雪と月

 その日は、晴れていた。この慶応三年という年は、晴れの日が多かったのかもしれぬ。

 冬の夜の寒気を背負い、伊東は、鼓星を頭上にしながら、やって来た。やって来て、近藤に会った。近藤を、伊東は斬るつもりであった。やって来た名目は、近頃囁かれるその噂が偽りであることの釈明と、新撰組と御陵衛士の今後を話し合う、ということであった。

 そこで、近藤を殺す。そのつもりであった。何を話したのかは知らぬが、結局、伊東は近藤を刺すことが出来なかった。

 近藤の自邸の脇には、土方、久二郎、それに「狂犬」「人斬り」のあだ名を持つ大石鍬次郎。祇園石段下で仲間を斬ろうとして、返り討ちにあった大石造酒蔵おおいしみきぞうの兄である。それが、乗り込んで斬ってしまいましょう、としきりに土方と久二郎に言ったが、土方が許さなかった。

 実際、近藤は、斬った、斬られたに疲れていた。伊東が自分を斬ろうとしていたとしても、自分は、伊東を斬らぬ。伊東にも、斬らせぬ。そう心を決めていた。

 室内から、近藤の声が、頼りなげな明かりと共に、漏れ出てきた。

「やめましょう、伊東さん」

 障子を、開けたらしい。

「私が死に、あなたが死んでも、時代は、勝手に動いてゆくのです」

 伊東の声は、ない。

「私はね、伊東さん」

 近藤の声は、暖かい。

「私や、あなたは、ひょっとすると、時代の流れの中で踊っているだけの、一枚の木の葉に過ぎないのではないか。そう思うのです」

「そんなことは、ない」

 伊東の声である。緊張している。

「私は、私の力で、必ず、時代を動かしてみせる。全ての国民──」

 と、伊東はこの先進的な語を用い、

「──に、安寧をもたらす国を造る」

 近藤は、声を立てない。しかし、柔らかに笑うのが土方には分かった。

「それを作るのは、あなたではない」

「私には、無理だと仰るのですか」

「そうではない。あなたは、時代を動かし、国を作るに値する人だと私は思う。だから、私は、あなたのことが好きなのです。あなたは、私の憧れです」

「近藤さん。あなたの言うことが、分からない」

「しかし、国を動かし、時代を作るのは、あなたではない。いや、人ではないのです」

「では、何が」

「時代を作るのは、時代。国を作るのは、国。我々は、その上を踊る木の葉の一枚、その底に敷き詰められた砂利の一粒」

「近藤さん」

「私は、なにかを諦めたわけではない。大政奉還が成ったとはいえ、なお徳川家はある。私は、死するその日まで、いや、死した後もなお、新撰組局長近藤勇として、帝を、徳川家をお守りする」

 伊東の絶句が、冬の夜の静寂の中に溶けた。近藤は、太陽のような男であるとずっと思っていた。しかし、近藤とは、こんなにも、たとえば、今部屋に差し込んでいる月の光のように、静かな光を放つ男なのか。

「だから」

 と、近藤は、穏やかに続ける。

「私を斬ったところで、それは揺るがぬ。あなたの唱える新たな国作りが、薩長を中心として彼らのほしいまままつりごとをする、というものでない限り、彼らがその策を受けることはない。私を斬ったところで、私は、私だ。次々と、新たな近藤勇が現れ、私と同じことをし、私と同じことを言うでしょう」

 伊東さん、と呼び掛けた。

「今夜は、遅い。帰り道、お気を付けて」

 少しして、伊東が近藤の自邸を出た。土方は、久二郎と大石に、

「後を、尾けろ」

 とだけ命令じた。斬れ、とは言わない。尾けて、伊東が、どこかで誰かと会わぬか見定める。もし、真っ直ぐ東山に帰らず、寄り道をして誰かに会うならば、その者が近藤暗殺を目論んだ黒幕ということになる。それがあるなら、掴んでおきたい。久二郎は、みじかい土方の命令で、その土方の思惑を察した。

