第2話
一度、抱いてみようか、あの女を。俺は絵里ちゃんとの行為中にそんな事を考えた。でもきっとそんな事にはなるまい。あの女には宇宙しかない。なぜなら宇宙人だから。どうプレアデスに帰るかしか考えていないのだ。きっとどんな男にも抱かれはしないし、「一緒に寝ようか」と誘ったところでそばに寝てまるくなるだけだ。それ以上俺達は一つになる事はない。なぜなら俺は地球人で、あいつは宇宙人だから。
ぴりりりり
突然、俺の携帯が鳴り始めた。絵里ちゃんが腰の動作をやめ、怪訝そうな顔つきになる。
「緑君の?」
「ああ、ちょっと出てくる」
「やめてよ」
絵里ちゃんは意外な程の力で、俺の伸ばそうとする手首を押さえた。代わりに彼女がテーブルに手を伸ばし、携帯を開き着信の相手を見た。そしてけらけらと声をあげた。
「宇宙人藍って誰? 愛人?」
「いや、それ以上の女」
そう答えたかったが、答えたら答えたでまたもめそうなのでやめた。絵里ちゃんという存在は既に俺の中で疑似の母親だった。そうした存在をまた失いたくない。
それに藍は愛人ではない。愛人とかそういう人間の作りだしたくくりでは分けられない。この地球で唯一出会う事の出来た、俺しか知らない、宇宙人。
「……ぴっ」
俺の表情に、絵里ちゃんは何を思ったか携帯のボタンを通話モードにした。さらに何かボタンを押した。何だろう。すぐに藍の切羽詰まったような声が聞こえる。
「緑? いきなり電話してごめんね。でも、私、見たのよ! 緑色の、点滅する三つの円盤が、伊勢原の宙を旋回していたの。本当よ! ……緑、聞いている? 何をしているの、緑」
絵里ちゃんは錯乱したように声を上げ続けている。俺はこの時彼女が何のボタンをどのような目的で押したのか悟った。彼女は聞かせようとしているのだ。俺はやめさせようと思ったが、こみあげてくる欲望はとめられなかった。俺の内から外へ溢れ出るその瞬間に、絵里ちゃんを押しのけて電話を取った。
「……藍?」
もう電話は切れていた。
それからしばらくして、珍しく天文サークルの飲み会があった。場所は渋谷の飲み屋で、日曜という事もあって中は人でごった返していた。俺は必死に藍の姿を探した。なみいる男女の隙間に、小さくなって元気がなさそうな、しおれた花みたいな藍の姿を見つけた。
「藍!」
「あ……」
俺は驚いた。あの宇宙人藍が、まるで捨てられた子犬のような目で俺を見つめてきたのだ。
「あの、電話ごめんなさい。あんな朝方に、電話しちゃって……」
もし何の人目もなかったら、俺は藍を抱きしめて啜り泣いていた事だろう。藍はこの世に存在出来ないくらいピュアな魂を持った女だ。その彼女の一部とはいえ耳を汚したのだ。死んで償えるなら藍を抱いて死んでしまいたい。
「藍、ごめんな」
力なくわびると藍は細い首を左右に振って、
「ううん。あんな朝方に電話した私が悪いんだもの。ごめんね」
それから藍は先日見た奇跡のような事象について語り始めた。夜も更けて山々の稜線に白い光が満ちる時、彼女が伊勢原のアパート近くの野原を歩いていると、空に何かが光って回っている。よく目をこらすと発光する緑色の円盤が頭上で旋回していた。木々に隠れ時折黒雲にかき消えて、やがて見えなくなった。藍は歓喜した。
「やっと、迎えが来たのよ」
「そうか……」
俺はそれについて嘘だとも真実だとも言えずに、ただ相槌を打っていた。でも多分彼女は見たのだ。藍は妄想癖はあっても嘘はつかない。
「でもすぐに消えてしまったから、本当に迎えに来てくれたのかどうか分からないわ」
藍は長テーブルの俺のかたわらにちょこんと座ると、寂しそうにそう呟いた。俺はその頭を撫でて、いや、来てくれたんだよメランコルが。と微笑んだ。注文したホットミルクに俺という聞き手の存在。彼女はやっとほっとしたようだった。
