乱れに棲む

 世が乱れると、起こり得ないことが、起こる。そもそも、江戸時代において、局地的な反乱や事件などはあっても、世が乱れるということ自体があり得ぬことであった。しかし、現に二百数十年ぶりに、世は乱れている。更に、こののち、幕府が倒れ、新たな政府が出来るという、あり得ぬことが起こる。

 これは、この時代の急速な旋回において、重要な出来事である。無論、全ての事象が繋がり、相互に作用しながら回転しているわけだから、突然降ってきたように起こった出来事ではない。しかし、少し後、このことが明るみになったとき、たとえば新撰組の面々などは、真っ昼間の繁華街で幽霊に出くわしたほどの驚きがあったに違いない。例えばかりになるが、降ってきたとするならば、雨ではなく槍であった。それくらいの、大きな出来事である。

 明けて、慶応二年。これまで、犬猿の仲として知られていた薩摩と長州が、手を結んだのである。薩長同盟と言えば、歴史に興味のない者でも聞いたことはあるはずである。

 長州は言わずと知れた反幕派の中心で、薩摩はこの時点までは佐幕派である。文久三年八月十八日の政変で会津と手を結び、京から長州を追い落としたのも、薩摩であった。現代に例えるなら、犬猿の仲であるはずの与党と、野党の第一党が合併することに、あるいは米国が「ならず者」と名指しする物騒な国家と手を結ぶに等しい。

 同盟の中心人物は、薩摩の西郷吉之助、長州の木戸孝允。仲を取り持ったのが、元土佐で、この時点では海援隊を組織している坂本龍馬。当然のように、その傍らには、瞬太郎。


「これで、あたらしい時代の夜明けが、一歩近付いた」

 坂本は、満足そうである。

「この、夜のような時代に、陽が差すのですね」

 瞬太郎は、すっかり、いっぱしの志士である。坂本の巻き起こす時代の渦は、周りの海面を吸引し、その力を強めている。

 同盟の種、同時に海援隊の事業の一環として、飢饉に悩む薩摩には長州の兵糧、武器不足に悩む長州には薩摩の武器を、それぞれ交換させた。同盟の成立には、それこそ血の滲むような努力と、度重なる頓挫とがあった。それらを全て飲み込み、坂本という文字通りの龍は、掌中の珠を輝かせたのである。

 このさい、その過程は詳しくは描かぬ。一度、瞬太郎に、焦点をあててみる。


「千、やったぞ」

 瞬太郎は、久二郎の妹である千を、京に囲っている。無論、瞬太郎は千が久二郎の妹とは知らず、千は瞬太郎が久二郎の知り合いで、のちに敵になる男とは知らず、始まった関係である。千にしてみれば、肉親である久二郎のために好いた男を捨てることも出来ぬし、かといって唯一の肉親である久二郎を捨てるわけにもゆかぬから、苦しいところであろう。

 万一、二人が戦い、どちらかが死ぬようなことになれば、どちらが死んでも、千にとっては悲しみでしかない。

 しかし、それとは全く別のところで、一人の女のとして、やはり、この目の前の男のことは、好きだ。その男の仕事の成功を、千は喜んでやった。

 瞬太郎は、このところあちこちに船で飛び回る坂本の護衛としてつきっきりで、京にいる時間自体、貴重なのだ。遊び好きで、女の扱いには長けている方だが、千を知ってから、他の女には食指が動かない。それほど、千は美しい女であった。久二郎にもよく似た、切れ長の二重。無駄のない、程よい肉付きの身体と、豊かな髪。そして、肌が白い。久二郎の記憶にある千は、野良仕事によって、もっと陽に焼けていたが、京に来てから、陽に当たらぬ暮らしをしているため、すっかり肌が白くなっている。陽に焼けた千など知らぬ瞬太郎にとっては、ただただ肌の美しい女でしかない。

 そのどれも、瞬太郎は好きだった。仕事もおもしろいが、船に揺られ長崎に向かうときなど、まだ着いてもいないうちから千に会いたくなってくる。千は、好きな男に愛されて、嬉しそうだった。それをもっと喜ばせたくて、瞬太郎は、会う度、最大限の愛情表現をしてやる。