 大石には、分からなかったらしい。油小路木津屋橋近く、本光寺という寺の前まで来たとき、闇の中から大石の刀がぬっと出て、伊東の背を突いた。

「大石!何をする!」

 久二郎は、大石を突き飛ばした。手から離れた太刀が伊東の背に残った。伊東は、そのまま、二、三歩、歩いた。歩いて、振り返った。

「伊東。これで、終わりだな。近藤局長を斬るなど、大それたことを考えるからだ」

 大石は、振り返った伊東に言った。

「奸賊どもめ」

 伊東が、呻くように言った。肺腑を貫かれたのか、苦しそうであった。大石が、脇差しで、伊東の腹をえぐる。伊東が痙攣しながら血を吐くのを、久二郎は、見ていた。

 大石は、もしかしたら、狂っているのかもしれない。倒れた伊東を蹴り飛ばし、唾を吐きかけ、久二郎を振り返り、笑った。その狂気の笑顔に、久二郎は、自分の影を見た。この血に狂った男も、自分も、そう変わりない。

 少し眼を閉じ、開いた。月が、優しく伊東の死体を照らしていた。


 久二郎は、大石を屯所に戻し、自分は近藤の自邸に駆け戻り、なにか話している土方と話す近藤に、その旨急報した。

「なんだと、斬ったのか」

「申し訳ありません。大石君を、止め切れませんでした」

「いや、あいつを付けた、俺の手落ちだ」

 近藤が、震える声で言う。

「綾瀬。伊東さんは。伊東さんは、死んだのか」

「はい」

「そんな」

「申し訳ありません」

「伊東さんが、死んだ」

「近藤さん」

 土方の鋭い声が、近藤を覚醒させた。

「こうなったら、御陵衛士の連中、乗り込んで来るぜ。衝突になる。先手を、打つぞ」

「どうするというのだ、歳」

「どうするかは、俺に任せてもらおう。あんたは、伊東さんのために、線香でも焚いておいてやれ」

「わかった。隊士の命を、守るためだな」

 土方は、はげしく伊東を憎悪している。私怨によって御陵衛士を潰すのではないのだな、と近藤は念を押したつもりであり、土方もその意思を汲んだ。

「隊士の命を、守るためだ」

 和泉守兼定二尺八寸を執り、土方は立ち上がった。久二郎もそれに続く。

 本光寺の前まで、二人は来た。近藤の家の小間使いが屯所に走り、今ごろ、永倉、原田、斎藤、井上に出動命令を伝えているはずだ。

 それが来る前に、土方はそのを終えた。伊東の死体を移動させ、油小路八条の辻に放り出した。久二郎が、伊東を引きずった。袴や羽織などに染み付いた伊東の血が凍り、きらきらと月の光を跳ね返している。

 さっきまで、晴れて、月が出ていたはずなのに、急にそれが隠れた。雪。積もりはしないだろう。降っては、融け、消えてゆく。

 監察方の山崎が、いちばんに駆け付けた。

「人を使い、高台寺に報せをやれ。伊東が酒に酔い、浪人者と揉め事を起こし、怪我をしたので、迎えを寄越せ、と」

 山崎が、それを復唱し、闇を濡らす雪の中に消えた。

 死体を餌に、御陵衛士を釣る。釣って、押し包んで、どうするのか。

「今日で、御陵衛士は、終わる」

 すぐ側にいる久二郎の思考を読んだかのように、土方は、辻の脇に身を潜めながら、言った。闇のため、表情は読み取れない。

 少しして、屯所から新撰組の者が一斉に駆け付けてきた。辻に面した民家、商家などの者を起こし、上がり込んで隠れ、辻を見張った。

 待った。もう、夜更けである。

「来ますか」

 久二郎は、ぽつりと言った。

「来る」

 土方が答えた。そういえば、寒い。細やかな雪は、まだ降っている。

「今日、伊東が近藤さんに会っていたことは、御陵衛士の中でも知らぬ者はない。その帰りに怪我をしたなど、そんな馬鹿な話はないと思うに決まっている」

 土方は、鼻をすすった。

「俺の差し金だと、すぐに分かるさ。俺からの逢瀬の恋文を、奴らは受け取り、必ず来る」

 振り返り、笑った。どういう心境でその笑顔が出たのかは分からない。いや、久二郎にも、分かるはずである。土方は笑い、久二郎は、黙った。その処理の仕方が異なるだけのことである。


