曖昧な笑み

 伊東が新撰組に加入したのは、元治元年の十二月になってからである。近藤に加盟の意思を伝えてから、丸一月ひとつき以上の間隔がある。その間に、いままで大して目立つことのなかった、樋口彰介という久二郎の盟友のことを描いておくこととする。


 彰介は、久二郎の妹である千に、郷里にいた頃からずっと懸想けそうしていた。しかし、千は、新撰組が捕殺すべき相手である、瀬尾瞬太郎の女になっている。どうにもやり場のない彰介の恋心を久二郎は無論察してはいたが、彰介が自らそのことについて触れることはなかった。

 その代わり、島原に、仲の良い女ができた。千の行方を探していた頃は他の女に全く手を付けることはなかったが、千が瞬太郎の女になっていることを知ってからは、当然のこととして、彼もまた世の人がそうするように己の心を整頓しようとした。

 女の名は、菊といった。

「樋口はん」

 と甘ったるい茶屋言葉で呼ばれるのにも、このところは慣れた。だが、女の前で多弁になるということはなく、彰介は、どこにいても彰介であった。無口で、力強く、優しい。それが、多弁で遊びの上手い者ばかりの相手をしてきた菊の心を打った。

 交合するときも、彰介は優しい。菊を気遣い、決して激しくはせぬ。彼らを包む絹の布団よりも柔らかに、菊を抱いた。

「また、来とぉくれやすか」

「うん」

 それが、決まったやり取りであった。この日も、そのやり取りをする時間まで、彰介は菊と共に過ごした。

 平素は、ほとんど彰介は口を開かず、表情を変化させて意思を伝える。しかし、この日は違った。

「菊」

 と、彼は隣でを作っている女の名を読んだ。

「俺と、一緒にならぬか」

 突然切り出した。菊は、何も言わず目を丸くしている。

「うちを、落籍ひいてくれはるん」

 やっと、そう言った。

「すぐにではない、しかし、この度、隊の編成替えがある。隊長になれば、屯営の外に家を持ってもよいことになったのだ」

 と、訥々とつとつと言った。

「隊長さんに、ならはったん」

「いや、まだだ」

 菊は、やや失望した。それでは、まだ身請けをしてもらえるかどうか、分からぬではないか。

「隊長になるよう、力を尽くす。金も、貯める」

 それを聞いて、菊は更に失望した。が、色には出さず、

「その日を、楽しみにしときます」

 と言って、笑った。彰介は、嬉しかった。自らの働きを、楽しみにしてくれる女がいる、という単純なものだった。

 

 その日から、彰介は俄然やる気を出した。熱心に見回りに出て、怪しい浪士などを見つければ迷わず誰何すいかした。よく一緒に見回りをする久二郎や斎藤などはやや驚きはしたが、もともと真面目な男であるため、それが女のためににわかに気張っているのだとは思わない。

 また別の日、見回りを終え、久二郎が、島原にゆくと言い出した。彰介は、内心喜んだ。それに便乗し、共に店に入る。小春のいる店に彰介が随行した際に出会ったのが菊であるから、二人の女は同じ店に籍を置いていることになる。

「彰介、このところ、あの菊という女がお気に入りだな」

 部屋に通されるまでの間に、久二郎が言った。

「そうだ」

 とこの嘘の下手な男は即座に断定した。

「お前にも、色恋の心があったとはな」

 瞬太郎のことがあるから、千のことは二人とも口には出さない。久二郎は久二郎で並々ならぬ心中であることを彰介は理解している。

「いずれ、金が貯まれば、一緒に暮らしたいと思っている」

 久二郎が、さすがに驚いた。

「組の編成替えの話、聞いたか」

「ああ、副長から、聞いた。なんでも、俺は隊長になるかもしれぬそうだぞ」

 久二郎が冗談めかしく言った。彰介が聞いたのは、同じく土方から聞いた、という斎藤伝いである。土方がもし、隊長になる者に内示として直接話をしているのであれば、彰介はそこから漏れたということになる。

 いや、自分は久二郎と同じくして隊に入り、自分と同じ働きをしてきた。久二郎だけが隊長になり、自分が漏れるはずはない、と思い直した。その彰介の微妙な思案顔に久二郎が気付く前に、部屋に通された。小春と、菊が並んで二人を迎えた。運ばれてきた、手の込んだ酒のさかなに箸を付けながら、彰介はなおも考えた。

