瀬尾瞬

 久二郎は、島原の店にいた。今日の役目は終わり、明日は非番である。

 例の、小春のところである。口数も少なく、ただ酒を飲んでいる。

「あの、お千代さんのことですが」

 と、小春が、久二郎が興味のありそうな話題に水を向けてきた。久二郎が、杯越しに小春のことを見る。

「その後、何か、分かりました?」

「こっちが聞きたいくらいだ」

 久二郎は苦笑して、杯を置いた。

「そうですか。では、今日は、どうして」

 てっきり、小春は、久二郎が妹の、あるいは小春が知っている、妹によく似ていたという千代という女のことを話しに来たものとばかり思っていた。

「では、今日は、どうなさったの」

「お前に、会いに来たのだ」

 久二郎が、何故か困ったような顔をした。小春の胸が、一度、脈打った。誘われるようにして、小春は久二郎の手に、そっと自分のそれを重ねた。

 久二郎が、優しげな微笑みを投げ掛ける。あぁ、この人は、ほんとうに自分に会いに、ここに来たのだ。そう小春は思った。

 貧しい家に生まれ、父からは棒で叩かれ、母からはろくに愛を注がれず、飢饉が続き作物が取れぬから、と多い兄妹の中で一人だけ身を売られ、わけもわからぬまま汚ならしい男に抱かれながら今、ここにいるのは、全て、この人に会うためではなかったか。少なくとも、この人は、今、自分に会うためだけに、ここにいる。そういう確信を持った。

 身を、寄せてみる。紺で染めた麻の羽織の、硬い肌触りがする。

「この間、人を斬ったよ」

 久二郎は、ぽつりと言った。

「まあ」

「言ったかもしれぬが、俺は新撰組だ。この間、俺が新撰組に入ってすぐの頃から知っていた男を斬った。さらに、その前にも、よく知っている男を」

「どうして」

「理由なんて、どうでもいいさ。俺が、何故俺がここにいるのかなんて、考えるだけ無意味なんだと思った」

 久二郎の逞しい匂いに包まれながらさきほど小春が酔っていた思考に、なんとなく通ずる内容のことを言っていた。

「はじめ、妹を探しに、京にやってきた。知らぬ間に、壬生に居ついた。そして知らぬ間に、人を斬っている。そしてそれは、同じ隊の人だった」

 やや強い自嘲が混じっている。

「それでも、わたしにとって、綾瀬様は、綾瀬様です」

「俺の、何を知っている」

「なんにも」

 と言い、鈴が鳴るように笑った。久二郎も、その音色に合わせて、笑った。

「それでも、綾瀬様は、綾瀬様なのです。わたし、知っていますよ」

 間近で覗き込む久二郎の眼は、ほんのり茶色がかっているのだ、と小春は思った。薄い唇を、重ねてみる。久二郎の武骨な掌が、背に回ってくる。軽く、あやすように叩くと、久二郎は身を離した。

「久二郎、でよい」

「久二郎様」

「俺は、俺か。そうだな、少し、気弱になりすぎていたのかもしれん」

 久二郎は少し笑い、杯を差し出す。それに、小春は酒を注いだ。

「まあ、いいさ」

 ツイとそれを飲み干し、杯を伏せた。

「今日、俺は、自分の意思で、小春さんに会いに来たのだ。誰に命じられるでもなく、何に流されるでもなく」

 嬉しかった。燃え上がるような恋情が、小春の胸を締め付けた。

「帰る」

 久二郎は、優しく微笑み、立ち上がった。

「もう、お帰りに」

「今日は、小春さんに会いに来たのだ。想いは、遂げた」

「また、来て下さいますか」

「ああ」

 他の客に対してお調子で言うように、もっと側にいてほしい、と、何故か言えなかった。久二郎が、帰ると言ったら、帰るのだ。そして、必ずこの人は、また自分に会いに来る。そう確信することができた。

