散りてぞ人に

「山南さん」

 久二郎は、その名を呼んだ。目の前に立つ、誰にでも好かれる眼の細い男を、ただ、呼ぶしかなかった。冬の日差しが、山南の姿を儚く、そして確かなものとして浮かび上がらせた。沖田が、馬から降りる。

「なぜ」

 満身の疑問を、その一言で投げ掛けた。それに、山南は、ただ笑うのみで答えた。

「なにが、おかしいのですか」

 沖田は、よろよろと、老人のように山南の方に歩み寄ってゆく。山南は、ちょっと腕組みをした。

「今から戻っては、遅くなる。どうだ、今宵は、この山科で、三人で泊まらぬか。銭なら、私が出す」

 と、拍子抜けするような明るさで山南は言った。

「しかし」

 と久二郎は、泊まる、泊まらない以前の反問をした。

「なに、もう、路銀の心配は無くなったのだ。銭のことは、気にするな」

 と、山南は銭の話をした。それで、自らの意思を、伝えたつもりらしい。

「山南さん」

 沖田が、無意味に名を呼んだ。呼んでどうするわけでもない。

「見なかったことにします。私たちは、草津まで行った。しかし、貴方は既に東海道、中仙道のどちらを行ったのか分からなかった」

 喉に、何かが引っ掛かったように言う。

「しかし、君達は、見た。隊を脱し、逃げる私を。それを、組長たる君達が、見逃すのかね」

「あなたに死んで欲しいと思っている者なんて、どこにもいやしませんよ、山南さん。分かりませんか」

 沖田が、語気を強めた。久二郎は、二人のやり取りを、じっと見守っている。

「頼む」

 と山南は言う。

「私を、見逃すな。私に、見逃された者としてこれからを生きろと言うな。頼む」

「嫌です」

 山南の柔和な視線が、久二郎の方に向いた。

「困ったものだ。沖田君の聞かん坊は、相変わらずらしい」

「山南さん」

 久二郎は、また、名を呼んだ。追って、会って、どうするつもりであったのか、自分でも分からない。ただ、山南の前に、久二郎はいた。

「なにかね」

「もう、お気持ちは、変わらないのですね」

「私は、一度だって、自分の気持ちを変えたことなどない。隊が大きくなるにつれ、皆、心のありようを変えて行った。私だけが、未だに、新撰組を掌中の珠と思い、我が物のように愛でているのだ」

