血贄
四月の頭。旧暦だから、もう晩春というよりは初夏である。出動命令は、突然来た。
「綾瀬」
土方の部屋に、呼ばれた。そこで、土方は、
「谷を、斬れるか」
といきなり言う。斎藤も、土方の前に既に座っていた。
「どの、谷ですか」
新撰組の主だった隊士の中に、谷は三名いる。いや、いた。今は、二人になっている。
まず、七番組組長の谷三十郎。あとは、その弟、万太郎。さらにもう一人弟がいるが、それは今は、近藤の養子となって、近藤周平と名乗っている。それは外すとして、どちらの谷を斬るのか。万太郎は、真面目で目立たぬが、槍が上手く、周りにも好かれている。
斬るのは、言わずもがな、弟を近藤の養子にし、隊の中で権勢を持っていると思い違いをし、尊大な態度で嫌われている、長兄の三十郎であろう。しかし、嫌われているだけで、斬るのか。
「谷は、伊東の一派に入りたがっている」
端的に、土方は言った。それで、久二郎は理解した。近藤の縁戚である谷が、伊東に取り込まれれば、厄介である。
「副長」
久二郎は、素朴な疑問を投げ掛けた。
「それでは、谷——」
とこの標的を呼び捨てにし、
「——ではなく、伊東参謀を斬れば、話は早いのでは」
と問うた。
「谷は、小物。伊東参謀は、大物。生かしておいて、どちらが害になるか」
斎藤も、同意した。
「馬鹿」
忠実な実行者どもを、土方は諭す。
「前にも言ったがな。今、伊東を斬れば、その中に取り込んだ連中が、一斉に叛く。そうなりゃ、新撰組はおしまいだ。いいか。これは、伊東の下についている、あるいは付きたがっている古株の連中への、警告なのだ」
だから、彰介は呼ばれていないのか、と久二郎は察した。
「明日、奴は非番だ。祇園に、馴染みの女がいる。その帰りを、襲え」
指示は、以上である。谷は、槍の達人であり、強い。しかし、土方は、その一人を葬るのに、斎藤と久二郎の二人を
「隊のためだ。頼んだぜ」
土方は、特に久二郎に眼を合わせてきた。先日の、松原の一件があるからであろう。久二郎に、自らの発想で、松原を追わせ、そして斬らせ、無関係の女も斬らせた。本来なら、それは血も涙もない鬼副長の仕事である。
「何故谷が死んだか、分かる奴には分かる。思いッきり、震え上がらせてやンな」
襖に手をかけた久二郎に、被せて言った。久二郎は、黙って頷き、退出した。部屋には、土方と斎藤が残った。
「綾瀬君は、あぶない」
斎藤が、ぽつりと言う。
「松原君のことも、大いに気に病んでいるらしい」
土方は、立て膝になった。
「あいつには、辛い役目を、いつも押し付けている。山南のときも、そうだった」
膝の上に、腕を乗せる。こうすると、まるで少年のようにも見える。
「だが、大丈夫だ」
「言い切れますか」
「あいつには、見えているさ」
「何が」
「己の、為すべきことを」
斎藤は、少し、眼を閉じた。
「副長は」
そののち、口を開く。
「見えていますか」
土方は答えず、口の端を吊り、笑った。
「馬鹿野郎。
「私も、ゆきます」
斎藤も、退出した。部屋に、土方は一人、残された。誰にも、打ち明けられぬ孤独。一人で、隊の行く末を決め、実行する重圧。仲間の血を流してでも、成さねばならぬこととは。追う理想には、ほんとうにそれに見合った価値があるのか。
考えるだけ、無駄である。伊東は、潰す。近藤の、土方の、隊士ひとりひとりの、新撰組である。誰かの私有物ではない。新撰組の行動目的を、土方は明確に言葉には出来ぬ。だが、その言葉にならぬ想いこそ、新撰組であるべきだ。と痛烈に思っている。
だから、怯懦は、死。
逃げることも、死。
女のためでも、自らのためでも、時代のためでも、何でもよい。
