第9話 七日目 土曜日

 空腹で目が覚めた。体の痛みは、ほとんど無くなっていた。何も食べなくても回復はするものだ。布団の中で体を触ってみた。打ち身の部分は押すとまだ少し痛んだ。すり傷はほとんど痛みは無い。肩から腰をさすると、少しだけ痩せた気がした。それだけエネルギーを使ったのだろう。

 目を覚ました事に、リオナが気付いた。

「蓮、まだ動けなさそう?」心配そうな表情と口調。アマロリ衣装に、ニーソックスがよく似合っていた。

「いや、もう大丈夫だよ」ぼくはベッドから抜け出した。

 立ち上がった時、腰に少しの痛みが走った。けれど、それもすぐに消えた。体の痛みはなんとかなりそうだ。そして、心の痛みもいくらか治まっていた。

 一日ぶりにリオナに料理を作ってあげた。そこまでは数日前までの生活と変わらなかった。変わったのは、ぼく達の会話だ。ぼく達は話さなくなっていた。いや、正確に言うなら、リオナが何度か話かけてきたけれど、ぼくがほとんどそれに答えられなかった。そしてリオナも話かけるのを止め、ぼく達はテレビを見ながら淡々と食事を済ませた。

 食事の後もテレビを見続け、時折リオナが何かを話かけてきたけれど、やっぱりぼくはきちんと答えられなかった。

 リオナがコピーであるという事に、ぼくの中でまだ答えが出せていなかったせいだ。

 ザッピングしながらチャンネルを変えていたが、土曜の昼間のテレビなど、面白い番組は一つもやっていなかった。部屋にいる事に少し苦痛を感じていたぼくは、時計が十時を指した頃、外着に着替えて出かける準備をした。

「どこかに行くの?」リオナが聞いてきた。

「うん」

「自分だけで遊びにいくの~?」不満を隠そうともしなかった。こういった所が、リオナの美点だと思った。

「アルバイトだよ」

「そうか、お仕事じゃ仕方ないね。がんばってきてね。あ、でも、まだ完全に回復していないだろうから、無理はしないでね」

「うん。ありがとう。それよりリオナ、まだポテトチップスに飽きてない? 他に何か食べたい物ある?」

「ううん。ポテトチップスでいいよ。全然飽きてないから」

 ぼくはリオナのご飯用にポテトチップスの袋を開け、水を用意し、家を出た。

 空は薄曇り。太陽は雲のカーテンの向こうから、夏とは思えない弱い光を地上へ送っていた。天気予報では弱い雨が降ると言っていたっけ。傘を持っていこうか悩んだけれど、持っていかない事にした。荷物になるし、弱い雨なら濡れたい気分だった。

 自転車で走りながら、ぼくはどこへ行こうか考えていた。

 アルバイトというのは嘘だ。

 シフトにも入れていない。それに、立ちっぱなしの本屋の仕事となると、体力的にまだ持ちそうにない。

 ぼくは一人になりたかった。

 リオナと同じ部屋にいては、彼女に対する申し訳なさで心が折れてしまいそうだった。

 身勝手な男だ、ぼくは。

 一人になるなら、インターネットカフェにでも行こうと思ったけれど、最初に目に付いたゲームセンターへ入る事にした。

 夏休みで、しかも土曜日。ゲームセンターの中はとても人が少ないとは言えない状況だった。でも、そこにいる人達はぼくにとって全員知らないただの他人だ。いくら人が多くても、それが自分になんの関係も無い人間でしかないのなら、結局のところそれは孤独と同じだ。いや、むしろインターネットカフェで一人のボックス席に座り、コンピューターのディスプレイに向かっているより、ここの方がもっと強く孤独を感じられる。今のぼくには、その感覚が必要だった。

 財布から百円玉を何枚か取り出し、TVゲームのコーナーや音楽ゲームのコーナーを眺めて行った。高校生の頃はよくやっていたジャンルのゲームだけれど、暗く辛く長い浪人生活中に次々と新しいゲームが登場し、専門学校生になった頃にはついていけなくなっていた。試しに対戦格闘ゲームをやってみたけれど、ほとんど手出しもできないままKOされ、一回でやめた。流行のカードを使ったゲームは初期投資と熟練度が必要だから前を素通り。残されたのは、店の一番奥にあるメダルゲームコーナーだけだった。もっとも、これこそ本当に熟練が必要なゲームなのだけれど。

