私を地球に連れていって
@ichiuuu
第1話
「ね、私ずっと隠していたけど、実は宇宙人なのよ」
彼女がそう言ったのは、ある人気のないカフェの一角だった。
彼女はきらきらした、変わらない黒の瞳を開いて言う。
「ね、本当だったら。どうしてあなたは私を信じてくれないの。私、本当に、宇宙人なのよ。今度お迎えが来て、宇宙に行ってしまうの」
苦めのコーヒーをあおりながら、俺はついに、彼女がいく所までいってしまった、と思った。
彼女と最初に出会ったのは、高校二年の時、クラス替えで新しいクラスの席に座して、隣にいたのがこいつだった。
「こんにちは緑君。わたしは藍って言うの」
冗談だろと思ったら本当にこいつは藍というのだった。千賀崎藍(ちがさき あい)。つまりこの席はいつか同じになれる色が隣り合った訳だった。
藍の生態は不可思議に尽きた。授業中に音楽を聞いている。でも決して不良という訳じゃない。ただ本人曰く「いんすぴれーしょんが降って湧く」らしい。藍は煙草も吸っていた。けれどすぐに飽きてやめた。「所詮は草の味がするね」それはそうだと俺も笑った。
とにかく藍は変な奴だった。体育祭でもどこにもいなかった。いたかと思ったら屋上であおむけになっていた。「どうしたんだ」と尋ねれば「暇だったから、通信を待っていた」と。誰からの? 誰かからの。あの綺麗な瞳で、そう答えたのだった。抜けるような青空のした、俺達は宮澤賢治の銀河鉄道の夜の話をした。
「どうしてジョバンニはおいていかれたんだと思う?」
「うーん」
藍はしばらく考えていたらしかったが、気づいたら寝ていた。いつも夢を見ているみたいだった。
その藍は大人になっても俺の前にいる。二十一歳、秋。大学生で、本来なら就活に精を出しているはずなのに、彼女はどうした訳か、宇宙に行くだの言いだした。
「宇宙に行くって人工衛星にでもなるのか」
俺の呆れた物言いに、藍は至って真面目な顔で首を振った。
「違う。私は地球人から見て本当の宇宙人になるの。今日やっと通信が来たの。二十一年間待っていた。やっと連絡が来たの」
「へえ。連絡がね」
もうなんだか退屈になって、俺は唇にかけていたたばこをもみ消した。いつもならそれで藍は気付くはずなのに、今日はやけに饒舌に喋った。
「ねえ本当なの。私宇宙に行ってしまうんだってば。本当よ。メランコルがそうだと言っていたの」
「メランコル?」
俺は思わず問い返す。
「そうメランコル。私を未知へと誘ってくれる、不思議の妖精よ」
藍はそう言って、清々しいくらいの笑みを讃えた。
下北のカフェを出たのが夜の十時くらいだった。南口はいつも混雑しているが、北口の、外れはもう住宅地になり、やがては木立すらも失せていった。
藍は俺を家の前まで送っていった後、ふうと大きなため息をついた。
「もう少しなの。もう少しで来るのに場所が分からないの。メランコルの来てくれる場所」
「もうじき分かるよ。じゃあな」
「分からないわ」
藍はドアに消える寸前、悲しげな顔をした。
帰ると部屋は相変わらず乱れていた。ゴミを捨てるのが億劫でしょうがない。前は掃除と、食事に洗濯をこなしてくれた女もあったが、もう今はいない。また探さねばならない。藍のメランコルと同じように。藍も俺も、いつも何かに挫折している。俺は女で、藍はメランコル。
ベッドの上にはいつも女から笑われる宮澤賢治の童話集があった。久しぶりに開いてみる。そういえば藍もこれを好きだった。
どうして『銀河鉄道の夜』でジョバンニはカムパネルラに連れていってもらえなかったのだろう。どうして二人は永訣の朝を迎えなければならなかったのだろう。二人は無二の親友だったのに。俺なら耐えられない。あいつのいない世界なんて考えられない。藍のはにかむ顔が浮かぶ。