「そんなことは」

「私だけは、変われなかった。そのような者に、総長たる資格はない」

「それは、山南さんが決めることではありません」

「いや、決める。私は総長としての権限をもって、私を断罪する。私は、これからも新たな歩みを続けてゆく新撰組の血贄に、喜んでなろう」

「それを望む人など、いないと言っているでしょうに」

 沖田が、ほとんど懇願するようにして言った。

「いる。ここに」

「頑固者」

 山南は、声を寒空に振り撒いて、笑った。

「確かに、そうかもしれんな」

「仕方ありません」

 沖田は、いきなり踏み込んだ。山南の身体が、崩れる。久二郎は、一瞬、何が起きたのか分からなかった。沖田は、山南の身体を支え、久二郎の方に首だけ向けた。

「当て身です」

 沖田は、それを馬の背に載せると、手近な宿に放り込んだ。

「さて、ゆっくり戻りましょう」

 と、無邪気に笑った。

「いいんですか、こんなことをして」

「だって、こうでもしなきゃ、意地でも一緒に屯所に戻るって言い張りますよ。頑固なんだから。明日の朝になって、宿で眼を覚ましたら、思い直して逃げてくれるでしょう」

「そうでしょうか」

「ええ、きっと。私が、こうまでして山南さんに生きてほしいと願っていることを、分かってくれるはずです」

 ゆっくりと、歩くような早さで、馬を戻した。再び、蹴上に差し掛かった頃には、日が暮れた。京の冬は、昼が短い。

「ゆっくり戻って、どこかで泊まり、明日の夜くらいに戻る。草津まで馬を走らせたけれど、山南さんには行き合わなかった、と言えば、それでしまいです」

 短い夕暮れ時の光の中、沖田の顔が赤く照らされた。その顔を背け、少し、咳をして、

「ね、綾瀬さん」

 と笑った。自らの不安を、笑うことで押し流そうとしているようにも見えた。

 馬を番所につないで、河原町の料亭で飯を食い、夜を明かし、更に夜を待ち、二人は屯所に戻った。

「戻ったか」

 土方は、玄関脇の小部屋で、待っていた。

「草津まで、馬を飛ばしました。山南さんには、行き合えませんでした」

 と沖田が報告した。土方は、その表情を少し窺ってから、

「そうか。ご苦労であった」

 と短く言い、自室へ戻っていった。

「少し、身体が冷えたようです。もう、休みましょう」

 沖田も、自室へ戻ってゆく。久二郎も、部屋に引き取った。

「どうだった」

 部屋で、彰介が心配そうに久二郎を迎えた。

「草津までは行った。しかし、見つからなかった」

「戻るのが、やけに早かったではないか」

「ああ」

 とだけ言い、寝巻に着替えると、ごろりと横になった。すきま風が顔に当たるが、それを気にするような気持ちではない。いつ眠ったのか分からぬが、明け方の青い部屋の中、久二郎は、騒がしさで眼を開けた。

 部屋の前の廊下を、足音が行き交う。

 ――山南総長が、戻られたそうだ。

 ――馬鹿な。

 跳ね起きた。襖を開け放ち、皺の入った寝巻のまま、山南の部屋に飛び込んだ。

 屯所を出る前、一人で打っていたのか、の碁が、そのまま残されていた。その前に、山南は座っていた。部屋の隅では、憮然とした土方が、片ひざを立て、それを睨んでいる。厳しい視線が、立ち尽くす久二郎を射抜いた。

手前てめぇで、戻ってきやがった。この馬鹿は」

 ぱちり、と碁石を打つ音がした。

「おい、お前のことだ」

 土方は立ち上がり、碁盤の上の碁石を、払いのけた。無惨なほどに碁石は散らばり、転がった。山南が、ゆっくりと視線を上げる。どのような顔をしているのか、久二郎の位置からは見えない。

「手荒いな、土方君」

 声は、穏やかである。

「俺達が、どれだけ気を揉んでやっているか、分からねェか」

「分かっているさ。ありがとう。だが、私は、もう、後には引けぬのだ」

「こうなる前に、何故、俺に言わねェ」

「君にだけは、話したくなかった」

「何故だ」

「私は、いつも、君を見ていた。君が、私にないものを多く持っているのを、羨んでいた。そして、君もまた、私のことを同じように見てくれていることを、知っていたからだ」

 土方は、黙った。憤然と立ち上がり、どけ、と久二郎に鋭く言い、部屋を出ていった。

「折角、気を回してくれたのに、戻って来てしまったよ」

「何故、戻られたのです。沖田さんの、我々の気持ちが――」

 山南が、ゆっくりと振り向いた。

「分かっているさ。それでも、私は、戻らねばならなかったのだ」

 久二郎は、自らの膝が、冷たいと思った。

 濡れている?

 いや、涙。

「さっき、近藤局長に、会った。局長も、泣いておられた」

「当たり前でしょう」

「だから、私は、局長として、毅然としなければならない、と諭した。そうしたら、局長はどうしたと思う」

 久二郎は、自らの掌に爪が食い込んでゆくのを感じた。

「殴られたよ。ほら」

 滲む視界の中、目をこらすと、山南の口の端が赤く腫れているのが分かった。

「何度も、尋ねられた。心変わりはせぬかと。何度でも、私は同じように答えた」

 山南は、久二郎に歩み寄り、肩に手をかけた。華奢な身体からは想像もできぬほど、強い力だった。

「局長を、土方君を、たすけてやってくれ。これから、まだまだ色々なことが起こる。わけのわからぬまま、流されるな。抗うにせよ、身を任せるにせよ、必ず、確固たる意思のもと、やれ」