居酒屋に絵里ちゃん率いる第二陣がやってきた折に、席替えが行われた。俺は藍から目を離したくなかったが、大多数の圧力に負けて移動せざるをえなかった。次の席は藍と絵里ちゃんが隣同士だった。俺はそのちょうど対角線の席に決まったから、会話は聞き取れない。ただ右隣の女がやたら媚びた風情で、「緑先輩っておっぱい大きい子が好きって本当なんですかあ?」と乳を寄せて尋ねてくるのがうっとおしくてならなかった。その次の席替えで、俺は絵里ちゃんと隣同士になった。
「あいつとどんな会話をしたの?」とすかさず訊くと、絵里ちゃんはぷっと思いだし笑いをし始めた。
「あの子の事、緑君宇宙人って言ってたけど本当に変わっているのね。私が岩手出身って言ったら宮澤賢治の話をし出して、頑張って聞いてたけどすっごく退屈だった」
「陽気な火山弾とか、銀河鉄道の夜の話とか?」
「そうそうそれ! あとなんとかの星、って話もしてたなあ」
それはよだかの星、というんだよ絵里ちゃん。と俺は思ったが、口には出さなかった。君はたかであり、君はカンパネルラの意地悪な友人だ。あいつはあいつなりに、分かる範囲の知識を総動員して絵里ちゃんと話をしたかったのだろう。でもそれは無理な相談だった。醜いよだかがいくら話しかけても、どの星々も相手にしなかったではないか。
その時、「えーちょっとまじでー!」と障子に隔てられた和室の奥から男女の声が響いた。よく見れば藍の座っているテーブルからだった。にきびづらを淡い照明に光らせたたけしが、大きな声で指をさし立ちあがって叫んでいる。
「絵里ちゃん絵里ちゃん! この子処女なんだってー!」
嫌な予感がした。二十名程の詰め込まれたこの和室でその声は至極嫌な響きを持っていた。
「えー? まじですごくない?天然記念物?」
と周りの女もはやしている。藍はやや紅潮させた頬をしてぺこぺこと頭を下げていた。それを周囲の人間が嘲笑うように指をさす。ああ、藍が竃猫になってしまった。俺は慟哭したい衝動にかられた。
「えーそうなんだ。藍ちゃん変わってるけど可愛いし、彼氏いそうなのにねー」
遠くからその騒ぎに絵里ちゃんが援護射撃をした。助けに行きたくても、このぎっちり詰まった席順では身動きできない。俺はたまらなくなってハイボールを飲みほした。
(藍……藍耐えてくれ……)
願うのはそれだけだった。ちらと向こうを見た。たまたま目が合った藍の瞳は優しかった。
飲み会もお開きになった。俺は飲み屋の入ったビルから抜け出してすぐ、藍の姿を見つけ出そうとした。彼女は後ろの集団の中にいて、身を縮こまらせ淡く笑っているのが見えた。
「藍!」
俺は人をかきわけて藍へ手を伸ばそうとした。手を掴もうとしたがその腕は別な女に掴まれた。絵里ちゃんがにこっと八重歯を見せた。
「あーん、私もう酔っちゃった! 今日は緑君ちに泊まる~」
この一声に周囲の男達からの一睨みを一身に集める。俺は口では「お父さんにばれたら怒られるぞー」と言いながら、藍から目が離せなかった。彼女は傷ついて地に臥しているところを人間に踏みつけられる小鳥のようだった。その肩を誰かが無造作に抱いていた。たけしだった。たけしは藍の肩に腕を回して、「俺は処女の藍ちゃんを送っていくから~じゃあなー」と周囲に声をかけ駅に消えていった。話しかけるいとまもなかった。
翌日、大学へ行く道すがら俺はいらいらして新着メール問い合わせを繰り返していた。藍にいくらメールを送っても電話をかけてもつながらない。仕方なく授業のある大教室八百一号室に入った。席に座ると、隣にたけしが来ていきなり座りこんだ。
「よっ」
「おお……」
俺達は軽く挨拶を交わした。彼はそれからそのにきびづらを、恥ずべき事など何もないというふうに蛍光灯の元に光らせると、俺へにやけ面のまま言った。
「俺、藍ちゃんと寝たんだ」
「えっ」
周囲の同サークルの女が、一斉に好奇の瞳をして振りかえった。
「どうだったどうだった? 」
女達の声もたけしの声も脳内で遠くおぼろに、ぼよんぼよんと反響して聞こえる。
「別に。ふつーつーかつまんなかった。彼女まぐろだし」
きゃはははと聞こえた時点で無意識のうちに俺は拳をふるっていた。たけしは椅子から滑り落ち床になだれた。その顔は溢れた鼻血で真っ赤だった。
「いってええええお前何すんだよ!」