「一緒に行くよカムパネルラ」
そんな事を考えつつ眠りについた。
夢に見て、生まれた時の事を思い出す。実母は俺が育ってすぐいなくなった。育って、というのがいやらしい。俺が物ごころついて、誰かと誰かを判別し、なつくようになってから、あの人は消えてしまった。最初からいないのだとはもう思えなかった。
それが元で家の中は壊滅的に空気が悪くなった。姉も早くに家を出ていたし、父親は再婚して、その母が冷たかった。父のシャツは常々洗われていくのに、俺の洗濯はいつまで経っても臭いまま放置された。後で彼女が脱衣所で分別して、『自分の実の家族』と分けて洗っているのだと知った。
父親は家庭のこうした惨状を知りながらも、無視を続けた。恐ろしかったんだと思う。バツがこれ以上増える事は、金持ちで地方の名士と言われるあの人にはなおさら。
幸い金はいくらでも出たから、俺は適度に勉強をして、東京の大学に入った。高校で知り合った藍もついてきた。俺達は大学は違えど同じサークルに入る事が出来るのを知り、迷わずそうした。選んだのは藍の希望で天文サークル。入って三年経っても星を見た経験はない。ただ星空のもとでキャンプをして、いろいろなものを見せ合うだけだ。そこに大宇宙なんてない。だから、藍は悲しんで変な思想に走った。宇宙に手が届かなかったから、降りてきてもらおうと考えたのだ。
藍は、聞いた話では一人で図書館にこもって、何やら研究しているらしい。多分、アメリカが隠している何か。白く小さな、目の大きな人。その仲間だと思ったからなのか、彼女はいつまで経っても地上に馴染もうとしなかった。
「悲しいな」
俺の、狭いベッドの中で、あくる日絵里ちゃんは囁いた。不思議だなあという感想しか出てこなかった。こんなに美人で、金もあってサークルのマドンナというのに何を悲しむ事があるだろう。俺が声をかけたらすぐにこの部屋に来てくれた彼女は、気が強いとは聞いていたが前々から可愛いと思っていた。彼女なら、俺を裏切らない『大切な人』になってくれそうな気がした。少なくとも、地球人の中では。
「どうして悲しいの」
「緑君が本気になってくれないから」
俺は力なく笑った。それから強いキスをした。どうしてそんな事を言うのだろう。誰にも何も分からないのに。
緑という名は、いなくなった母がつけた。豊かにすくすく育って欲しいから。確かにあいつらはよく茂っている。公園にも街かどにも。でも、俺はよく育てなかった気がする。むなしく地を這って彩っていただけの気がする。
絵里ちゃんの細い腕が背中に回った。体が冷えている。もう、どうでもいいか、と思った。
「緑、お前絵里ちゃんと寝たの?」
その次の日の、もう夜も更けてぐらいの事だった。同じサークルの、たけしに俺は絡まれた。和食中心の安い居酒屋だったから、逃げるスペースもなく、俺はたけしの猛攻を浴び続けた。
「いいなあどうだったんだよ」
「お前全然サークル来ないくせに手だけは早いのな」
たけしは一見無邪気な笑顔で、俺に押し迫ってくる。すまない、とでもいえば良かったのだろうか。君が彼女を、好きだと知っていながら。
「なあ、どうなんだよ。お前ら付き合うのかあ?」
たけしはその浅黒の、にきびをはやした顔を赤らめた。俺は答える。
「多分。そうらしいね」
全部一過性で人ごとに過ぎなかった。
絵里ちゃんは情熱的な子だった。黒い艶やかな髪を束ねて、今日も俺の家にやってきた。背も高い。腹はくびれていて、でも胸はしっかりたゆんでいた。すっげえ、どうなってるんだろう、と、俺は彼女を抱きながらいつまでも考えた。
あれを抱いた事はあっただろうか。いや、一度もない。ふと藍の華奢な体躯が思い起こされる。あいつは危なっかしい程細くて、ついでに食も細い。地球の味になじめないのだろうか。
