局長不在
近藤は、先に触れた長州征伐にさきがけて、長州に尋問を行うこととなった幕臣の
伊東、武田あたりはともかく、監察方を伴っているのは、いわば敵地に乗り込むわけだから、不測の事態があってはならぬと、様々なことを偵知する必要があったからである。戦でいう斥候や、あるいは情報収集を行う忍びのようなものだ。やはり、新撰組は、それをどう捉えるかはさておき、事実、大きくなった。なにしろ数年前まで、江戸の貧乏道場で町人相手に剣術を教えていた近藤が幕臣の御供なのである。
松原のことを言う者は、もう誰もいない。松原は、女と心中した。斬った長州浪士の女に入れ込み、世話をしていたが、それが新撰組の組長として果たして許されることかという自責の念にかられ、女を斬り、自らも死んだ。そういうことになった。
そのときのことを描いておく。
誰にでも愛された古い同士の望まれぬ死に、心を痛める土方。あの鈴虫が鳴く夜、土方は、嗚咽をこらえていた。それに背を向けたままの久二郎も月の光を仰ぎ、身を溶かしている。
「副長」
その背が、言った。
「松原さんの亡骸を、女の家の中へ」
「中へ入れてどうする、綾瀬」
「松原さんは、逃げたわけではない」
「なんだと」
「心優しい松原さんは、浪士を斬り、その女のことを気にかけた。しかし、女に惚れてしまった」
そういう噂も、実際に立っていた。
「綾瀬、なにが言いたい」
「しかし、松原さんは、とても謹直です」
やっと、振り向いた。土方は、久二郎の頬に音もなく涙が伝っているのを、このときはじめて見た。
「新撰組として許されざる思いを抱いてしまったことに自責の念を感じ、女と心中したのです」
「ちょっと、待て」
松原の亡骸の脇に立ち尽くす土方を通り越し、久二郎は、道を戻った。うち捨てられた松原の脇差しを拾って、抜き身のままで握って。
坂をゆるやかに下り、曲がり道の林を越えると、女の家の明かりが、まだあった。
久二郎は、
久二郎は、女の身体を、支えた。柔らかな女の手触りがあった。黒い羽織が女の血を吸っている。握った松原の脇差しを、胸から抜く。女の口が二、三度開き、そこから血の臭いがした。
ゆっくりと、女の身体を玄関に倒した。愛しいものを、大切に、そっと置くように。
土方は、まだ松原の脇に立っていた。暗いのでよく分からぬが、さぁ、副長。と土方を促す久二郎に、死の臭いがこびりついていることに気付いて、はっとした。
二人で、亡骸を運ぶ。女の家にあがり込み、部屋に寝かせた。腹を、脇差しでえぐった傷。肩口から斬り下げた傷もあり、どう考えても自殺体には見えぬが、奉行所などどうにでもなる。旅装はほどき、屯所へ帰る途中、加茂川へ捨てた。
加茂川という字に違和感を感じる方のためにあえて解説するが、京を流れる川、といえば鴨川である。それは
久二郎と土方が行ったのは、現代風に言えば、偽装工作である。しかし、果たしてそれそのものが目的であろうか。奉行所などどうにでもなるなら、わざわざこのように手のこんだことをする必要はない。偽装のためではなく、新撰組のため、そして松原のため、久二郎はこのことを進んで行い、土方も、それに同意したからこそ、何も言わず、手伝った。
山南に続き、隊士に慕われる組長であった松原の脱走は、隊にたいへんな動揺をもたらす。
また、人に慕われる松原が逃げ、その途上で女に金を握らせるところを見咎められ、斬り殺されたという事実をそのまま世に呈示しては、あまりに憐れである。
脱走など、なかった。松原は、自らの想いと、新撰組の組長としての立場の両方に従い、そして死んだ。そういうことになった。可哀想なのは、巻き添えを食った女一人。
土方は、自分ではなく、久二郎にそのことを主導させたことを悔い、お前にこのような思いをさせることは、二度とせぬ。と言った。無関係の女を斬り、人の死の形を変えるような真似を、久二郎にさせるようなことを、である。これからも、剣は振るってもらう。しかし、あれは、俺がすべきことであった。と土方は重ねて言う。
久二郎は、それらの一連のことを春にも彰介にも言わなかった。深夜、血の臭いを振り撒きながら帰宅した久二郎の気配に起き、それが倒れこむように横になったのを見て、春は、なにも言わず湯を沸かし、下帯だけの姿にし、丹念に身体を拭ってやった。宙を見つめながら、久二郎は、されるがままになっている。
「おつとめ、ご苦労様でした」
それだけ、春は言った。衣服を着替えるのを手伝い、眠った。
彰介は、松原が女のところで心中したという話を聞いて、大いに動揺した。女のところに行ったのは、自分のせいだと思った。俺が、松原さんを殺したようなものだ。と彰介は自分を責めた。久二郎は、ほんとうのことを教えてやりたかったが、それはできぬ。ただ、お前のせいではない、と彰介を慰めることしかできない。
この年の暮れまで、近藤らは戻らない。それまでの一月あまり、隊の空気は、どことなく重いままである。重いだけなら、まだよい。嫌われ者の鬼副長が隊の留守を預かっているわけであるから、当然といえば当然である。
土方にとって良くないのは、隊の中に、乱れが芽生えつつあることであった。伊東の不在の間、伊東と一緒に江戸から来た腹心のような者どもが、しきりと伊東のことを賛美し、今の新撰組のことをそれとなく否定している。自然、隊士は、重苦しく張り詰めた空気から逃れるようにして、その伊東学壇とも呼べるコミュニティに参加した。べつに、ただ話をしているだけだから、土方も手出しができない。うかつにつつけば、それらの者どもが伊東派となって一斉に牙を剥いてくる恐れもあった。悪気はないにせよ、藤堂までもが伊東学壇に参画し、唾を飛ばしながら時勢や隊のありように対する理想を吹いているような有様であった。
役に立つのは、久二郎や斎藤など、思慮深く、そして忠実な者である。土方は、そのコミュニティに、斎藤を送りこんだ。久二郎は、もとより伊東にやや感化されつつある彰介から、それとなく、あの場で何の話があり、どのようなことが行われているのか聞き、土方に伝えた。それで、土方は、ほぼ伊東派の連中のことを掴むことができた。
外のことではない。新撰組は、まだ中のことで右往左往している。無理もない。見るべき外の景色は、昨日と今日でまるで違ったものになっているのである。その証拠に、
こんなはずではなかった。山南が、そのようなことを言った。松原も、言った。土方はその声を聞きながら、黙殺することしかできなかった。自ら考え、行動した久二郎の残忍な行動を、代わってやることができなかった。いつになれば、新撰組は一枚岩になるのか。
まず、
書いた名を、眺めるしかなかった。伊東派の者で、隊士に影響力がある者といえば、もう一人いる。
藤堂平助。
と帳面に書き、苦笑して、すぐに塗りつぶして消した。
それをぱたりと閉じ、一人、呟いた。
──近藤さん。早く、帰ってきてくれ。
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