寒風の中

 久二郎は、監察方が見つけてくれた猪熊通り高辻上ルの借家に移った。壬生の屯所にほど近く、かつ、今度移転する西本願寺からも近い場所であった。どうやったのかは知らぬが、家賃もこの辺りの相場に比べ格段に安い。狭い長屋が立ち並んだ一画ではあるが、そこは文句は言えぬ。

 小春は、遊女になりたてで位の低い新造であったとはいえ、それなりに美々しく着飾っていたときと違い、こうして普通の町娘の格好をしていると、いかにも素朴で、頬に小さなそばかすがあったり、兎のような前歯が目立って見えたり、新たな発見があった。しかし、かえって、その素朴さが、小春の美しさを際立たせているように思った。冬らしい、濃い色彩の着物にも不必要な飾りはなく、肌の白さによく似合う。抱くと、今までとは違う感慨があった。この肌を、自分以外の誰も感じることはないのだ。白いももも、柔らかな乳房も、春に色付く梅の花のような唇も、におの鳴くような声も、全て、自分のものなのだ。

 それが、久二郎を満足させた。最初、はじめての夜のように、小春は戸惑い、緊張していた。

「小春さん」

 久二郎が、寝床で店の頃と同じように彼女の名を呼んだ。小春は、

「春、と呼んで下さいまし」

 と、細く言った。春、が彼女のほんとうの名であり、小春は、久二郎の前で、晴れて春になることができたわけだから、これより彼女のことは春、と呼ぶことにする。

 春、と呼んで下さいまし、と言ったことが、春自身の固く縮まった心と体を、一気に融かした。融けてしまうと、店にいた頃よりもむしろ激しく久二郎を受け入れた。店にいた頃から、久二郎が、ほんとうに自分に恋焦がれているのだと感じていた。そして今、春はなお強く、それを感じることができるのが嬉しかった。

 こうして、二人は共に暮らすようになった。無論、祝言を挙げたわけではないから、正式な夫婦ではない。しかし、世が落ち着いたら、祝言を挙げよう。と久二郎は言い、春はそれを喜んだ。


 その新生活の内祝いとして、久二郎は新撰組の主だった面子を呼んだ。夜になれば、狭い借家の中一杯に彼らが押し掛けてくることになる。小春は、慣れぬ手付きで人数分の料理をしていて、それを、例のぜんざい屋の花が手伝っている。以前、花に絡んだ浪士を撃退してから、藤堂とはすっかり親密で、三日に一度は藤堂が店に通い、たまに二人でどこかに出ているらしかった。その行き先が、逢引茶屋であることは誰でも想像がつく。逢引茶屋とは、夫婦ではない男女が逢瀬を楽しむために場所を提供する店のことである。

 店には、花の祖母が一人いるだけで、あとは皆死んでしまっていない。昨年の夏、今日の街が焼けたときも店は焼けなかったが、街の人はぜんざいどころではないらしく、開店休業状態で、新撰組の者が来たときだけぜんざいやその他の甘味を出す、という具合であったから、花が閉めると言えば店は閉まる。

 この日も、春を手伝ってやるよう藤堂に頼まれ、花は店を閉めて、陽のあるうちからやってきたのである。猪熊高辻と言えば、花の店のある四条大宮からごく近い。当たり前と言えば当たり前だが、花は、ぜんざいだけでなく、他の料理も上手い。春に優しく手解きをしてやりながら、持ち込んだ包丁をあれこれと動かしている。二人は、もう、

「お春ちゃん、もう、火ぃ止めなあかんえ」

「お花ちゃん、ありがとう」

 と言い合う仲になっている。余談であるが、「お花ちゃん、お春ちゃん」は、この場合、彼女らの間だから呼べる呼称である。間違っても、筆者は藤堂には花のことを「お花ちゃん」とは呼ばせぬ。昔の女性の名で、「お菊、お岩、お江」などと頭に「お」を付けて呼ぶが、「菊、岩、江」が名であり、「お」はあくまで接頭語であるということはよく知られているが、それをするのは女同士の場合であるということはあまり知られていない。