 この男は、何を言っているのだ。と久二郎は思った。思うしかなかった。

「お前達の全てが、一人一人が、新撰組なのだ。決して、己を裏切るな。守るべきものを、見誤るな。意地を、貫け。そうすることが、自らの守るべきもののためにならぬなら、意地など捨ててしまえ。為すべきことが分からず迷うことがあれば、仲間の、そして己の声を聴け」

 久二郎は、もう、声を殺すことができない。

「誠の旗を、心に立てろ。それが、お前達を、導くのだ」

 はっきりと分かった。

 明日、目の前の、皆に好かれる聡明な総長は、死ぬのだ。

 何が彼を殺すわけでもない。

 彼は、彼自身のために、死ぬのだ。

 彼の心の中の、誠の旗のために、彼は死ぬのだ。

 それは、理由にはならぬ、といかに久二郎が思っても、そうなのだ。

 久二郎の好きな男は、明日、死ぬのだ。

「山南敬介。隊規に叛いたかどにより、局長の命を受け、明日、腹を切る」

 そう言って、少し笑った。さすがに、いつものような笑顔には、ならなかった。

「介錯を、させて下さい」

 久二郎は、枯れた声で、やっとそれだけを言った。

「それは、沖田君に頼もうと思っている」

 古い付き合いの仲である。それが順当であろう。

「お前は、私の死を、背負うことはないのだ。まだ、先は長いのだから」

「それは、沖田さんも、同じはずです」

 山南は、ゆっくりとかぶりを振った。

「誰にも言うな。あれは、もう長くはない」

「どういう、意味です」

「あれは、肺を病んでいる。もう、長くはないのだ」

「馬鹿な」

「そう、馬鹿な話さ。あれほどの男が、病ごときで死ぬなど」

「信じられません」

「あれは、それを知りながら、いや、知っているからこそ、誰よりも励んでいる。残り少ない生命いのちを、新撰組一番組組長として、燃やそうとしているのだ。あれには、私の屍を、越えて行ってもらわねばならん」

 久二郎には、口を差し挟むことはできない。


 翌日の夜、山南は、壬生の屯所の一室で、主要な人員の見守る中、静かに、作法の通りに腹を切った。近藤が、好きな忠臣蔵を引いて浅野内匠頭でもこうは見事には果てまい、と感嘆したというが、嘘であろう。近藤は、ただ、目の前の友人が死ぬのを、見ているしかなかった。眼を背けるわけにもゆかぬ。友人の死を、ただ見守ることが、彼にできる精一杯の、そして唯一のことだった。

 介錯の剣を振り下ろすとき、沖田の顔は、惜しむような、慈しむような、安らぐような、形容し難いものであった。強いて言うなら、山科で山南に行き合ったときに差し込んでいた冬の陽に、似ていた。


 春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に、惜しまるるかな。

 伊東が、山南の死を悼んで詠んだ歌である。七五調の決まりきった文句の歌などで山南を表すことは、誰にもできない。

 たとえば、介錯の刹那の、沖田の顔。

 あるいは、土方の嗚咽。その肩に、優しく手をかける井上。その向かいで、じっと座し、眼を閉じている近藤の背中。

 やり場のない感情を、畳を叩いて喚き散らかすことでしか表せぬ原田。

 涙を隠すように、深夜の道場で汗まみれになる永倉と斎藤。

 涙を流しながら、自宅で小春を激しく抱く久二郎。

 彼らの心にある、誠の旗。

 山南という風が、それをはためかせている。

 それが、山南敬介という男が、どのような男だったのかを、分かりやすく表しているように思う。

 断じて言う。

 山南の死は、美談ではない。美談になど、なり得ぬのだ。

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