「どうした、彰介」

 菊よりも、久二郎の方が早くそれに気付いた。

「お口に、あいまへんか」

 菊も彰介を気遣った。それにあいまいな微笑を返して、彰介はまた肴をつまんだ。

「こいつ、菊さんに惚れたらしい」

 久二郎が、小春に言った。小春は、まぁ、と口に手をやり、嬉しそうに笑った。笑うと、鈴が鳴るようだった。肌も白く、見目もよい。それに比べ菊は、肌は浅黒く、痩せていて、いかにもその辺の畑で尻を突き出しながら野良仕事をしていそうな女である。別に小春の方がよいと思うわけではないが、何となく、久二郎が日向ひなたで、自分は日陰という気が拭えない。それでも、菊は菊だ。と彰介は思い直し、うっすらとした微笑を菊に送ってやった。

「お勤めは、いかがです」

 小春は、久二郎の前だけ茶屋言葉を用いず、彼女本来の話し方で話す。ふつう、あり得ぬことではあるが、筆者は、この京言葉とよく混同されがちな、べとべとした白粉の匂いの漂う茶屋言葉で小春を描くのがどうしても嫌だったから、仕方ない。小春は、さらりとしていて、ひっそりと、それでいて見つければ眼を止めざるを得ない路傍の小さな白い花であるべきだ。

「うん、新たに人が来ることになってな。そのために組の中に新しい役を作ったり、忙しい」

「あら、そうしたら、助勤の久二郎さんも、新しいお役に?」

「なにやらよく分からぬが、組の中に更に何人かで隊を作り、その隊長になるかもしれぬのだ」

「まぁ」

 と、また小春は丸く開いた口に、掌をやった。

「まだ、どうなるかは分からぬがな。なんでも、隊長になれば、家を持ち、組に通うことも許されるらしい。どうだ、一緒に暮らすか」

 久二郎は小春の手を取った。

「でも、お金が」

「案ずるな、小春さんに会う以外、大した遊びもせぬ。ぜんざい一つでも惜しみ、貯めているさ。この間の池田屋の恩賞にだって、手を付けていない」

 彰介は、ほとんど使ってしまった。池田屋のとき、刀が曲がった。命に関わることであるから、蓄えの分もはたいて、新調したのだ。

「へぇ、偉いどすなぁ、綾瀬はんは。小春さんは、果報者やねぇ」

 久二郎と小春、それぞれに付けられた、というのが、彰介の心にちくりと刺さる。黙って、うつ向くしかなかった。

「彰介、励もうな」

 屈託のない顔で笑う久二郎に、また彰介はうっすらと笑みを返した。


 十一月の終わり、土方が、伊東が加入した際の新編成を発表した。本来ならば、伊東はもうとっくに到着していてもよいものだが、まだ来ぬ。よって、先に隊を作り替えておき、伊東が来ればすぐに機能するようにしておこうというわけであった。

 隊の編成は、細かく書かれ、貼り出された。剣術や柔術の指南、砲術師範などは、隊士もしくは隊長としての職務と兼務することになっている。局長からの直属のラインは、以下の通りである。

 局長 近藤勇

 参謀 伊東甲子太郎

 総長 山南敬介

 副長 土方歳三

 ここまでが、首脳部である。あとは、全て副長である土方付きの実行部隊となる。

 一番組 沖田総司

 二番組 永倉新八

 三番組 斎藤一

 四番組 松原忠司

 五番組 武田観柳斎

 六番組 井上源三郎

 七番組 谷三十郎

 八番組 藤堂平助

 九番組 鈴木三樹三郎

 十番組 原田左之助

 十一番組 綾瀬久二郎

 十二番組は、なかった。彰介は、ただその貼り紙を眺めていた。いつもの通り、ぼんやりと。

 その隣の紙に、監察、勘定方などの者の名が書かれており、更に続いて各隊の構成員の名である。一番組から順に隊士の名が連ねられており、彰介の名は、最後の十一番組のところにあった。

 十一番組伍長 樋口彰介

 伍長、とは何だ。彰介は思った。何度読み返しても、隊長ではない。では、家は持てぬのか。このところの頑張りは、何だったのか。菊は、どうなる。様々な思いが去来したが、彰介は、はたから見れば、ただ貼り紙を眺めているようにしか見えない。彼は身の丈六尺(百八十センチ)ある大男だから、貼り紙を読もうと集まっている隊士どもにとっては、いい迷惑であろう。現代の受験における合格発表のように、俺の名があった、お前の名はあそこだ、などと皆が言い合い、騒いでいる。