後ろからたけしの怒鳴り声が聞こえたが、もう知らぬふりで俺は教室から出、電車に乗り伊勢原に向かった。藍の家は知っている。バスで駅から十五分の、白いモルタルの小さなアパートだ。俺はどんどんと五号室のドアを叩いた。
「藍 !俺だ! 緑だ! 開けてくれ!」
十五分も叩いただろうか、やがてぎい……とドアが開いた。藍は薄闇に、真っ赤な眼をしてこちらを見据えていた。
「緑、ごめんね」
「何がごめんだよお前っ!」
「私、緑の彼女さんと、楽しくお話したかったんだけど、退屈させるだけだったみたい」
それからにっと弱々しく笑った。俺はたまらず藍を抱きしめた。部屋に入り、藍を椅子に座らせてから、俺はゆっくりとコーヒーを入れた。藍の星の部屋の灯りはランプだけで、手元はおぼつかなかったが無事コーヒーを二つ入れる事が出来た。それをテーブルに置き、藍の短い髪にくしを通しながらさりげなく尋ねた。
「お前、たけしにやられたのか?」
「ぷっ」
藍がこの言葉にけたけた笑った。やはりあいつの創作だったか……と息をついたのもつかの間、
「やられたというより、やりあったというのが正解じゃない?」
「じゃあ抱かれたのか!」
藍の肩を揺さぶり、鬼気迫る表情を向けた俺に、藍はくす、と微笑んだ。
「どうして、だろう? 急に、宇宙に行く事が怖くなったの。緑を永遠に失うんだって、現実感が押し寄せて、たまらなくなったの」
「馬鹿俺がお前から離れる訳ないだろ!」
俺が怒鳴ると、藍は静かに首を振った。
「ううん。私はもう、行ってしまうから。その時緑の傍にいてくれる女の子がいて、安心した半面、とても、さみしくなって、泣きたくなって……それで、彼が家まで送ってくれた時に、頼むって頭を下げられて、なんとなく断れなくて」
「断われよ!」
俺は怒声をあげてから、自分にはそんな権利がまるでない事に気付いた。俺はこいつと、宇宙に行くでも何でもない。無論恋人でもない。恋人はよそにいる。ならなぜ俺の胸はこんなに苦しくざわついて、しめつけられているように痛むのだろう。
「私達には、時間がない」
藍がぽつりとこぼした。
「ねえ緑、箱根に行かない?」
俺達は電車に乗り込んで、箱根に向かった。小田原で小田急から降り、箱根登山バスで箱根神社に向かった。途中、藍はしきりに歓声を上げた。「わー光る川だ!」とか、「なんて素晴らしい山並み!」だとか。空は青い。この分では今日の夜は藍好みの晴れやかな夜空になるだろう。俺は赤い座席にゆったりと腰かけて、藍を見つめた。
箱根神社に着いた。二人で静謐な境内に一歩二歩と入り、頭を下げ、さい銭を入れる。
(藍の願いが叶いますように)
そう願いたかったが、俺の心には別な願いが浮かんでいた。
(このまま藍と離れる事がありませんように)
俺は傍らの藍の手を握った。つくづく自分はひきょうな男だと思った。恋人も仲間もいる俺は、どうして藍がいないとこんなに不安になるのだろう。それはたよりにするにはあまりにもろすぎる。だって彼女はいつか帰ってしまう、宇宙人だから。
その日の夜、星のよく見える古い宿に俺達は泊まった。手をつないでいたから、「新婚さんですか?」と仲居に声をかけられたが、「いえ、兄弟です」と藍が答えた。その眼は優しかった。夜、十畳の畳間で、トランプに興じ、ひいてもらった布団に大の字になって、俺達は幼い獣のように遊んだ。「そろそろ寝ようか」とは藍から切り出した。俺はああと頷いてから、寄り添った布団の左側に身を入れた。藍はどちらに来るんだろうと考える間もなく右のあいた布団に入った。
「電気消すよ」
静寂。さわさわと、森の木々が風を漉す音が流れる。どこかでフクロウが鳴いている。
「これでお別れ、か」
と、俺は呟いた。藍は音もなく同意したらしかった。
「この間ね、通信が来て、言われたの。君の帰る場所は地球から一億光年離れてるって。だからもう、愛しい人には会えないよって。それで、寂しくなっちゃった。今はこんなに、近くにいるのにね」
