追手
山南が、脱走した。久二郎の家で飲み食いして、女のところに行く、として席を外し、そのまま一旦屯所に戻り、逃げたものらしい。彼の部屋からは、僅かな荷物が消えていた。
久二郎は、やはり、と思った。土方も思い当たる節があったらしく、沈痛な顔をしている。
「歳、どうする」
近藤が、紙のように顔を白くして、乾いた唇で言った。
「お待ち下さい」
伊東である。どうせ、どうする、とは何事です、まずは、山南総長がほんとうに逃げたのか否かを確かめ、ほんとうならば、何故そこに至ったのか、事情を酌む余地はないのかを検討すべきです、とかそのようなことを言うに決まっているから、わざわざ鈎括弧を用いてまでは描かぬ。それに対する土方の返答は、こうである。
「脱走は、死。それが法度だ。事情は、関係ない」
その心中は、いかばかりであろうか。彼は、最も山南を信頼する者のうちの一人である。意見をぶつからせこそすれ、彼らは、いつも共に新撰組のため、その知と力の全てを注いできた。今、この山南の部屋にいて、立ったまま呆然と立ち尽くしている者――近藤、土方、伊東、久二郎、彰介、沖田、斎藤など――の中で、土方が最も、心理的に衝撃を受けているはずである。
山南は、ずっと、体調を崩していた。あれは、やはり気のものだったのだ。何が、山南をそれほどまでに追い詰めたのか、分からなくもない。山南は、己の作った近藤と新撰組が、己の手の届かぬところに行ってしまった、と思ったのだ。隊士は育ち、それぞれの意思をもって新撰組のために働いている。緻密に作り上げられた組織は、なにもせずとも自転する。近藤は、土方と伊東を頼っていればそれでよい。伊東は、隊士の人気集めに走っている。
もう、この先も、新撰組が山南を必要とすることは、ないだろう。親鳥が雛の巣立ちを見るように、山南は新撰組を見ていたのだろうか。あるいは、一人娘がもらわれてゆくような喪失感をもって見ていたのだろうか。そのことに思いを馳せても、もはやどうしようもない。あるのは、山南が逃げた、という事実である。
「追手を発する。総司」
呼ばれて、沖田は青黒い顔を上げた。自分が呼ばれると思っていなかったのか、意外そうな顔をしている。
「綾瀬」
久二郎も、顔を上げた。昨日、最後に話したのは、久二郎である。あの時、力ずくでも、止めていれば。
「二人で、追ってもらう。綾瀬、山南君の行き先に、心当たりはないか」
「江戸へでも帰るか、というようなことを、仰っていました。戯れのような口調でしたが」
「東だ。道の分かれる、草津までに追い付け。追い付かなければ、戻ってくるしかない」
「はい」
久二郎と沖田は、連れ立って進発した。馬を用いている。屯所から、四条へ。川端まで出て、北へ折れる。三条を東へ折れ、そのまま進むと蹴上。そこまで、二人とも、何も言わない。
蹴上の坂、こんにちでいうところの地下鉄東西線の蹴上駅の降り口と浄水場のあるあたりで、沖田が口を開いた。
「嫌な役目ですね」
ちょっと、久二郎の顔色を伺うような響きがある。もしかすると、山を一つ越えた山科のあたりで適当に時間を潰し、草津まで行ったが見つからなかった、として戻る。ということを考えているのかもしれない。
「ええ、そうですね」
久二郎は同意した。沖田が、
「あのね、綾瀬さん」
と、切り出そうとしたのを遮って、
「山南総長は、馬は用いていない。とすれば、大津あたりで泊まるのではないですか」
と言った。沖田は、冬の空に白い息を溶かしながら、
「そうですね」
と
「あのね、綾瀬さん」
沖田は、馬に坂を上らせながら、また言った。雲の向こうに、陽がぼんやりと浮かんでいるのを、見ている。
「私が戦って負けた、最初で最後の人が、山南さんなんですよ」
久二郎は、沖田の方を見た。その笑顔は、やはり透き通っている。
「私は、小さい頃から、誰にも負けませんでした。だから、私が、この国で一番だとずっと思っていた。でもね、違ったんです」
沖田は、ぱっと久二郎の方に顔を向けた。
「すごいんですよ、山南さん。あの人が、はじめて江戸の試衛館を訪れたとき、私は試合をしたんです。私は、わずかに一合で、一本取られてしまいました。竹刀がどう動いたのか、全く分かりませんでしたよ」
「それは、凄い」
久二郎は、沖田の心中を酌み、話を合わせた。
「それでね、あの人、何て言ったと思います」
「さあ」
「強さとは、剣の強さではない、って言ったんです。私に勝っておきながら、ですよ。なんか、もう、すごく好きになっちゃって。あんなふうになりたいと、ずっと思っていたんです」
沖田は、脇の木に、眼をやった。別に何もない。久二郎から、顔を背けたのかもしれない。沖田が再び振り返るとき、その眼に涙が浮かんでいるような気がして、久二郎は、まっすぐに前を見た。
「山南さん、江戸に帰って、どうするつもりだったんでしょうね」
「分かりません」
久二郎は、だんだん、沖田と話すのが辛くなってきている。気を逸らすため、土方が何故追手に沖田と自分を指名したのか、考えた。
沖田を指名したのは、沖田なら山南を逃がすと思ったのではないか。そうならば、土方は、法度の手前、山南を不問にするわけにはゆかぬが、隊内随一の使い手である沖田を追手として差し向けて見つからなかったのであれば、どうしようもない、という理屈を用いて、山南を逃がすことができる。
久二郎を指名したのは、きっと、久二郎が山南を追いたがっている、ということを見抜いてのことだ。会い、連れ戻すのか、会い、見逃すのか、会えずに帰ってくるのかは久二郎に任せる。
このように、土方は沖田、久二郎、山南それぞれの気持ちに寄り添った選択をしたのではないか、と思える。それはすなわち、隊の総意でもある。伊東にもっともらしく諭されずとも、隊の中に、山南を力ずくで連れ戻し、腹を切らせることを望んでいる者などいないことくらい百も承知だし、土方は、むしろそれを最も望まぬ者である。
蹴上を越え、山科の村に入った。そのまま、現在国道一六一号線となっている街道を行き、蝉丸の歌で有名な逢坂の関を越えれば、近江国である。草津を目指すのであれば東海道、現在で言うところの国道一号線を用いたほうが早いが、それをせぬ理由はもはや語るまい。
しかし、その途上の茶屋に、山南はいた。山南を探すことが二人の目的であるはずなのに、前方から、
「沖田君、綾瀬君」
と声をかけられたとき、二人は白昼に妖怪に出会ったほどの衝撃を受けた。なぜ、いるのだ。ただそう思った。
山南は、粗末な笠を被り、小さな包みを身体に結び、歩み寄ってくる。
その笑顔は、いつもと変わらぬものだった。
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