「彰介」

 久二郎が、後ろから声をかけてきた。

「お前、俺の組だってな」

「よろしくお願いします、隊長」

 久二郎は、吹き出した。

「よせ。今まで通りでいい。これからも力を合わせ、励んでゆこう」

 と久二郎は彰介の肩に手をかけた。また彰介は曖昧に笑い、するりとその手をすり抜け、歩き出した。向かう先は、決まっている。

「失礼します」

 土方が、驚いたような顔をして、彰介を見た。

「どうした。珍しいな」

 一人で訪ねてくるのが、である。

「得心が、いきません」

 大刀を右側に置き、着座する。新調したばかりの刀は、やはり三尺。この凄まじい剣風に巻かれ、無事であった敵は今まで一人もいない。

「なにが」

 土方は、筆を置いた。句でも作っていたのであろうか。

「何故、私は、隊長ではないのです」

「なんだ、お前、隊長になりたかったのか」

 土方は、きょとんとした顔を見せた。

「久二郎が隊長で、私が隊長でない理由を、お聞かせ頂けますか」

 土方は、面倒臭そうな顔をするかと思ったが、意外にもその表情は穏やかであった。

「必ず、どこかから、不満が出るとは思っていたが、まさかお前からとはな。お前が、それほどまでに隊務に熱いとは思わなかったのだ。許せ」

「私は、私なりに、励んできたつもりです」

「知ってるさ」

「では、なぜ」

 土方は、足をちょっと崩した。

「では言おう。器だ」

「器?」

「お前と、綾瀬の違いが、だ」

「どう違うのです」

「分からぬか。お前は、綾瀬の傍らで、はじめて光る。綾瀬は、お前を光らせる」

 自分がいて久二郎が光る、ということはないのか。

「勿論、お前あっての綾瀬だ」

 と土方は、彰介の心を読んだようなことを言った。

「しかし、お前、他の隊士と交わり、言葉を交わすか。綾瀬、斎藤、あとはせいぜい藤堂くらいにしか、心を許さぬであろう」

 確かに、そうだ。急所を突かれた気分であるが、土方は、自分をよく見ている、と思い、それはそれで嬉しくもある。そう思わせる何かを、この副長は持っている。

「だからだ。そういう者のために、部下は死んではくれぬのだ。ほんとうなら、お前もまた隊長になっても良いほどに、今までよく働き、これからも更に働いてくれることと俺は偽りなく思う。だが、俺がお前を好きであることと、隊を強くすることとは、別なのだ」

 確かに、土方が嫌っている武田や、谷といったよく分からぬ連中もまた、隊長になっている。武田もまた嫌われているが、嫌われ者の下にいる隊士はそれはそれで団結する、という土方の持論と、まだ対外的に顔を出す機会も多いであろう武田が無役では格好が付かぬし、無役の者を出してきた、と先方が気を悪くし、ただでさえ好かれぬ武田の立場が一層悪くなるかもしれぬことを考慮してのことである。谷は、同じく尊大で嫌われているが、槍は滅法強い。原田と比べても、遜色ない腕を持っている。土方はただ、とても透明な眼で、一人一人のことを見、この編成を決めたのだ、と彰介は理解した。思えば、各隊の隊士も、仲の良い者、悪い者が巧みに織り混ぜられ、得意な武器や性格、生まれた土地のことまで考慮し、偏りなく配置されているように思える。自分が久二郎の下の伍長なる役職に就くのは、自分に対する土方の、分け隔てない純粋な評価なのだと思った。

「副長のお考えも計らず、いっときの気のたかぶりから、出すぎたことを、申しました。お許し下さい」

 と、畳に手をついた。土方は、思わず吹き出した。

「なんだ、急に。分かってくれたのなら、いい」

 それにしても、とこの優しい鬼は付け加えた。

「お前が、ここまで言葉を発するのを、初めて見たぞ。綾瀬より劣ると思われ、気を悪くしただけではあるまい」

 と、土方の眼が柔らかく光った。

「お話しするのも、馬鹿馬鹿しいことです」

「構わんさ。話してみろ」

 その眼の光に釣られるようにして、彰介は、菊のことを身請けして共に暮らすをしていることを話した。

 土方は、おかしくて仕方がない、という具合に、腹を抱えて笑った。

「それほど、おかしいでしょうか」

 彰介が、肩を落とす。

「いや、悪い。許せ」

 土方が、目尻に滲んだ涙を拭い、笑いを収め、言った。

「じゃあ、伍長も家を持っていいことに、してやるよ」

 と。

 彰介は固辞したが、

「いいよいいよ、それくらい。女に、教えてやれ。喜ぶぜ、きっと」

 土方は、早速手元の帳面の見開きの左側に、何か書き込みだした。ちらりと覗き見ると、その右側には、

 うぐいすや はたきの音も つひめる

 とあった。彰介はその句があまりに下手で、危うく吹き出しそうになったが、その込み上げてくる笑みを、家を持ってもよいことになって嬉しくて笑っていることにして、乗り切った。

 そうか、樋口が、女かよ。と土方は嬉しそうに笑った。彰介も、曖昧な笑みではなく、歯を見せて笑いながら頭を掻いている。

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