ただ、我らの想いよ永遠なれと願いさえすれば。
そのために、生命を懸けさえすれば。
誠があれば、それでよい。
しかし、それを、誰にも教えられず、示されもせず、貫いて生きてゆけるほど、誰しもが頑丈に出来上がっているわけではない。
だから、犠牲は必要なのだ。誠の旗が赤いのは、それを貫くのに必要な、犠牲の色なのかもしれぬ。その旗が赤く染められれば染められるほど、仰ぎ見る者にとっては鮮やかに映る。
槍が出来るほか、大した取り柄もなく、威張っているばかりの谷のような男でも、役に立つことはある。久二郎も、そう思ってくれている、と土方は信じていた。
久二郎は、帰宅した。現代の女のように、
「今日は、どうだったの」
などと、春は言わない。黙って、袖で刀を受け取り、飯を暖める。
「春」
と、久二郎が声をかけた。汁を混ぜながら、春は狭い借家の、土間のかまどからこちらを見た。
「明日、仲間を斬る」
そう言って、久二郎は困ったように笑った。
「お気をつけて」
春は、それしか言わない。だが、その笑顔が、久二郎を救うのだ。粗末な食事が、運ばれてきた。しばしば、ぜんざい屋の花に手解きを受けているらしいが、料理はあまり上達はしていない。それでも、春は久二郎の帰りを待つ間、することもないので、繕い物をしたり、洗濯をする以外は、料理の練習をした。春は、ただ毎日、久二郎の帰りを待つという、幸福な日々にあった。
組長の給金は、高い。諸説あるが、筆者の知る中では永倉の述懐によるものが最も高く、月三十両ほどの給金が出ることもあったという。だが、二人の暮らしは質素である。久二郎も、春も、金があっても使い道を知らない。無論、着物はいいものを新調したりもした。しかし、季節ごとに一着か二着ある程度である。彼らの楽しみは、ただ共に過ごすことであった。
久二郎は、べつに剣が上手い方ではない。道場での試合など、主だった組長格の誰よりも、弱い。それでも、斬り合いで死ぬことはない。斬り合いとは、技ではないからだ。生きようとする意思と、生きる目的と相手の命を天秤にかける力こそが、生を繋ぐ。ただ共に過ごすことが、久二郎に力を与えているのかもしれぬ。
「大丈夫だ、俺は、負けぬ」
お気をつけて、と言う春に、久二郎はそう答えた。
そして、夜が明けた。久二郎はいつもの通り、屯営に向かい、何事もなかったかのように、日中を過ごす。非番の谷は、屯営にはいない。おそらく、朝寝してゆっくりと過ごし、昼か夕には馴染みの店に行くのだろう。非番の前夜に飲みに行けぬよう、土方が巧妙に夜回りの順番が七番組になるよう操作した。酒好きの谷に、より長い時間、飲ませるためである。
夕になり、久二郎は、それとなく屯所を出るため、組の者どもに稽古を付けるのを終えた。井戸で、水を浴びる。隣には、彰介の隆々とした肉体。
「これから、ちょっと、出てくる」
以前の彰介なら、何も言わず、頷いただけであったろうが、今の彰介は、言葉をよく発する。
「どこへ」
と尋ねてきた。他意はない。ただ、久二郎と会話をするだけのことである。
「今度、十一番組と三番組で、夜回りを強化してはどうかと、副長に意見するつもりだ。その打ち合わせを、斎藤さんとする」
「そうか。夜回りをな」
善良で素朴な彰介は、新たに得た言葉というものによるやり取りを、久二郎と楽しんだ。それを得たのは、伊東のもとである。彼は知らない。久二郎が、今から、彼に影響を与えた伊東への牽制の意味で、谷を斬りにいくことを。伊東のところでよく顔を合わせるから、彰介と谷は、わりあい親しい。一歩間違えれば、今夜斬られるのは、彰介であったのかもしれない。
「では、ゆく」
