羽織は、黒

 伊東が、ようやく上洛してきた。なにやら攘夷の祈願に神社参りをしていただの、よく分からぬことを堂々と言ってのけたところで、土方は、思った。

 駄目だ、こりゃア。と。

 せめて、叱責を恐れ、言い訳がましくあれこれと上洛が遅くなった理由を説明してくれれば、感情の豊かな土方なら可愛い気を感じてやれたかもしれぬ。しかし、攘夷の祈願、というところで、尊大ささえ見せた。攘夷というのは、もちろんこの国の一般層の世論であり、一部の者を除いた国論でもある。幕府もなし崩しに開国しているところがあるが、帝の意思は、断固として攘夷である。その軋轢あつれきが、国の軋轢にそのままなっているがあるから、攘夷をないがしろにすることは帝をないがしろにすることだ、というのが反幕派のいつも言うところである。

 こいつも、その手合いか。と土方は断じた。

 ──まぁ、一緒に、やってみることだ。駄目なら、後でどうにでもなる。

 と、隊の総意として迎えたこの狐のような顔の美男子を、彼も表向き歓迎した。


 話は前後するが、近藤が通りまで伊東を迎え出て、その手を取らんばかりにして招じ入れたときは、さすがに土方も閉口したが、何も言わない。伊東はそのまま足を湯で洗い、旅塵りょじんで汚れた羽織を、黒々とした縮緬ちりめんの羽織に着替えると近藤の部屋に入り、その前に着座し、丁重に来着の挨拶をした。そして、来着が遅れた旨を滔々とうとうと流れる水のように語りだした。

 とどのつまり、神社などに物見遊山の寄り道をしていたから遅れただけのことである。それを、よくもまぁ、こんなにも大層に言えたものだ、と土方が呆れるほど伊東の言葉はきらびやかであった。神社に参って、さわやかな風が一陣、伊東の肌をなぞり、それが攘夷の成功を神が示していると感じ、感涙にむせんだことなど、知るか。と土方は思った。

 その意味のない言葉の羅列に、近藤などはすっかりと惚れ惚れとした顔になってしまい、山南も重々しく頷いていたが、土方だけが、いつもと同じ冷めた眼をしていた。伊東の口から言葉が出尽くすのを待ってやり、土方は切り出した。

「伊東さん。早速ですが」

 と隊の編成を示した紙を、見せた。それを端まで見渡し、

「結構」

 とだけこの狐は言った。お互いの心証が、この瞬間確定した。土方にすれば、遅れて来たくせに悪びれた様子もなく、口ばかり回しやがって。それに、結構、とはなんだ。というところであったし、伊東にすれば土方もまた伊東の前にいる者として攘夷祈願の参詣の話を聞き、その熱に当てられていなければならず、趣の分からぬ無粋な奴。と思った。

 ともかく、この日から、正式に新撰組は新たな体制で回転を始めることになる。久二郎も、正式に十一番隊組長になった。

 隊ごとに当番が当てられ、巡察、非番、その他の役目などを割り振られる。更に、巡察の際はその歩く順番にも当番があり、特に先頭を歩き、敵と争いになれば真っ先に切り込む役の者も予め決められた。死番、という恐ろしい名称で呼ばれるその役が当番制になっていることで、隊士は勇敢にならざるを得なかった。もし、それが尻込みをしたり、勇敢でなければ、士たる者の振る舞いではない。として切腹である。

 更に、隊服も変わった。ずっと用いてきた浅葱の羽織は、伊東が眉を潜め、このような振る舞いをしているから、いつまでも新撰組はなのです。と言ったがために、彼の好む黒に統一された。土方は無論、猛反発した──浅葱色は、土方も格好の良いものと思ってはいなかったが、色のことよりもむしろ、伊東への反発である──が、その容儀、偉容も、士たる者に無くてはならぬものでしょう。無用の侮りを招く方が、土方副長は良いと仰るわけではありますまい。と微笑を交えて言われれば、返す言葉もない。


 その新しい黒の羽織を着て、十一番隊は巡察に出ている。隊長は、中軍と決まっている。といっても、久二郎、彰介を含め、六名しかいないから、二人並んだ列が三つあり、その真ん中というわけである。隣の者は、やはり当番制である。最後尾には、伍長である彰介がいる。