 しかし、千には心配事がある。やはり、京にいれば、新撰組の眼にかかりはしないかと思う。朝、瞬太郎が、坂本のもとへ戻るとき、

「お気をつけて」

 と言って見送るとき、胸を切り裂かれるような痛みがあった。兄と、想い人が戦うことは、千の最も怖れることであった。瞬太郎は、心配をさせまいとしているのか、何も言わない。心配をさせまいと思うなら、何もないなら何もないと言うはずである。しかし、何も言わないということは、何かあるということだ。現代の女性とは違うので、それをわざわざ根掘り葉掘り訊いたりはせぬが、心配なものは心配である。

 千はそこまでのことは知る由もないが、次に、久二郎と瞬太郎が顔を会わせれば、必ずどちらかが死ぬのである。

 久二郎は、隊命により、瞬太郎を必ず殺さねばならない。命を取られるくらいなら、瞬太郎も応じるであろう。べつに、瞬太郎は遺恨のために剣は振るわぬが、たとえば池田屋でも、瞬太郎の知る者が何人も新撰組によって斬られているから、戦う理由は十分すぎるほどにある。

 

 そのとき、残された千は、何を思うのであろうか。生き残ったのが久二郎であれ瞬太郎であれ、それを恨みの眼で見るのであろうか。それでは、千はどちらのことをも失うことになる。筆者も、なるべく、そのような思いをこの憐れな女にさせたくはないし、そもそも今話題にしている者はすべて筆者の創作の産物なのだから、筆者のさじ加減でどうにでもなりそうなものであるが、筆者にすら彼らがこの先どうなるのか、全く分からぬから、ものを書くというのは面白いものである。面白がるのは、彼らに申し訳ないような気も、少しする。


 本筋に戻る。筆者も追いきれぬほど、この時代は目まぐるしい。ましてや、そこに生きる人々の、日々のこととなれば、なおさらである。

 近藤は、また、伊東などを伴い、広島へ。京へ戻って、一月しか経っていない。当たり前であるが、まだ、薩長同盟のことは、幕府方には漏れていない。せいぜい、広島に乗り込んだ近藤らに対する長州の者の態度に、言葉では言えぬほどの若干の変化があった程度か。

 局長不在の間、隊はやはり心細げになる。つまらぬことでも争いになる。近藤の二度目の広島行きの間に、なんと三名もの隊士が死んでいる。

 ひとりは、大石造酒蔵。造酒蔵とかいて「みきぞう」と読む。新撰組隊士のなかでも、わりあい有名な「人斬り鍬次郎」で知られる、大石鍬次郎の弟である。とても変わったこの名の男は、ちょっとしつこい性格の男であり、隊士の今井という者に遺恨があり、顔を合わせるたびに絡んでは、難癖をつけていた。今井はあまり気の立つ方ではないから、いつも困ったような笑い顔を浮かべながら、逃げていた。

 それが、ついにやり合った。祇園石段下で、今井の後を尾けた大石が斬りかかり、返り討ちに合ったのだ。

 石段下の石段とは、東大路四条、八坂神社の石段のことである。筆者の中学の同級生の家が八坂神社奥、丸山公園内に当時あった旅館を営んでいたから、あの石段をよく上がったものであるが、その下で、朱塗りの八坂神社の門を、大石は地べたに転がりながら眺めた。

 今井も、眺めた。私闘は法度により禁じられているから、今井は隊に戻り、潔く腹を切るつもりであった。しかし、不問にされた。平素からの、大石の行動を誰もが知っていたから、非は明らかに大石にあるとした。兄の鍬次郎は、近藤らの警護のため、広島に行っていて、いない。知れば、激怒するであろう。兄もまた、弟に負けず劣らず、偏執的な性格を持っていた。人斬り、のあだ名の通り、暗殺などでしばしば活躍した。たとえば、久二郎や斎藤などのように信念のもとに剣を振るうのではなく、鍬次郎は、剣を振るうこと自体を楽しんでいるがあった。

 おそらく、弟が殺され、それが不問になったことに恨みを感じ、今井をつけ狙うようになるのであろう。鍬次郎という男は、そこで新撰組そのものを恨んだりはせぬ。あくまで、恨みを個人に向ける性質の男である。その先のことは、今は触れぬ。