斎藤は、陽の暮れ始める前から、祇園に出向いている。谷が、既に店にいることを監察が知らせてきたからである。斎藤は、先に店にゆき、谷とたまたま居合わせた形で、一緒に飲む。久二郎も酒は弱くはないが、斎藤の方が遥かに強い。それが、刻限になると、谷を促し、店を出る。店は、東大路の四条上ル。屯所に戻るため、四条通りへ出るところを、久二郎が待ち伏せる。
屯所を、出た。祇園石段下で、待った。つい先日、ここで
八坂神社の朱色の門を、見上げて、待った。この界隈は、夜でも人通りは多い。久二郎は、さも待ち人が来ぬかのように、東大路の北の方を、あるいは朱色の門を見上げ、待った。
亥の刻。建仁寺の鐘が、それを報せている。
もう、来る。
石段の脇の暗がりに、身を潜める。
待った。
話し声。
違う。町人風の男が二人、酔ったように歩いてきた。
また、話し声と、笑い声。
無遠慮な高笑いに、聞き覚えがある。
谷と、斎藤の姿。久二郎の方を、ちらりと見た。
暗がりから、久二郎は滑るように、通りに身を晒した。前方で、斎藤が、立ち止まる。
「どうした、斎藤君。気分でも悪いのかね」
「いいえ、谷さん」
斎藤が振り返り、久二郎と眼を合わせた。気付いた谷が、刀の柄に手をかけ、弾かれたように振り返る。
久二郎の腰が、沈む。
右足の、踏み込み。
抜き打ち。
外された。
無論、谷は槍など持ち歩いていない。それでも、達人であることに変わりはない。
「貴様」
谷も、抜刀した。前後から挟まれることを嫌い、横に飛ぶ。戦い慣れている。
斎藤も、抜刀する。
久二郎と同時に、斬りかかる。
久二郎の刀を身をひねって避け、斎藤の刀を、右片手に持った刀で流す。
左手を柄尻に添え、一気にはね上げる。
斎藤の刀が弾かれる。
谷の酒臭い吐息が、当たった。酔っていてなお、この切れ味である。
斎藤の開いた身体を守る意味で、久二郎は谷に刀を突き出した。
通行人が、悲鳴を上げ、逃げてゆく。
「なんの意趣があってのことだ」
「意趣など、ない」
「この俺を、近藤局長の縁戚と、知ってのことであろうな」
谷は凄みながら、再び刀を正眼に置いた。久二郎は、鼻で笑った。
「貴様、笑ったな。局長を、愚弄するつもりだな」
殺しの達人二人相手に、谷は容易に仕掛けられない。言葉を発し、隙を窺うしかない。
「谷三十郎。お前が、新撰組を、愚弄しているのだ」
「なにを」
久二郎の、踏み込み。斎藤が、谷の背後を取ろうと、身を繰り出した。谷は屈みこんで、片手で久二郎の刀を受け、斎藤に足払いをかけた。斎藤が、つんのめって前に進んだ。進んだときに、咄嗟に振るった刀が、谷の左腕を斬った。
久二郎が、刀を押す腕の力を、強める。片手で、谷はそれを支えきれぬ。
更に、押す。首筋まで、あと一寸。
久二郎の刀が、石段の前に灯された辻行灯の光を、吸い込んでいる。
それが、谷の首筋の皮を裂き、紅くなった。
肉に、入った。
斎藤が、背後から、背を一刺し。
谷は、身をのけ反らせた。
首から刀を外し、逆袈裟に斬り下ろす。
真っ赤な花が、夜に咲いた。
血振りをして、納刀。仕事は、終わった。伊東どもに下らぬ企みをこれ以上させぬための血贄になった無惨な骸をそのまま残し、歩きだした。手から、身体から、鼻の中から、血の臭いがする。
谷が、誰に、なぜ斬られたのか、言わなくても、誰にでも分かるだろう。
伊東は、どのような顔をするだろうか。これで、下らぬ企みを取り止めるとは思えぬが。
久二郎は、四条通りを西へゆく斎藤の後ろ姿を見ながら、ふと思った。
彰介は、どのような顔をするだろうか。
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