男二人
このようなときに限って、瞬太郎は、坂本の側にはいなかった。あとになって悔やんでも、仕方ない。瞬太郎は、実際、坂本の側に、いなかったのだから。
いなかったからこそ、坂本は、死んだ。死んだ者を、どうすることもできぬ。大政奉還を実現した坂本が誰に斬られたのか、今もってよく分かっていない。見廻組に所属していた今井信郎という者が、大正七年に死没する前、坂本龍馬を斬ったのは自分である旨の述懐をしたために、見廻組が手を下した説が有力とされているが、この当時は、新撰組の仕業とするのが最も有力であった。
また、最近では、大政奉還を為した坂本を疎ましく思い、彼が死ねば誰に最も利があるか、という見地から、薩摩藩が黒幕であるとする説もある。坂本が生きている限り、武力によって幕府と徳川家を潰し、薩長がこの国に覇を唱えることはできないのである。薩摩にしてみれば、坂本の唱える無血革命も、その先にある、徳川家を中心とした力のある藩の合議による共和制国家も、糞でも食らえというところであった。
結局、誰が、何故坂本を斬ったのか、真実は、今なお謎のままである。
瞬太郎にとっては、何故、ということなど、どうでもよい。彼にとっては、坂本が死んだということのみが、大事であった。同時に斬られ、数日後に死んだ陸援隊の中岡慎太郎と坂本は、この国を変えるつもりであった。
変えて、俺は、世界に出る。出て、商売をする。世界の海援隊じゃ。そう言っていた。瞬太郎は、その志を自らの理想とした。瞬太郎の理想とは、坂本その人であった。
それが、たった一夜、坂本の側を離れただけで、消えた。大政奉還が成り、この後、坂本は、また船に乗るというようなことを言っていた。その前に、暇を見つけ、瞬太郎は、千のもとに行っていた。お
慶応三年、十一月十五日。坂本龍馬は、河原町蛸薬師の、近江屋で死んだ。
その報せを、瞬太郎は、千を囲っている長屋で聞いた。千も、国事に奔走する瞬太郎から置き去りにされ、今この国で最も騒がしいはずの京に、ひっそりと忘れ去られたように暮らしている。瞬太郎の、千とのひとときは、まずその機嫌を取り持つことから始まる。
「どうであった」
「どう、とは何です」
「変わりないか」
「見ての通りです」
千は、ぷいとそっぽを向いてしまう。それも、可愛かった。
「今度、船に乗せてやろうか」
千は、嬉しそうに振り返った。
「ほんとう?」
「ああ、ほんとうだ。もうすぐ、世の中が落ち着く。そうしたら、坂本さんは、外国に出て商売をすると言っている。外国に、行ってみたくはないか」
千が、身を乗り出した。
「行きたい。とても、行きたい」
千は、久二郎の妹だから、美濃と飛騨の境にある山の村育ちである。そこから京に売られてきたわけだから、一度も海を見たことがない。
「よし、よし。では、坂本さんに、そう言っておく。船は揺れるぞ。大丈夫か」
「そんなもの、乗ってみなければ、分かりません」
こういうもの言いが、どことなく久二郎に似ているような気がして、瞬太郎は思わず苦笑した。
「それも、そうだ」
「船に乗ると、酔うと聞いたことがあります。ほんとう?」
「そうだな。酔う者は酔う。しかし、慣れることもある」
「じゃあ、今から慣らしておかないと」
千は、瞬太郎の手を取り、それを引いたり押したりして、船を漕ぐ真似をした。楽しそうに笑っている。白い前歯が唇にちらりと乗っかるのが、可愛い。眼は久二郎と同じ美しい奥二重。
船を漕ぐ子供の遊びを暫く続けて、二人は、大人の船を漕ぎだした。久々の、千の身体。その海に瞬太郎の船は、あえなく沈んだ。
そのまま、眠った。火鉢の火が快く、着流しの足をむき出しにして、朝を迎えた。
「瀬尾さん、いらっしゃいますか」
聞き覚えのある声。海援隊の者である。瞬太郎は、目やにをこすって落としながら、物憂げに玄関を開けた。
「どうした、こんな早くに」
登ったばかりの陽が差し込んできたので、瞬太郎は、手をかざし、影を作った。
「坂本さんが」
「中井君」
中井庄五郎という若者だった。坂本の海援隊の一員としてよく働く、明るい若者だった。出会った頃は、人斬りのような
「どうしたんだ」
「坂本さんが、ゆうべ」
声が、震えている。
「千」
式台を、飛び上がった。袴を手早く穿き、大小を腰に差し込む。千が、ようやく眼を覚ます。
「ちょっと、ゆく」
「もう、行くの」
「ああ、すぐに戻る」
飛ぶようにして、瞬太郎は、駆けた。
千は、見ていた。
瞬太郎が、朝の中へ消えてゆくのを。
「中井君。詳しく話せ」