 二人目は、勘定方の河合という者である。隊の金勘定が合わぬ、として、詰め腹を切らされた。

 三人目は、小川という者。五番隊とも一番隊とも言われる。小川にしてみればたまったものではないであろうが、彼が何故死んだのか、記録にすら残っていない。一説によると濃州浪人とあるから、久二郎や彰介と同郷ということになる。

 小川の死が記録にも残らぬほど、新撰組は、死に慣れてしまっていた。逆らえば、死。怯んでも、死。とにかく、死である。隊を締め付ければ締め付けるほど、叛く者が出てくるはずなのに、近藤不在の間、何故これほど多くの死者を出したのか、分からない。処分を下す土方にも、分からない。だが、彼は願っていたはずである。山南が死んだときから。

 ——もう、これで、最後にしてくれ。

 と。彼自身のその思いは、彼を裏切り続けた。死んだ本人を除けば、おそらく、最も心痛が強い者のうちの一人が、土方であったに違いない。


 この頃、久二郎も、毎日、肩を落として帰っていた。

「春」

 と呼ぶ声の優しさは変わらぬが、眼には隈が張り付き、少し痩せたようにも見える。春は、体を揉んでやったり、飯の味付けを少しだけ変えたり、久二郎のために工夫を凝らした。

「久二郎さん」

 と春は、呼ぶ。

「お辛そう」

 ついに、そのことを言った。久二郎は、少し考え、いつものように柔らかく笑うと、

「お前のために、俺は戦う。しかし、一人でこの迷い子のような時流を、どうすることも出来ぬ。隊が強くなければ、俺は、何も出来ぬのだ」

 と言った。

「だから、辛くはないのだ」

 とも。春は、微笑わらった。微笑うと、花が咲いたようになる。久二郎だけの、小さな花。その花が、久二郎は好きだった。

「世が治まれば、祝言だ」

 そのことを、久二郎はもう一度言った。近藤が広島から帰ってきて、長州が大人しくなる、あるいは、幕府によって滅ぼされる。そうすれば、世はある程度は治まるだろう。土佐や肥後など、その他の過激な者どもも、長州なくして大きな動きは出来まい。

 久二郎は、考えたこともない。だからこそ、長州をこの世に留めるべく、同じく全力で取り組む者どもがいることを。


 ところで、伊東は、今回は腹心の篠原を連れていっている。近藤は三月の頭には戻っているのに、伊東と篠原は戻っていない。長州の、より奥深くに入り込み、敵情をその眼でつぶさに見てくる、といって残ったらしい。土方に言わせれば、どうせ、過激な連中の間で新撰組を競りにかけているのさ、というところである。

 それが戻ったのが、三月の末。土方、近藤に、長州の状況をあれこれと説明した。諮問を受け持つ幕臣永井主水ですら、広島止まりであったのに、伊東が長州人と本拠のあちこちで交流しているというのは、どういうわけであろう。土方は、久二郎、斎藤などに、言い含めた。伊東に心服しているらしい彰介は外している。

「いよいよかもしれん。そのつもりでいろ」

 と。しかし、そのことが実行されるのは、まだもう少し先。まずは、眼の前のことを、一つずつ。

 新しい時代のために、励むしかない。久二郎の言う新しい時代とは、幕府に楯突く輩どもがいなくなり、国を挙げて外敵にあたり、世が再び平らかになることである。そのために、彼は、命じられれば誰でも斬るつもりである。

 春と出会って、久二郎は変わった。松原を斬るときも、躊躇いこそあれ、確実に仕留めた。隊の動揺を防ぐため、なんの関わりもない女を血贄にもした。全ては、彼の、誠のため。べつに、女のために人を斬るわけではない。しかし、女が、男に目的を与えることは、至極普通のことである。

 命じられれば、新撰組の参謀で、北辰一刀流と神道無念流の伊東をも、久二郎は葬るであろう。誰の手解きを受けたわけでもない、彼の誠のためだけに振るわれる、円慶流の剣と二尺五寸の、無銘の刀をもって。

 伊東をどうする、こうするの話が具体的に出るよりも早く、四月の頭、久二郎と斎藤に出動命令が出た。


 標的は、やはり手強い。

 七番組組長、谷三十郎。

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