍。俺は急いで携帯を開いた。

<件名:私の大切な緑へ>

 下にスクロールして、俺はそのまま全速力で病院に戻った。そして絵里ちゃんの手を握り、立たせ、受付の無愛想な女に叫んだ。

「手術は中止にして下さい。この子供は、俺達が育てます」

「えっ」

 絵里ちゃんの赤い眼がこちらを見た。

「本当に? 産んでいいの? 信じて、いいの?」

 震える肩を俺が撫でさする。

「ああ、一緒に育てよう。俺は絵里ちゃんのそばにいるよ。この星で、ずっと」

「緑……君」

「でも、今だけは見逃してくれ。後で家に行くから。中に入ってて」

 部屋の鍵を渡して、俺は歓喜にうち震える絵里ちゃんの元を走り去った。駅に行き電車に飛び乗って、さっきのメールを脳裏に反芻する。

<緑。私、ずっと考えていた事があるの。それはね、あなたが私を必要としてくれているって事。もし私が一億光年先の宇宙に行ってしまって、この地上にあなた一人を置いていってしまったら、あなたはたった一人で泣くのでしょうか? それが気がかりで、円盤を待つ今も気がそぞろです>

 さらにメールは続いていく。

<私は果てのない宇宙を泳ぐけれど、あなたはこの星にしっかり根を張って幸せに暮らしてね。私はあなたの彼女とあなたはとてもお似合いだと思います。あなたの未来にはたくさんの幸せが待っていると、信じています>

<――あのね緑。昔、一緒に銀河鉄道の夜の話をした事、覚えている? あの時、あなたは言ったわよね。どうしてジョバンニを置いていくんだ。彼には生きる楽しみも明るい未来も何もないのに、って。私もその訳が分からなかった。でも、今なら分かる>

 スクロールする手が震える。

<きっと、誰より大切な人には、誰より幸せになって欲しかったんじゃないかな。あの鉄道に一緒に乗ってしまったら、その人が幸せには生きられないから。だからこの地上で誰よりも、地に根をはって、幸せになって欲しい。今は無理でも、生き続けていれば、未来ではきっと>

 ふうわりと優しい、藍の声が聞こえた気がした。

<俺は大丈夫だよって言ってね。私、あなたがいなかったらたまらなくさみしいけど、そう言ってくれたら、きっと笑っていける。どこまでだって飛んでいける。一億光年先の未来から、あなたとあなたの未来をずっと見守ってる。どんなに離れても、きっとよ>

 伊勢原に着いたのが五時四十三分。バスに飛び乗ったのが五時五十分だった。間に合わない。あいつは飛び立ってしまう。一言伝えたいだけなのに。もう歩いても走っても泣いても届かない距離に行くあいつに、ただ伝えたいだけなのに。

 林の間を過ぎる時には、空はすっかり闇に飲まれていた。人家を抜けると、何もない野原が広がった。そこに、藍の姿は見えなかった。青草がそよぐ音。山々は深い漆黒に埋もれている。

ぴりりり

 代わりに、メールが届いた。

<一人にしてごめんなさい。ここから、あなたの姿が見えるよ。また、いつかね>

 俺は宙を見上げた。深い空の底に、緑色に発光した円盤がちょろちょろと星の間を動き回っている。

「待って、いてくれたのか」

 俺は感動と歓喜と驚愕の合わさった思いでそれを見ていた。

「藍」

<俺は大丈夫だよ。ここで、生きていく。またな>

 その時、携帯がぴろりん、と鳴った。最後に綴ったメールが、無事にあいつの元へと届いたあかしだった。


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