 なお、待った。細かいとはいえ、体を少しずつ濡らす雪を避け、軒下に移動した。手が冷えては、剣が遅くなる。遅くなれば、死ぬ。

 来た。駕籠。周囲には、提灯の灯りが八つ。思ったよりも少ない。その場にいる土方、久二郎、永倉、原田、斎藤、井上は、祈った。こちらに近付いてくる提灯の灯の中に、藤堂と、彰介がいないことを。

「先生!」

「伊東先生!」

 彼らは辻の真ん中に放置された伊東の亡骸に駆け寄り、大声で泣いた。

 そのとき。あちらこちらから、新撰組の者が一挙に躍り出た。その数、三十余り。

 久二郎は、彼らの顔を見た。伊東の腹心、篠原。それに、伊東の実弟、鈴木。あとは、加納、服部など、一騎当千の剣客ども。その中に、額に傷のある泣き顔があった。

 藤堂。やはり、来た。そしてその隣には、彰介。のらりと伸びた上背は、見間違えようがない。黙って、鯉口を切っている。


 斬りかかった新撰組の一人を、彰介が抜き打ちに斬り捨てた。

 乱戦。

 さすが、精鋭揃いである。三十名を越える新撰組が、たった八名の御陵衛士に押されている。

 しかし、やはり、数の差をどうすることもできぬ。

 服部が原田の槍にかかり、毛内もうないという者が斎藤に斬り捨てられた。永倉は、藤堂と向き合っている。

「平助、お前を死なせるわけにはいかん。こちらに付け」

 そう諭した。

「冗談きついぜ、新八っつぁん」

 藤堂は、明るく笑った。

 斬り結ぶ。

 藤堂も、凄まじいまでの腕前を持っている。

 池田屋で負傷した際の額の傷痕を汗で濡らしながら、永倉に必死で斬りかかる。

 それを、永倉は、全ていなした。

「こちらに付かぬなら、せめて、逃げてくれ」

「新八っつぁん」

「頼む。誰も、お前が死ぬことなど、望んではいないのだ」

「できねぇ。俺は、御陵衛士だ」

 強く、永倉を突き離した。

「ここで逃げちゃ、男が廃るってもんよ」

 笑っている。

「やめろ、平助」

「いいや、やめない。やめるわけには、いかねェ」

「よせ」

 永倉が、押されだした。剣とは、技ではない。気の勝負である。気で押してくる藤堂の刀が、永倉のそれを押した。

「悪く思わんでくれ、新八っつぁん。俺は、あんたが、好きだった」

 永倉が、壁に叩きつけられる。

 刃が、首に来る。

 いや、来なかった。

 藤堂の手から力が抜け、刀を取り落とした。

 膝をつく藤堂の背後から、刀を突き出している新撰組隊士。たぶん、永倉の組の者だ。組長の危機と見て、藤堂を刺した。

「平助」

「まだだ、一突きされたぐれェで、この藤堂平助が、死んだりするもんかよ」

「平助、頼む」

「藤堂平助は、死んだりしねェんだ。敵の屍を越え、どこまでも行くんだよ」

 立ち上がった。

 脇差を抜く。

 両側から、新撰組の隊士が黒い羽織を靡かせながら、藤堂にぶつかった。

 藤堂の眼から、光は消えた。

 ゆっくり、倒れた。

「死んだり、しねェ。俺は──」

 藤堂は、死んだ。永倉は、立ち尽くしている。ふと、天を見た。雪はまだ止まぬが、どういうわけか空は晴れ、月がまた出ている。

 この夜は、新撰組にとって、最も残酷な夜であったかもしれない。


 思い出したように差し込む月の光の下、忘れ去られまいと降り続ける粉雪を受けながら、向かい合う、二人の男。

 久二郎と、彰介。

「退かぬか、彰介」

「退かぬ。久二郎。俺は、皆を、この場から逃がさねばならない」

「やるのか」

「やるしか、あるまい」

 血に濡れた刀を、久二郎に向けた。

「彰介」

 久二郎も、同じようにした。

「久二郎、来い」

 久二郎は、息を、冬の刺すような空気を、粉雪と月の光と一緒に吸い込んだ。眼を、一度閉じる。

「新撰組」

 閉じた眼が、見開いた。

「新撰組、十一番組組長、綾瀬久二郎──」

 それを聞いて、彰介が、嬉しそうに笑った。

「──参る!」

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