会いにゆく
その後、運よくか悪くか、瞬太郎と出くわすことはなかった。久二郎は街に出ては浪士を尋問したり、稀に戦ったりもしていた。土方の采配、力量は流石と言ってよく、新撰組はみるみる力をつけ、その規模も大きくなっており、久二郎が顔を見てもすぐには名が出てこない者がずいぶん増えていた。百名は下らぬ者が、この壬生村にひしめきあっている。
そして、文久四年の年が明けた。この年に改元があるため、文久四年というのは二月二十日までしかない。何か大きな社会変事があったりすると元号を改めるものであるが、この時は別に何もない。ただ、この年は
その予定された改元によって、元治元年となった。この元治の読みは、現代において、一般的にはげんじ、とされるが、昭和の初期だったかそれくらいの頃に老人となっていた、元治の時代を知っている人が、今は何故か当時のことをげんじ、と言うが、当時はがんじ、と言っていた。と証言した。ということもあったらしく、じっさい何と訓ずるのかは分からない。
まあ、どう考えてもよく浸透した「げんじ」の方がしっくり来るから、そう訓じて頂ければよい。
その元治元年の春の道を、久二郎は歩いた。彰介、藤堂も一緒である。四条堀川のぜんざい屋に立ち寄り、藤堂はまた店の女に軽口を叩いている。女は相変わらず無愛想ではあるが、さすがに顔馴染みになっているので、簡単な受け答えならするようになったし、近頃は藤堂に、微かに笑顔を見せるようにもなっている。
久二郎が入隊して、ちょうど一年になる。去年の今ごろは、ここまで多くの隊士はいなかったし、皆暇を持て余し、ため息ばかりついていた。その代わり、芹沢らがいた。わずかな期間で、人が増え、そして死んだ者もいる。久二郎が斬った平山が生きていたら、今ごろ何をしていたのだろうか、などとは考えなかった。
久二郎はただ、新撰組の副長助勤として、隊務をこなしていた。会津からの出動命令や、町方や与力からの要請、商家からの懇願など、様々な形で隊務は生まれ、それ以外にも市中見回りをして変事がないか確かめ、特に昨年夏の政変以降、長州者が京に入れば即捕殺するということになっていたから、あやしげな浪人者などがいればすぐに尋問した。
この日も、ぜんざい屋を出て、そのまま四条を東に向かい、それをした。八坂神社の手前、木屋町あたりで、見覚えのある人影があった。
それに、久二郎は堂々と声をかけた。
「坂本さん」
女を、連れていた。気の強そうな女である。
「おお、なんだ、お前か。去年の秋に会った。ええと」
「綾瀬です」
「ああ、そうだった。新撰組の」
「ご無沙汰しております」
「なにやら、最近は、隊士も増えて、威勢のいいことらしいな」
坂本は、久二郎が自分を尋問し、捕らえるかもしれぬということが思い付かないのであろうか。阿呆のようににこにこして、談笑している。藤堂も、まさかこの男が土佐の坂本龍馬であるとは思っていない。
「おい、久二郎、この人は?」
「ああ、ちょっとした知り合いで。京に来て間もない頃知り合った私の連れが、世話になっているのです」
「そうだ、その、しの字のことだがな」
しの字、とは、瞬太郎のことである。当時、そういう物言いを、よくした。
「今日、この先の、よし沼、という料亭に来るぞ。お前もどうだ」
「私には、隊務がありますので」
ほんとうは、夜は何も用事はない。坂本は、瞬太郎の居場所を、新撰組に軽々しく教えて、どうするつもりなのか。
「そうか。新撰組は、忙しいのだな。もし、お前が新撰組としてではなく、一人の綾瀬という男として来る気になれば、覗いてみればいい」
じゃあな、と坂本は手をひらひらと前後に降り、去っていった。気の強そうな女は、会釈もせず坂本について行った。
「今のは、どういう知り合いだい?」
と藤堂が、何気なしに尋ねた。
「土佐の、坂本龍馬という人です」
「なに、それって」
「元、土佐勤王党の。以前、一度だけ道で顔を合わせただけなので、よく知らぬのですが」
「まぁ、別に捕殺令が出ているお尋ね者じゃないからいいけどよ。あんまり変なのとつるんでると、あの山崎あたりが土方さんに告げ口して、大変なことになるぜ」
藤堂が心配そうにした。
「つるむも何も、道で出会って声をかけただけなのですから」
「捕殺令が出りゃ、どうすんだよ」
「出てから、捕らえればいいでしょう」
「なんか、お前、変わったな」
「どこが」
「前は、もっとなよなよしてたのによ。なんかこう、腹が据わったっていうのか」
「私は、新撰組副長助勤ですよ」
「まぁ、そうだな」
