岩の、動くとき

 重ねて言うが、新撰組は、忙しい。この慶応三年という年は、名実ともに徳川幕府ならびに学術的な用語で言うところの江戸時代が終焉を迎える年である。

 なにをもってして時代の境目とするかは人によって持論のあることであろうが、年号というものだけに着目すれば、来年にあたる慶応四年はすなわち明治元年であり、歴史の教科書で言うところの、「近代・現代」のカテゴリになる。

 京が、このとき、時代の渦の中心であったことは言うまでもない。更に新撰組は、その渦の中心のうちの一つであった。だから、新撰組は、忙しい。久二郎が武田を斬った日も、近藤は親藩会議なるものに出席していたし、その数日後には土方らが三条実美さんじょうさねとみなどの公卿と会談を行っている。

 時代の流れを正しく見極めておらねば、たちまち道を誤る。などとほんの数年前まで、山南などがよく言っていたものだが、もはやそれも必要ともしていない。

 新撰組は、名実ともに幕臣である。幕臣である以上、幕府を支える以外にない。万が一、幕府が滅ぶようなことがあるとするならば、新撰組はその最後の一人になるまで、幕臣として戦い続ける以外にない。選択肢があるうちは、人は迷い、選べぬものである。しかし、一つのことしか選べぬようになったら、もはやそこには選ぶという作業はない。そうなることを、彼らは、彼ら自身の意思で選んだ。選んだからには、それに従うまで。このところ、彼らの好きな「誠」の旗の意味は、少しずつ変わりつつある。いや、変わらぬからこそ、「誠」であるのかもしれない。

 誠とは、志。志とは、心。心とは、人。人とは、生。生とは、死。

 それを前提とするならば、たとえば久二郎が武田を斬ったようなことも、彼らにすれば自然なことであるのかもしれない。

 久二郎は、ご丁寧なことに、監察から情報を得たときに名の挙がった、武田が薩摩と通じようとするのを助けていた僧まで斬っている。誠の前には、貴人も庶民も僧も何もない。ただ、人として美しくあるかどうか。是非も正誤も問わぬ。それだけである。だから、もし、久二郎もまた彼の斬ってきた者どものように己の心を曲げた醜い生き物になるならば、誠の字のもと、閃く刃を受けるだけのことである。

 べつに、生き方を曲げること自体が、悪であるわけではない。曲げたその先に、誠があるか無いかである。要は、「生き様」のことである。ちなみに、死に様、という言葉は、この時代にも無論あったが、生き様、という言葉は無い。これは、恐らく戦後になってから造られたかなり新しい語で、その人の生きてきた足跡そくせきや、岐路にあるとき、何を見、何を選んだかを示す便利な語である。

 色々、理屈を並べてみたが、上手く、言葉にはできぬ。彼らが抱き、追い、信じるものは、そもそも、言葉にはならないものなのだから、仕方がないとしよう。


 とにかく、新撰組は、忙しい。忙しいが、久二郎のような組長格のものは依然として市中の見廻り、要人の護衛などを行っている。忙しいといえば、屯所がまた移転することになった。移転先は、西本願寺からやや南の不動堂村というところで、現代で言うところの、堀川塩小路あたりである。京都駅の北側の烏丸口から塩小路に出て、京都タワーのビルを右に見ながら少し歩けば塩小路通りが突き当たる。京言葉として有名なその「どんつき」のあたりに新たな屯所はあったと思われる。

 とどのつまり、西本願寺に追い出されたのだ。新たな屯所の設営に関わるあらゆる資金を西本願寺が負担する代わりに、出ていってもらうという寸法であった。そのこともあり、二つの屯所が近いことから、建物が建てば荷物を人足が運び、という具合で、出入りが多い。出入りが多いと、妙な者も混じってくるらしく、この移転の期間だけで数人、間者であることが割れた者があり、それらは全て斬られた。


「今日は、楽しく過ごせました。それにしても、このところ、詰めっ張りですね」

 久二郎の腰を揉みながら、春が言う。久二郎は、春の細く柔らかな親指の感触を楽しみながら、快い刺激に沈んでいる。詰めっ張り、とは、久二郎が屯所に、という意味か、久二郎の腰が、という意味か。どちらも、その通りである。