俺の夢はいつでもおかしかった。色つきだった。
そこでは小人が、いつでもせわしく働いている。俺もそれを少しは手伝う。けれど最後には宇宙船が来て、彼らを収容し連れ去ってしまう。待ってくれ俺のパンツ! そこで目が覚めるのだ。
目が覚めたら絵里ちゃんは洗濯機を回してくれていた。
「洗濯してくれるの? 」
絵里ちゃんは可愛い笑顔をして言った。
「うんしてあげる」
「俺のパンツ忘れないでね? 」
「うん、洗う洗う」
そう、だから大学も、普通で、日常だった。授業があって、サークルの皆とたまに手を振り合って、でも離れて座る。気が向くと絵里ちゃんや、他の知り合いと並んで座る。絵里ちゃんは前々から俺が好きだったという。不可思議だ。
この世は不可思議に満ちているのかもしれない。
藍はまた不思議な活動にこっていた。
伊勢原の自室にこもって青い無地のポスターを掲げ、それに白い絵の具を垂らしてはしゃいでいた。
「何やってんの? 」
「銀河作り! 私もうじき宇宙にかえるんだもの。お星様に囲まれて寝る練習をしなきゃ」
彼女は本当に、無邪気の化身に違いない。
俺は藍の刷毛を取ってやって、一緒に塗り始めた。藍は手つきが乱雑だ。ちょっと絵の具が、壁に漏れ出してしまう。おいおい大丈夫か? ここは賃貸だろう? でも藍は多分それでいいんだ。もういなくなるからこの部屋の全てに責任を負わなくていいんだ。
ペンキを塗り終えると、彼女はキッチンに出向いて、コーヒーを入れてくれた。
「クリイム入れますか」
「入れません」
なぜか敬語で話し合う。彼女はちょっと自分の分にクリームを溶かして、完成した星の部屋を見ていた。
「綺麗。これで大丈夫」
「本当に行っちゃうの?」
俺は冗談交じりで悲しげに訊く。藍がこちらを見た。
「うん行くよ。一緒に行きたい? 」
俺はちょっと考えてからこう答えた。
「考えとくよ」
藍の世界は本当に不思議。一緒に寝ていても何も起こらない。むなしいから、と藍はぼやいた。一緒になっても、また外れるから。布団もない、空もないこの部屋で。俺達は向かい合って、静かに眠った。
絵里ちゃんにこの事は言わないでおいた。
次の日の夕方、絵里ちゃんがまた俺の部屋を訪れた。相変わらず小気味よい程の速さで、台所をかたづけ洗濯物を洗ってくれる。洗濯物の中にはいつしか絵里ちゃんの物も多く混じるようになっていた。太陽の色のブラ、パンツ、超新星爆発みたいな色をしたキャミ。おっといけないいけない。俺もあいつに連れていかれてしまいそうだ。
あいつが仮に宇宙へ飛んでも、俺は地上に残らなくてはいけない気がする。一緒に行きたいけれど行ってはいけない。この星でしか生きられない、そんな名前を授かったからだろうか。だからもうじき、あいつとは会えなくなる。いつか宇宙へかえったあいつが、『私を地球に連れてって』と言うまでは。
絵里ちゃんの作ってくれたハンバーグを味わって、一緒にカクテルを飲んでソファに座る。絵里ちゃんの腰に手を回しながら、俺達はただひたすらにテレビを見る。濃いアイラインが頬骨まで届きそうな、髪を七色に染めた宇宙人のようなタレントが、クイズに失敗して笑いをとる。絵里ちゃんは楽しそうだったが、俺は心底、この地上には退屈なものがまかり通っている、と感じた。ああ多分、これから宙へ飛び立つあの女も同じ気持ちなのだ。宇宙飛行士でもない彼女は違うルートで宙へ飛び立つ。俺を地上に置いて、幾光年の彼方へ飛んでいく。
「もう二度と、会えないだろうな」
「え? 」
絵里ちゃんが大きな目で俺の目を射た。真っ黒な黒目が潤んでいた。俺は笑った。
「そろそろ寝ようか」
その日のしらじらまで、俺達は愛し合った。
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