三条の方まで足を伸ばして、帰ることにした。今からは想像もできないほど当時は細かった木屋町通りを北上すると、料亭や旅館が立ち並んでいる。今も木屋町と言えば飲み屋が多いことで有名であるが、今の通りは明治になってから拓かれたもので、この頃は高瀬川沿いにごく細い切通しのような道があったに過ぎない。川に向かってせり出さすようにして軒を連ねた家や
ぜんざい屋は、ちょうど、暖簾を下ろし、店をしまおうとしているところだった。
「花ちゃん」
藤堂は、店の女の名を呼んだ。女が、振り返る。
「あら、藤堂さん。まだうろついてはったん」
「うろついてはった、はあんまりだぜ。市中の安寧のために、見回りをしてきたってのに」
「あら、そう。お陰さんで、今日も京は平和どした」
この、どす、という語尾は、京都弁として最もよく知られているもののうちの一つであろうが、今は使わぬ。祇園の舞妓などはこの語尾をこれ見よがしに使ってみせてくれるが、一般の京都人はまず使わぬ。大正生まれの筆者の祖母は、稀に使っているのを聞いたことがあるが、筆者の両親くらいの世代になると使う人は極めて少なくなり、それより新しい世代となると絶無になる。
同じように、やす、という語尾も、使わぬ。筆者は、祖母ですら、「おこしやす」などと言っているのを聞いたことがない。今は観光客の非常に多い街であるから、彼らへのリップサービスとして、観光客向けの飯屋や、土産物屋、あるいは古い老舗の料亭などが使うことはあるが、街の者はまず使わない。ちなみに、筆者の祖母は、客人を迎えるとき、
「ようお越し」
と言い、昔ながらのうなぎの寝床と呼ばれる長い土間に立つ訪ね人に向かって、かまちの上から指を突き、迎えていた。
「うちは、もうお店仕舞おうとしてたとこどす」
京都弁ならば、しとった、ではなく、してた、であるべきである。先程から訛りについてとやかくうるさいが、許されたい。
「そうかい。じゃあ、また来るよ」
藤堂が朗らかに挨拶をし、立ち去ろうとしたとき、
「おい、まだ、開いているな」
と、浪士風の男が四人、下ろしかけた暖簾をくぐろうとした。
「もう、仕舞いどす」
花はそう言って止めようとしたが、男らは、では開けろ、と凄みだし、花に掴みかかろうとした。藤堂が、立ち去ろうとしていた足を返す。
「おい、腹が減ったなら、違う店に行け」
振り返って藤堂を見た男らが、かっとなるのが分かった。新撰組とて、いつも浅葱色の羽織を着ているわけではない。
「なんだ、てめぇは」
「もう仕舞いだって言ってんだ。勘弁してやんな」
「客に汁粉を出せぬ汁粉屋が、あるかってんだ」
藤堂は、花のほうを見て、苦笑した。
いきなり、男の一人を、殴り倒した。
「汁粉じゃねぇ、ぜんざいだ。そこ、間違えんな」
男らが、刀を抜こうとする。
その一人の刀の柄を、進み出た彰介が押さえた。
渾身の力をこめても、抜くどころか彰介の腕を押し戻すことすらできない。
「こいつ」
ほかの一人が彰介に向かって抜刀しようとしたとき、久二郎の脇差が鞘ぐるみ、首筋にあてられた。
「抜くな。抜けば、斬らねばならぬ」
男らは、露骨にたじろいだ。
「おう、お前ら、どこの者だよ。まさか、長州じゃねェだろうな」
平助が、一人の襟首を掴んで顔を寄せて言った。
「お前ら、一体」
歯の根の合わなくなった男が、震えながら言った。
「新撰組よ」
名を聞いて、男らはあっと声を上げ、逃げ出した。
「このぜんざい屋は、俺たちのお抱えなんだ。二度と来るんじゃねぇ」
逃げる背に向かってそう叫ぶと、花の方を振り返った。
「怖かったろう。もう、大丈夫だ」
「なんやの。いっつも威張り散らしてるだけやと思てたら、ちゃんと強いやん」
「当たり前だろ。しかしまぁ、助けてもらっといて、その言い草はねェや」
藤堂は一度高笑いをすると、怪我がなくてよかったな、と言い残し、夕日の沈もうとする西山の緩やかな線を遠望しながら、ふらふらと歩いていった。
「お騒がせしました」
久二郎と彰介が頭を少し下げ、立ち去ろうとした。
「――かっこええ」
「え?」
「なんにも、ありまへん。藤堂さんに、また来て、言うといて」
久二郎と彰介は顔を合わせ、苦笑した。
「俺は一度屯所に戻り、土方さんに外出の旨を話して、出掛ける」
「行くのか」
瞬太郎のところに。
「行く。お前も、どうだ」
「俺は、いい」
「そうか」
「気を付けて行けよ」
「なにも、殺し合いをしに行くわけじゃない」
「じゃあ、何を」
「分からぬ」
実際、久二郎は、何をしに行くというのか。会えば、捕らえなければならなくなる。捕らえようとすれば、争いになる。戦って、勝てるとは思えない。
だが、聞いてしまった以上、久二郎は、ゆく。
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