「新しい屯所は、いかがですか」

「移ったと思ったら、また移る。落ち着く暇もない」

「もう少しの、辛抱です」

「何故、分かる」

「もう少しで、世が治まるんでしょう」

 春は、そう信じている。どういう形で治まるのかは、春などには分からぬ。しかし、彼女は、公儀御直参見廻組格(新撰組の各組長の、幕臣としての身分)新撰組十一番組組長、綾瀬久二郎の妻たらんとしている女だ。久二郎は、彼女の誇りであった。久二郎は、その一剣でもって今の身分にのし上がり、時代の流れの中で働いている。そのことも、春は心から喜んでいたが、何より、久二郎は優しかった。春には心から愛されているという確信があった。

 たとえば、今日は、ほんとうに久しぶりの非番であったから、久二郎は何もせず、春と共に過ごした。どこか行きたいところはないか、と久二郎が言うので、清水に詣りたいと春は言った。

 清水など、久二郎は役目でしょっ中行くが、春は、京に来てから一度も行ったことがないと言う。朝から二人で家を出て、五条通りをまっすぐ東へ向かい、坂をのぼって清水に参詣した。帰りは、この後明治維新に貢献した者の多くが葬られることになる安井の坂を右手に見上げながら四条まで歩いて、谷三十郎を斬った祇園石段下を左に折れ、料亭で飯を食い、家に戻った。その間、久二郎は春を気遣い、足は疲れはせぬか、とか、何か食いたいものはないか、などとしきりに聞いて、春はなんだかおかしかった。

 その最中、五条坂から清水に上がり、今で言うところの茶碗坂から降りてくるとき、間で売られていた団子を春が求めると、久二郎は店まで小走りで走り、串に五つ挿された団子を二串買い、一つを春に差し出してやった。まったく物語とは無関係であるが、串に挿された団子の数も、関東と関西では違う。今は、関東でも関西でも大きめの団子が三つ挿されたものがコンビニなどでよく見受けられるが、この当時、関西は五つ、関東は四つであった。

 それはさておき、久二郎と春は、滅多にない、二人で過ごす一日を堪能した。帰ってから、春は久二郎の腰を揉んでやり、一日は終わろうとしている。

「春」

 うつ伏せになりながら、久二郎が、布団に顔を押し付けるようにして声を発した。

「お前と二人のときは、隊のことは、よい」

 春は、自分との時間を大切にしたい、と言ってくれていると解釈し、とても嬉しかった。自然と、笑みがこぼれてくる。

「春」

 また、久二郎の、くぐもった声。

「こっちに、来なさい」

 うつ伏せになったまま、久二郎の手が素早く春の手首を取り、あっと春が声を上げた瞬間には、二人の上下は逆になっている。春の着物の前が、乱されてゆく。白い、とても白い肌が、短くなった蝋燭の灯の中に浮かび上がった。その灯に、ぼんやりと輪がかかっているのを春は見つめながら、久二郎の体温と、自らの荒い息遣いを受け入れる。それもまた、春が感じる喜びの中でも大きなもののうちの一つであった。

 今日は、久二郎は、ただの久二郎。公儀御直参でもなければ、泣く子も黙る新撰組の鬼組長でもない。ただ、春に優しく、春を心から愛する、一人の男であった。


 忙しいといえば、伊東もそうである。御陵衛士として新撰組を脱盟してから、あちらを説き、こちらで聴きと、人に合うことで忙しい。坂本龍馬の盟友、陸援隊の中岡慎太郎とも会ったし、老中に建白書を提出したりもした。

 彼が常々持ち歩いている、自らしたためた冊子がある。それには、「大開国策」という表書きがある。伊東は、とても頭の良い男である。便宜上、新撰組を我が物にしようと悪知恵を働かせる狐、として描いているが、伊東の不幸は、自らの棲む水を得られなかったことである。彼は、父の代まで鈴木という姓で水戸藩に仕えていたが、故あって改易になった。その後、江戸の伊東道場に婿入りし、伊東と名乗っているわけだが、もし、彼がそのまま水戸藩に仕える身分のままであったなら、あるいは薩摩や長州に生まれ発言力の強い立場を得ていたならば、明治維新はもっと違う形をもって実現したかもしれぬ、と筆者は思う。