 もう、師走しわすである。京の師走はやはり雅やかで、年の瀬の挨拶に行き来する人々も、どこか落ち着いているように見える。

 四条の大橋の上で、西の山に陽が落ちる。橋の上から見渡せば、南以外は全て山に囲まれていて、それがとても美しい。久二郎の生まれた飛騨との国境の美濃の山村などでは、もっと山とは起伏があり、その線は彫ったように凛々しいものであるが、夕の陽に、黒く浮かぶ京の山の線は、箒で掃いたように優しい。

 陽の沈もうとする辺りが、愛宕山である。火の用心で知られる愛宕信仰発祥の愛宕神社が、なだらかな曲線をもつ山体の頂上に、椀を伏せて置いたように見える山頂の隆起の部分にある。京から見える山で、最も標高が高い。次いで高いのが、有名な比叡山。

 この二つの山は、もともと同じ高さで、互いにどちらの背が高いか、ずっと競ってきたという話がある。あるとき、自分の方が背が高い、と言い張る愛宕山に怒った比叡山が、愛宕山の頭を殴った。そのが今の山頂であり、の分だけ愛宕山の方が背が高くなった。という寓話のような話を、筆者は幼き頃祖母から聞かされたものだが、久二郎の頃にも、その話があったのだろうか。

 久二郎の生まれた村で山にまつわる話とは、百足むかでの神がどうだとか、山に棲む蛇の神が川の流れを司っており、その機嫌が損なわれると川の流れが減り、水が足りぬようになる。その度に、かつては若い娘を川に放り込んで、蛇の神の怒りを沈めていたものだ、といった荒々しいものばかりである。

 

 その千年の都と言われる京の夕に足を止め、十一番隊は久二郎と彰介の故郷に伝わる山の神の話を聞きながらその影を滲ませている。

 京は、水が少なく、盆地であるため、陽が落ちたあと冷えるのが早い。それが風を生む。この日も、川の上を滑るようにして吹き付けた風があった。ごく自然な動作として、久二郎はその風から顔を背けた。陽の沈む愛宕山を左に見て、北に向かって立っていたから、右、すなわち祇園方面に顔が向いた。その視界に、黒ずくめの新撰組を見て、橋を引き返そうとする一団が映った。その中央にいる男に、久二郎は反応した。

「散開。死番、前へ。あの浪士どもを、追え」

 という隊長の号令によって、久二郎を除く五人が一斉に陣形を取った。死番がまず駆け出し、その左右に一人ずつ。続いて久二郎。その後方に、彰介ともう一人。逃げる浪士を追った。

 死番が、追い付いた。

「斬りかかるな。待て」

 斬りかかれば、どのような目に合うか、彼は知っている。逃げられぬと観念した浪士たちが足を止め、向き直り、抜刀した。興味深げにその様子を見ていた野次馬が、それで一斉に散った。

「久しぶりだな。池田屋以来か」

 瞬太郎。はじめ、冴えぬ汚れ役の人斬りであったものが、今はそれなりの立場にいるのか、良い着物を着ている。

「瀬尾」

 と久二郎は、かつてとは違う呼び方で、瞬太郎を呼んだ。

「綾瀬。千は、息災だぞ」

「そうか」

「樋口。相変わらず、でかいな」

 もともと、明るい性質たちの男だが、口も、より軽くなっている。それが自信の表れであると久二郎は見た。

 彰介が、問答無用で斬りかかる。その長い刀の一撃を瞬太郎は刀で受け、くるりと刃を返し、流した。彰介が死ぬのが久二郎には見えた。しかし、返ってくるはずの斬撃は、なかった。彰介はちゃんと生きて、飛び下がり、刀を構え直している。

「瀬尾瞬太郎。御用である。壬生まで、ご同道願う」

 久二郎が、刀を八相に引き寄せて言った。八相構えとは、体を開き、刀を脇に引き寄せるように、刃を立てて構える。どのような姿勢か分からぬ人は、「八相 構え」で画像を検索するとよい。これは上段に構えた剣を、そのまま緩やかに降ろしたような姿勢であるから、脇や肩に無理がなく、刀を保持する力が他の構えほどには要らぬ。斬撃の始まりは袈裟懸けもしくは逆胴、あるいは突きと決まっており巧緻な技は放ちにくいが、剣士の負担の少なさゆえに、多人数相手の戦いや、動き回りながらの戦いを想定した新撰組では、よく用いる。