 例えば、大河ドラマなどでも普通に「お」を付けて男性が女性を呼ぶシーンが見られるが、なよなよした女言葉を使う変な男、あるいは軽口の好きな男と見られても文句は言えぬ。もしかすれば、町衆などでは別に男が女の名の前に「お」を付けて呼ぶのは普通であったのかもしれぬし、幕末の頃などには、男性も普通に女性の名の前に「お」を付けることがあったのかもしれぬ。また、「お」を付けず、名を呼び捨てにするのは親か亭主だけであるから、それ以外の他人は男女問わず、「お」を付けて女性の名を呼んだという説もあるから、結局のところはよく分からない。始めに述べた自説を支持する意味と、軽口は好きでも伊勢の殿様のご落胤らくいんを自称する、見栄坊でいなせな藤堂はまずそのような真似はせぬだろうと思うから、お花ちゃん、と軽薄な呼び方はさせぬ。

 久二郎も、同じである。彼は、春のことを、春。と呼んだ。長屋の土間で、娘二人で楽しげに料理をしているのを横目に、彼は書見をしていた。彰介から回ってきた伊東の書物である。そこには、あれやこれやと蘭式の兵学のことが書かれていた。久二郎はカタカナで記された異国の軍師用語を覚えるのが、どうしても苦手であった。

 そもそも、頭の中に人の知を借りるときは、むしろその中身だけを頂くことだ。形にとらわれれば、かえって物事の姿を見失う。書であるならその文の中の、何が自分のためになり、何が要らぬ世話なのか、見極めろ。という土方流の軍学の基礎が、嫌というほど染み付いている。

 だが、読めば読むほど、新撰組の組織や運営方法が合理的で、いかに旧来の日本のやり方がそうでないかが、よく分かる。例えば、日本の場合、何かを取り仕切る者は、必ずといっていいほど複数人付けられる。それが、あちこちから指示が出て下の者が混乱したり、派閥を生み、互いに争うもとになったりするのであるが、今の新撰組は、局長、副長、組長、伍長という明確な指示系統が確立されており、その担当者は一人である。総長である山南、参謀である伊東は、隊の運営に関する助言や提案などはしても、何かを実行するのは必ず上記のラインによってである。

 また、何番組、というのは、この書物に書かれている「小隊ペロトー」に相当する。とすれば、久二郎は、十一番小隊ペロトー指揮官コマンダンテということになる。複数の小隊からなる、中隊のことをコムパニーと言うらしい。平隊士はソルダート。こうして見ると、オランダ語、ドイツ語、ポルトガル語が混在しているように思えるが、蘭式の歩兵操典というものが、オランダ語で書かれたものを他言語に翻訳したものを、更に日本語に訳したことを示すのかも知れぬ。久二郎はその名ではなく、その文字の向こうに見える、整然と並び、敵に対し最大限の戦果を上げる自分達の姿を想像した。

 新撰組が、画期的な組織であったことは誰もが知るところであるが、幕府ではこのときすでに洋式の軍制(蘭式、仏式、のちに独式)を取り入れており、土方がそれに倣ったのか、全くの独創によって合理性を追求した結果、たまたま西洋式の軍制に似た体制になったのかは、分からぬ。筆者は、どうやら前者であるように思うが。

 見れば見るほど、新撰組が進んでいると思え、久二郎はなんだか嬉しかった。分からぬのは、伊東はかなり過激な攘夷思想を持っているはずなのに、このような洋式の軍制の書を盛んに隊士に読ませていることである。久二郎は、伊東が積極的に海外の文物を取り入れ、国力を増強し、然る後に外国をうちはらう。という思想を持っていることを知らない。知れば、彼が、すなわち、なし崩しに開国してゆく今の幕府ではこの国はたぬ。と、新撰組の根本的な運営方針と相容れぬことを考えていることも想像できたかもしれぬが。