 彼の言う大開国策とは、まず、異国に対し、広く国を開く。そうして異国の強力な文明の利器や技術、強靭な組織を手にいれ、国を富ませ、然るのちにそれをもってして異国をうちはらうというものである。思想的には、坂本龍馬、勝海舟などこの国の同時代の者の中で最も優れた思想家と言われる者共と近いと言っていい。たとえば、薩摩や長州などは、幕府を潰して自分たちがこの国の実権を担うということのみ──と断ずるのは少々無理があるが──を考え、尊王、攘夷などはそのための理屈でしかないのに比べれば、大層立派な思想家であると言っていい。

 しかし、その思想は、どこに行っても受け入れられることはない。今述べたように、伊東は、社会的には、ただ水戸で生まれて神道無念流と北辰一刀流を極めただけの男であるからだ。

 いや、それだけではない。彼は、新撰組にいた。そのことが、彼が新撰組を離れてなお、彼に棲むべき水を与えなかった。

 あとは、彼自身がどの水に棲むべきか、その身をもって証明するしかない。伊東はこの時期、重大な決意をする。棲む水さえあれば、彼は魚になることができる。魚になって、激しい流れの中、瀧に怯むことなく、風と雲を得、天空に雄飛することができる。そのために、多少、己の手が汚れても構わないと思っている。

 これを読んでいる、新撰組に対し同情的な立場と視点を持つ、あるいはそれに至った読者諸氏のために分かりやすく言うなら、それが、彼にとっての「誠」である。

 

 一気に、ゆく。朝が来て、夜が来て、また朝が来る。そうしているうちに、油蝉あぶらぜみの声は、ひぐらしのそれへと変わり、睨むような陽射しは、日を追うごとに緩んでゆく。嵐が来て、晴れて、また嵐が来て、気付けば、めっきり涼しくなっている。「秋の陽は、つるべ落とし。」と言われるように、陽は短い。そして、その季節はもう冬に立ち代わられようとしている。

 慶応三年、十月十三日。徳川十五代将軍慶喜は、家康以来二百数十年に渡り続いた幕府の支配を終えることを宣言する。世に言う大政奉還である。坂本龍馬があらゆる伝手つてを駆使し、慶喜にその策を授けた。奉還、とは、レ点をふって「還し奉る。」と読む。朝廷に、である。慶喜にすれば、武力による倒幕を目論む薩摩や長州の先手を取ったことになる。幕府を潰す、と息巻いている連中をあざ笑うかのように、慶喜は、自らの意思で、幕府を消滅させてしまった。ざまあみろ、と、あかんべえをして見せたか、どうか。

 それはものの例えだが、あかんべえ、とはこの時代にもあった。あまりにも筆者のうんちくが多いため、書きながら、以前にも同じ事を書いたような気がしているが、実はかなり古い動作で、平安時代からあるらしい。「めかかう」「べかかう」などと表記され、ある文献にはご丁寧に目の下の皮を引いて、などと動作の説明まである。今でも、関西の老人は「べかこ」「べっかんこ」などと言う。


 それと同じ日、朝廷から、入れ違いに倒幕の密勅が下された。幕府はもう無いのだから、無効ということになるが、

「では、致し方あるまい。これから、皆で手を取り合い、新しい時代を造ろうぞ」

 と割り切れるほど、薩摩や長州、土佐などの連中は甘くはない。

 徳川を新政府に残せば、国内外を問わず、その首魁は慶喜ということになる。政治の形態が変わっただけで、それは今までと何も代わらぬ。薩摩や長州が目指したのは、あくまで、帝を中心としてこの国を取り仕切ることである。

 是が非でも戦をして、徳川慶喜を、そして形式上無くなったことになっている幕府を、この世から消し去ってしまわねばならぬ。


 ごとり。激しく流れる時代の河の中、一つの岩が動いた。その岩は、ただ動いただけなのか。それとも、その勢いで、流れの流れるままに、流されてゆくのか。あるいは、その岩が動いたことにより、流れそのものがその向きを変えるのか。

 久二郎も、近藤も、土方も、皆、自らを押し流そうとする激流を感じていた。感じて初めて、抗うことも従うこともできる。

 結果、彼らは、彼らの「誠」により、流されることを潔しとしなかった。

 徹底的に、抗う。可能ならば、その流れごと、押し返す。ここからが、見せ所である。

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