 久二郎は店を出た。暮らしも、なんとかこうして小春に会いに来れる程度にはなっている。このまま、新撰組として、ゆけるところまでゆく。それ以外に、道はない。

 後ろから自分を窺う気配を感じ、振り返った。

「おお、やっぱり、綾瀬じゃないか」

 見知った顔。壬生に居つく前世話になっていた北野天満宮横の大政道場のにわか門人の瞬太郎だった。隣に、長身で眼の細い、縮れ毛ののっそりとした男がいる。

 瞬太郎は、土佐の手伝いをする、と何やら血生臭いことをしていたが、今はどうなのか。

 土佐者ならば、新撰組は必要があれば捕らえ、取り調べることができる。

「こいつ、ちょっとした知り合いで、綾瀬って言うんですよ」

「そうかエ」

 長身の男は、言った。にこにこと、人懐っこい笑顔を振りまいている。

「紹介してやるよ。こちら、坂本龍馬さんだ」

「よろしく」

「綾瀬と申します」

 坂本と言えば、確か、先日の八月十八日の政変で一気に力を失い、崩壊寸前になっている土佐の尊皇攘夷の急進派、土佐勤王党にもゆかりのある者ではなかったか。

「なんや、陰気な男よエ」

 龍馬と言えば、丸出しの土佐弁が有名であるが、別に普段から地の言葉でしか話さなかったということはないらしい。他国者と話すときには、分かりやすく言い換えたりもしていたし、訛りが出てもせいぜい、上方の言葉によく似たイントネーションくらいのものであった。ただ、彼は、相手を煙に巻くときや、自らを阿呆に見せるときなどは、進んで奇怪な土佐言葉でまくし立てたり、とぼけて見せることもあった。

「お前、俺の顔がそんなに面白いか」

 顔は笑ったまま、ずいと、坂本が進み出てきた。

「いいえ、そんな」

「お前も、人を斬るのか?暗い眼をしている」

「やめて下さい坂本さん、こいつに喧嘩をけしかけるのは。護衛の身にもなってくださいよ」

「お前、いったい何者だ?」

 語調は強いが、へらへらと笑っている。全く、変わった男であった。

「新撰組副長助勤、綾瀬久二郎です」

 はじめて、人前で、そう名乗った。

「ほうほう、新撰組か。さいきん、よく名を聞くな」

 坂本は、鷹揚おうように頷いた。

「何だよ、綾瀬。お前、新撰組にいたのか」

 瞬太郎は、ひどく驚いた。

「別に、何もせぬ人まで、捕らえたりはしませんから」

「そりゃそうだ、瀬尾瞬。そう身構えなや。お前の、知り合いだろうに」

 と、坂本は土佐訛りの混じった奇妙な言葉で瞬太郎をたしなめた。セオシュン、というのは、瀬尾瞬太郎という名を縮めたあだ名であろうか。

「もう、ええか。行くぞ」

「はい」

 瞬太郎は、久二郎に微妙な顔を向けた。久二郎は、苦笑した。坂本は、もう久二郎に興味を失ったのか、端唄を歌いながら、行ってしまった。

「瀬尾さん、また」

「おう」

 坂本と一緒にいたということは、瞬太郎は、土佐勤王党として、人を斬っていたのかもしれない。知り合いでも、斬らねばならぬことがある。それを、久二郎は知っていた。

 ただ、そのようなことのないことを、願うばかりである。


 屯所に帰った。

「綾瀬君、戻ったか」

 山南であった。

「君に、頼みたいことがあるのだ」

「私は、明日は非番ですが」

「明日の話ではない。見つけ次第、でよい」

「伺いましょう」

 山南の部屋に通された。そこには、土方もいた。

「何でしょうか」

「会津から、ある男の捕殺令が出ている」

「ほう」

「その男は、土佐勤王党の残党で、かつてはあの岡田以蔵おかだいぞうなどと共に、多く人斬りをした危険な人物だ」

 久二郎は、嫌な予感がした。さっき、会ったばかりではないか。

「先日の政変以来、尊攘派の過激な連中は、その生国に関わらず息をひそめている。これを機に、京からそれらを一層し、安寧を取り戻す」

「その男は、どのような」

「名は、瀬尾瞬太郎という」

 土方は、瞬太郎に対する様々な情報を説明し始めた。久二郎が知っているものも、知らないものもあった。

「かなりの、使い手だ。下手をすりゃ、こっちがられかねない。声をかけたのは、沖田、斎藤、永倉、お前だ」

 沖田、斎藤、永倉と言えば、新撰組の三強である。道場で向かい合っても、久二郎などは彼らに指一本触れることはできない。

「私は、あの人達に比べれば、明らかに粒が落ちると思うのですが、大丈夫でしょうか」

「問題ないと俺は思っている」

 土方が、立ち上がった。

「お前も、人を斬った経験がある。斬り合いなんざ、技じゃねぇ。受けてくれるな」

「新撰組副長助勤として、お断りする理由がありません」

「ほう。関心だな。どうした」

「別に、なにも」

「綾瀬君。不安なら、無理をしなくてもいいのだぞ」

 山南が、心配そうに声をかける。

「大丈夫さ、山南君。こいつは、やるさ」

 土方は、山南の部屋から出ていき、後ろ手で障子をぴしゃりと閉めた。

「ほんとうに、大丈夫か。綾瀬君」

「斬らねばならぬときは、斬らねばならぬのです」

 自分に言い聞かせるように、言った。それを、山南は、言葉通りの意味に捉えた。

「強いな、綾瀬君は。私など、このところ迷うことばかりだ」

 答えようがなく、久二郎はただ困ったように笑った。

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