 ただ、久二郎は、夜までの間の暇潰しに、この書を読んでいるに過ぎない。彰介が大層気に入ってしきりに読め読めと勧めてくるから、目を通してみるか、と思っただけであるが、確かに面白いことは面白い。


 夜になり、新撰組の主だった者が、やってきた。まず近藤、土方、井上の三人。永倉、原田も囲っている女を連れてやってきた。沖田は、一人である。それに、藤堂が、料理を手伝った花に笑いかけながら、入ってきた。あとは、斎藤と彰介が、のっそりと入ってくる。これだけでもう家は一杯で、床が抜けるかと思うほどであった。監察方や、他の古い隊士にも声をかけようかと思ったが、物理的に家に入らぬのと、組長格の者がこれほどに隊を空けるわけだから、あまり主要な者を多く呼ぶわけにはいかぬと思い、このような催しをするが、また機会があれば是非来てほしい、と言うに留めた。奥ゆかしい監察の山崎などは、

「なんの。綾瀬さんの身の回りが安らかになるのも、隊にとっては利になると思い、お手伝いさして頂いただけですさかい、お気になさらんと」

 と言って辞退し、この面子になった。しかし、もう一人、足りない。

「山南さんは」

 誰にともなく問うが、誰も知らぬ。

「来ないんじゃないか」

 土方が言った。やや残念そうな響きがある。

「来ない、とは随分ではないか。土方君」

 山南が入って来たので、一座は歓声に包まれた。久二郎は笑顔で招き入れ、近藤の隣、土方の向かいに座らせた。もう、肩と肩が触れ合うほどの密度で、冬だというのに室内は暑いくらいであった。

「綾瀬君の、新たな暮らしを祝おう。綾瀬君。これからも励んでくれ」

 近藤がぐいと杯を干し、皆それに続いた。

「皆さんあっての、こんにちの私です。必ず、隊のため身命を賭して、働きます」

 久二郎も応え、杯を干した。

「綾瀬さんは、頑張り屋だからな。気張りすぎて、ほんとうに死んだら、小春さんが悲しみますよ」

 沖田が明るく笑った。沖田は、このところ酒を飲まないが、飲んでも飲まなくてもこの青年はいつも明るく、年下の久二郎などにも敬語を使い、愛嬌があった。池田屋の後、しばらく身体が思わしくなく、寝ていることが多くなったが、それが良くなったのか隊務に復帰してからは、剣さばきも恐ろしいほどに冴えている。道場で向き合っても、久二郎などはあの蛇のように伸びてくる強烈な突きの前にどうすることもできぬまま負けてしまうし、真剣なら、沖田に斬られた敵は、自らが斬られたことを知らずに死ぬのであろう。どうすれば、これほどまでに強くなれるのか、久二郎は分からない。隊の中では、よく沖田と宮本武蔵や伊藤一刀斎が戦えば、どちらが勝つか。などという他愛もない話になるが、十人が十人とも、沖田組長が勝つ。と言うほどである。