「そう、尖るな。栗の実の季節はとうに過ぎたぞ、綾瀬」

 瞬太郎は軽口を叩いた。右手で剣をただ持っているだけであるが、得も知れぬ殺気が放たれている。

 いや、久二郎の殺気を、映しているだけなのか。新撰組に入る前、床に伏せる大政老人のことを、久二郎は思い出した。

 瞬太郎の姿が、宵の闇を濡らす辻灯籠の灯りの中に、澄んだ。

「新撰組、十一番組組長、綾瀬久二郎。参る」

 久二郎が、地を蹴った。

 ──諸君らが、道場で覚えた剣術など、ものの役には立たん。一にも押し、二にも押す。実戦は、それに尽きる。

 そう言って稽古をする隊士を督励する土方の姿も、思い出した。近藤や山南などは滅多に道場には出ぬが、土方は毎日のように鉢巻を巻き、たすきをかけて道場に出て、隊士一人一人の剣の癖などもいちいち覚え、厳しく指導した。

 ──ほら、綾瀬。お前は、血の気がなさすぎる。斬られる前に斬るつもりでなければ、死ぬぞ。

 ──相手のせんの、更に先を制するのだ。

 ──相手の出方を、読もうとするな。まずこちらが、打って出るのだ。

 久二郎の二尺五寸の刀が、瞬太郎の肩から胸を絶ち割るように動いた。しかし、瞬太郎はそこにはいない。

「一層、曇り無い剣だな」

 瞬太郎は、少し草履を踏みしめている。久二郎は、答えの代わりになお押した。十一番組の隊士が、一斉に躍りかかる。

 新撰組は、士道に背くようなことをすれば、死である。しかし、戦いにおいて、一対一で正々堂々とやり合うようなことはせぬ。必ず、一人を複数人で取り囲み、倒す。死番の石田という者が、瞬太郎の周りに三人いる浪士の中に突入し、他の隊士もそれに続いた。久二郎の隣には、彰介が付いた。彰介が打ちかかり、瞬太郎が身をかわした先に、必ず久二郎の必殺の一撃が来た。久二郎は、さほど細かな剣捌きをせぬ。その代わり、その剣速は眼にも止まらぬほど速く、久二郎自身も、自らの剣がどのように動いているのか、振り終わってから知覚するほどであった。

 十一番隊も瞬太郎の取り巻きも、相当な手練れ揃いである。どちらも、容易に互いの身を斬らせぬ。乱戦になった。

 久二郎は、八相構えのまま。

 彰介と並んで、瞬太郎と向き合っている。

 石田が斬り飛ばした男が、剣の腹で斬撃を防いだまま、久二郎の方へよろめいて来た。

 それを、久二郎は無意識に斬った。男が悲鳴も無く、黒々とした血を撒き散らし、地に転がってから、久二郎ははじめて男をちらりと見た。

「夢想剣──」

 古の剣豪、伊藤一刀斎の逸話に出てくる技のことを、瞬太郎は苦笑しながら言った。夢想剣とは、技ではない。極限まで剣技を高め、ある境地に達した一刀斎が神社だったか寺だったかで参詣していたとき、手を合わせ、眼を閉じ、拝んでいる背後から、暴漢が斬りかかってきた。

 一刀斎は、拝んだ姿勢のままである。

 ただ、その背後の暴漢は、死骸になっていた。

 当人すら気づかぬうちに、周囲の殺気に呼応し、剣を振る。そういう境地がある、ということを瞬太郎は知っていた。

 新撰組として潜ってきた数々の死線が、あるいは久二郎をその境地にやったのか。

「こりゃ、分が悪い」

 瞬太郎はそう言うと、ぱっと身を翻し、逃げた。

 他の浪士がその道を守るべく、十一番隊の前に立ちはだかる。久二郎が、瞬太郎を追うべく、駆けた。

 一人の胴を片手で下から斬り上げ、もう一人の上段から振り下ろされてくる剣の柄尻を、左の掌で止めた。

 咆哮。宵闇の中に浮かんでいる東山のなだらかな稜線の上、ちらりと光る明星を見た。

 そのまま身体を大きく旋回させ、上段に構えた者の前に出た腕ごと、首を斬った。

 血が、羽織に染みた。

 久二郎は、瞬太郎を追い、駆けながら、思った。

 黒も、悪くない。

 夜の闇に溶けるようだし、血を浴びても、明るい浅葱と違い、目立たぬ。

 彼の剣から滴る血が、花のように、路上に点々と咲いていた。

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