愛しい人? 藍にとって俺が? 今はこんなに、手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、彼女は俺が歩いたとて永遠に辿りつけない彼方に旅立ってしまうのだろうか。俺は藍を見た。藍も俺を見た。
「こっちに、来る?」
「うん」
藍はころころと寝返って俺の腕の中におさまった。動悸がする。でも俺は決して反応しない。藍の短い、夜のように深い髪を撫でる。
「お別れだね、緑。今までありがとう。私のジョバンニ」
愛してる、と言えたらよかった。でも言えなかった。何かが俺の熱情をさまし、冷し続けていた。それは藍の目だった。優しくて、一億光年先を見据えた目。
「藍」
「何?」
「俺の事、忘れない?」
「……忘れないよ」
藍はそう言って微笑んだ。白い朝の気配が山並みに迫っていた。
旅行から帰って二カ月は傍目にはつつがなく過ぎていった。たけしとは絶縁したが、他に仲間など捨てて掃く程いたから問題なかった。藍はいよいよ身じまいにかかった。この星を去り、宇宙に飛び立つための。
「メランコルが言ったの。本当に、大切な物以外連れていけないよって」
ちょっとさびしそうに、彼女は笑った。
おかしかったのは絵里ちゃんの態度だった。この二カ月、話しかけてもひたすらにぼんやりして投げやりな相槌を打つだけだ。誰に訊いてもその態度だと言うから、多分、長すぎる生理にでもかかったのだろうと勝手に合点が行っていた。彼女が来ない部屋には洗濯ものがみるみる溜まっていった。俺のだけ溜まる洗濯もの。嫌な思い出がよみがえる。早く帰って来て欲しいと、切実に願った。
(お母さん!)
夢の中で俺の下着を持って宇宙船に帰っていくのは、藍ではなかった。
そしてその月も終わる頃、キャンパスでたまたま会った藍は微笑んでいた。
「出立の日が決まったの。あさっての夜六時よ」
「……そうか」
「あの家の外れの野原に、来てくれるのだって」
俺はお揃いで買った箱根細工のキーホルダーを携帯につけていた。藍は素早くそれを見つけ、「わあ」と喜色を満面に出した。
「これで、私の事、忘れないでいてくれるわよね」
「ああ」
俺は緑深いキャンパスの真ん中で泣きそうになった。
「忘れないよ」
藍と別れ、家に帰ると玄関前に絵里ちゃんが佇んでいた。俺は驚いて声をかける。
「どうしたの?」
絵里ちゃんの目は憂いを帯びて赤く充血している。その眼がちらと、俺の目を射た。
「私、出来ちゃったの」
「えっ」
俺は一瞬、世界がとまったような、世界が足元からすっぽり抜けるような感じがした。
「でもおろすよ。もう病院も手術日も決めてきたし」
「何で……」とは言葉にならなかった。絵里ちゃんは俺を愛しながら恨んでいる。本当は産みたいのだと、その眼が力なく語っている。弱々しいその手が、俺の首をぎりぎり締めつけている錯覚に陥った。息が出来ない。
「知ってるよ。あの宇宙人みたいな子と、手をつないで箱根に行ってたんでしょ」
「え?」
「別のサークルの子から教えてもらったの。もう、ごまかさなくて、いいから。いいの、もう、私……決めたし……」
違うとも、口には出せなかった。出した所で火に油だ。彼女の憎悪の炎は消せないに違いない。
「手術、あさってなの。つきっきりで、いてくれるよね?」
それが、あなたの出来るただひとつの償いになるのだよね? そう言いたげに、絵里ちゃんの瞳は俺を怖々と睨んでいた。俺はこの炎を消す方法を、頷く以外に持たなかった。
「ああ、行くよ」
絵里ちゃんの手術は午後六時からだった。俺は泣きじゃくる彼女をなだめ帰してから、部屋にこもり、藍に会いたい、と思った。俺の腕からもうじき飛翔する命と、もうじき死にゆく命。共通しているのはそのどちらとももう会えないという事だ。そのどちらかを選ぶとしたら――。神様はどんな正解を用意しているのだろう。テーブルの上で携帯が震えて、箱根細工がずずと動いた。届いたのはありふれたメールマガジンだった。俺は嘆息した。
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