中井のあとを駆けながら、瞬太郎は詳細を聞いた。襲われたのは、ゆうべ遅く。坂本は、頭を斬られ、即死。坂本の従者のような男──瞬太郎とも親しかった──と、中岡は、重傷を負いながらまだ生きている。
彼らが言うには、こうだ。
ゆうべ、坂本らは、訪ねてきた者が帰ってから、鍋を食おう、と言う話をした。坂本が従者に鍋の用意をするよう言い、従者は、階下に降りた。降りたところで、たまたま、来客がまたあった。才谷梅太郎という坂本の変名を、訪ねてきた男は口にした。幕府方の者が知るはずのない名である。従者が、急な来訪に訝しがりながらも、宿の戸を開いた。
「才谷先生は、もうお休みでしょうか」
「いえ、まだ、起きておいでです」
「急ぎます。是非、お取り次ぎ頂きたい」
「ええ、二階です」
そこで、従者の証言は、途切れている。背後から、斬られたのだ。
男らはそのまま二階に上がり、坂本のいる部屋の前に立った。どの部屋かすぐに分かった。襖の向こうから、坂本と中岡の丸出しの土佐弁と、明るい笑い声が聞こえてきたからだ。
その襖を、少し開いた。それに、坂本と、中岡が気付いた。
「才谷先生。お久しぶりでございます」
坂本は、迂闊であった。もともと、何かに怯えたり、警戒したりする気分の少ない男である。それが、彼をして大事業の成功者にしたのかもしれぬが、とにかく、彼は、この日、ひときわ迂闊であった。
「なんじゃ」
と、あろうことか、呼び掛けに返答したのである。それで、刺客にはどちらが坂本なのか分かった。
刺客は、四人。一斉に刀や小太刀を抜き、襲い掛かってきた。
更に、坂本は、悲しいくらいに迂闊であった。刀を、床の間に立て掛けていたのである。それを取り、鞘ぐるみ、刺客の斬撃を受け止めるのを、中岡が全身をなます斬りにされて畳に転がりながら見た。
刺客の肩が、盛り上がる。尻餅をついた格好の坂本の腕が、押されてゆく。
「こなくそ!」
刺客は、そう叫んだ。
ゆっくり、刃は、坂本の頭蓋を割った。
刺客どもは、去った。屏風に、坂本の血が飛んでいる。
それが、京都の霊山歴史博物館に常設展示してある。
黒く変色したその大小の点々が、かつて、坂本龍馬の体内を流れ、あの一人物の生命と人格を作っていたのだ、と思うと、言うに堪えないものが筆者の心を揺さぶるものであるが、瞬太郎が駆けて駆けて駆け付けた近江屋で見たこのときにおいては、変色前のそれは、紅く、みずみずしい。
中岡らは運び出されたようだが、そこに横たわっていたことを示す血溜まりがあった。
その向こう、床の間の前に、坂本はいた。仰向けで、手足を投げ出して。思えば、いつも、坂本は、このようにして生きていた。瞬太郎の好きな坂本とは、そういう男だった。
瞬太郎は、ただ、思った。坂本が、死んだ。ただ、そのことを、思った。
「新撰組の仕業という話です」
すぐ近くで、とても遠くから、中井の声がする。新撰組。瞬太郎にとっての新撰組とは、あの男のことであった。愛する千によく似た、奥二重の瞳。もし、世が平らかであれば、義理の兄になっていたかもしれぬ男。もし、世が平らかであれば、刎頸の友として共に生きてゆけたかもしれぬ男。瞬太郎は、あの愚直で、何の面白味もない、馬鹿正直な男が、好きだった。そして、次に出会ったとき、二人のうち、どちらかは死ぬ。
その日は、慶応三年、十二月七日。油小路花屋町にある、天満屋という宿。
海援隊は、船の衝突による賠償のことで、紀州藩と揉めていた。その遺恨で坂本は殺されたとする話が出た。海援隊の者どもが意趣返しに、その騒動の中心人物の一人であった三浦休太郎という者を襲撃する。その護衛に新撰組がついており、そこに、久二郎と、瞬太郎はいた。
向かい合った二人。まだ、剣は抜いていない。
「瀬尾瞬太郎。よもや、お前の方から出向いて来るとはな」
と、瞬太郎の好きな男は言った。どうも、
「今日は、一人か」
無論、久二郎一人で三浦の護衛にあたっていたわけではない。例えば、坂本が死ぬよりも前に新撰組に戻り、山口二郎と名前を変えていた斎藤もその場にいたし、他の隊士もいた。しかし、それらは、瞬太郎の眼中にない。一人か、という意味を、瞬太郎は言い直した。
「樋口は、おらぬのか」
久二郎は、ちょっと眼を伏せた。それが上がったとき、異様な光を放った。瞬太郎は、久二郎の言葉を待たず、そのことを察した。
「──死んだのか、あいつ」
「ああ、彰介は、死んだ」
二人の決着のことを描く前に、この十二月七日よりも少し時を戻し、坂本が死んだ三日後、十一月十八日のことについて、触れる。
その日、樋口彰介は死んだ。
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