「綾瀬君は、これから、更に新撰組にとって、無くてはならぬ人になってゆくだろう。無論、綾瀬君のみならず、ここにいる全ての者が」

 山南が、感慨深げに酒を飲んでいる。

「なんだよ、湿っぽいじゃねぇか。おい、あの根暗の総長に、酌をしてやれ、花」

 と藤堂が茶化した。

「おい」

 土方が、並べられた料理越しに、向かいの山南に声を飛ばした。

「お前さん、今、何を考えてる」

 山南は、黙って微笑んで、かぶりを振った。

「当ててやろう。女のことだ」

 永倉も、藤堂と一緒になり、茶化した。先日、道場で立ち合った際の剣の冴えについて斎藤が言ったことが、気になっている。

「そうだ、あの明里とかいう女も、呼んでやればよかったのによ」

 大きな笑い声を立てながら、永倉と仲のよい原田も加わった。

「樋口君の女は、近頃どうしているのだ」

 と、無口な斎藤が珍しく言葉を発したので、皆そちらに注目した。彰介は、ばつが悪そうに頭を掻いて、

「実は、金を貯めるために、女のところに通うのをやめている間に、ついこの間、別の男に身請けされていったそうです」

 と恐るべきことを言った。

「それは、笑えねェ。いや、笑ったほうがいいのか、樋口」

 土方が動転している。

「もう、いいのです」

 彰介はこれ以上話したくない、というように、自らの口に酒を押し付けた。

「驚いた。何故、もっと早くに言わぬのだ、彰介」

 久二郎が彰介の肩に手をやった。

「お前は、こうして小春さんとの暮らしが始まり、幸せそうにしているから、それに味噌を付けたくはなかった」

 消え入りそうな声である。一座は、しばらくしんとして、やがて笑いに包まれた。

「なんて、いじらしい奴だ」

「お前、俺の嫁になれ」

「おい、樋口が、綾瀬に妬き餅を焼いているぞ」

 酒もあってか皆で囃し立てる中、彰介は困ったように笑っている。

「綾瀬君、それは」

 山南が、小さな文机の上に置かれた書に気づいた。

「ああ、西洋の、軍学書です。伊東参謀から彰介が借りたのを、読ませてもらっているのです」

「ここでも、伊東か」

 山南は苦笑した。

「近頃、しきりと隊士に取り入ろうと、本を貸したり、話をしたりしているらしい。鼻に付く男だ」

 土方が吐き捨てるように言う。

「立派な方です」

 彰介が、ぼそぼそと言う。

「そうだよ。悪く言われちゃ、誘った俺の立つ瀬がねェや。いかにも国事にはしる男、って感じで、格好いいじゃないですか」

 藤堂も笑いながら同意した。

「ひとかどの人物であることに、違いはない。土方君の知恵と武勇、伊東君の思想と容儀に、俺はいつも助けられているのだ」

 近藤が言う。近藤は、酒が弱い。もう、呂律ろれつが若干怪しくなっている。


 しばらくして、山南が、席を立った。

「どちらへ」

 久二郎が問うた。

「なに、女のところさ」

 山南は、細い眼をさらに細め、笑った。

「君の幸せそうな姿を見ていたら、私も女に会いたくなった」

 言い、出ていった。その背を、一同は囃し立てながら、見送った。

「ちょっと、失礼します」

 少し考え、久二郎も席を立つ。

「山南さん」

 山南は、猪熊仏光寺の角にいた。女に会いに行くなら、高辻を堀川まで出て、南にゆくはずである。明らかに、屯所へ帰る方角へ、山南は歩いていた。久二郎は、勘でそう思って追ったのであるが、当たった。

「どうした」

 山南は、いつもと変わらぬ様子で、振り返った。

「女のところに、行くのではなかったのですか」

「それも、やめた」

 二月である。まだ冬の色を残す黒い風が吹いた。山南は、袖の内に手を入れた。

「そうだな。このまま、江戸へでも、帰るかな」

「江戸へ?」

「いや、戯れだ」

 久二郎が、山南をまっすぐに見た。辻灯籠が、山南の姿を揺らしている。

「一体、どうしたというのです」

「君に言っても、詮ないことだ」

「そんな、水臭いではありませんか」

 ふふ、と山南は笑った。寒いのか、鼻を一度すすった。

「隊には、君達がいる。局長も、土方君も、伊東君もいる」

「はい」

「しかし、私はどこにもいない」

「仰ることが、分かりません」

「いないのだ。どこにも。私はそう思う」

「それを決めるのは、山南さんではありません」

 総長ではなく、一人の山南という男に、語りかけているつもりであった。

「いや、私が決めるのだ」

 と、その男は答えた。

「もう、ゆく。またな、綾瀬君」

 またな。その意味を、久二郎は計りかねた。いや、久二郎は、ほんとうは山南が何を考えているのか、分かっている。しかし、それを言葉に出して問うのが怖いのだ。

 山南は、久二に背を向け、屯所の方へ歩いていった。辻灯籠の明かりからその背が遠ざかり、やがて闇に消えるのを、久二郎は同じ色の風の中、見ていた。 

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