 メダル貸し機に千円札を二枚投入。そのメダルを持って、元手が少なくても長く遊べる、ビンゴゲームに座った。

 メダルを入れてカードを選び、筐体中央のボールの行方を目で追う。何度目かのゲームで、三百倍を引き当てた。これで、メダルの買足しは必要なくなった。

 普段なら三百倍も当てれば、それなりに興奮するのだけれど、今はそんな感情が湧いてこなかった。全くゲームに没頭出来ないでいた。ぼくの心にかかっていた暗雲は、自分で思っていた以上に、大きかったようだ。

「コピー。今、家にいるリオナは、母星のコピー……」つぶやいた。

 ぼくの心をその思いが支配していた。

 以前はリオナと恋人のような関係になりたいと思っていた。それは真実だ。けれど、地球にいる彼女はあくまでもコピー。母星にいるオリジナルの複製なのだ。

 ゴーギャンの絵の複製は、確かにゴーギャンがどれほど優れた画家だったかを教えてくれるけれど、やはり複製でしかない。それが写真だとしても、細かい筆の運び、薄塗りで平坦な絵の具の使い方、その絵の迫力までは教えてくれない。

 リオナは確かに魅力的な女性だ。たとえ体のサイズが違っていても、心は通じ合い、お互いを思いやり生きていけるかもしれないう。でも、ぼくの部屋にいるリオナはコピーなのだ。

 通じ合うべき心も、コピーなのだ。

 彼女が魅力的であればあるほど、彼女が優しければ優しいほど、今のぼくは苦しむだけだ。コピーである彼女に心惹かれる自分自身に、苦しむだけだ。

 たった一週間前までは、こんな事に悩まずに生活していたというのに。一週間前は、心をこんなに乱す事など無かったというのに。

 ぼくは取り戻したかった。一週間前までの平和な日常を取り戻したかった。宇宙人が地球に来ている事など、忘れたかった。遺伝子を選択的に取り込み成長する宇宙人の存在も、自分達のルーツをただ追い求める半透明の知的生命体の存在も、二次元の宇宙人も、大昔の地球人の遺伝子からクローニングされた、六分の一サイズの我がままで意地っ張りで暴力的で、可愛く魅力的な女性の存在も……。

 忘れられるのなら、忘れたかった……。

 何も知らず、何にも会っていない。そんな日々が、遠く感じた。心を元に戻す事などできないと感じた。

 ぼくは彼女を愛している。

 でも、

 〝愛した人が、この宇宙でただ一人の存在ではない〟

 そんな事実を素直に受け入れられるほど、ぼくの心は先鋭的ではなかった。

 ぼくの心は物分りが良くなかった。

 深入りしてはいけなかった。

 深入りしてはいけない恋だった。

 育ててしまってはいけない、恋心だった。

 筐体の中央で、最後のボールがゆっくりとポケットに落下した。八番ボール。ビンゴはかからなかった、ぼくの持っていたメダルは全て無くなった。時計を見ると、午後五時になっていた。

「帰るか……」

 外に出ると、雨が降っていた。梅雨に逆戻りしたような雨だった。ぼくはその雨に濡れて帰った。

 雨が心を冷やして、落ち着かせてくれるかとも思ったけれど、思いは揺れたままだった。

 帰ってみたら、もう、リオナがいなくなっているかも……。

 そんな事も考えてしまった。



 部屋の鍵を開け、中へ入った。テレビが点いていた。その前のクッションに、アマロリ衣装を着込んだリオナが座っていた。残念なような、ほっとしたような、複雑な感情が押し寄せた。ぼくが帰ったのに気付くと、リオナはテレビから視線を外し、お疲れ様、大丈夫だった? と言った。ぼくは一言、うんとだけ答えた。

 熱めのシャワーを浴び、食事の用意を整えた。リオナのための小さな食器を見ると、それを買いに行った日の事を思い出した。思い出せば、あの日々が楽しかった事を再認識する。あの時は、こんな気持ちになるとは思っていなかった。

 食事は、また、淡々と済んだ。

 食器を片付け、ぼく達は無言でテレビを見た。それほど面白い番組はやっていなかったけれど、リオナと話をする気分にはなれなかった。完全に彼女に負い目を感じていた。

 スマホが鳴った。友達からだった。遊びに行かないかと誘われた。今日はやめておくと答えた。こんな気分のままでは、友達に顔色を読まれない自信が無かった。それに、どこに逃げても、現実は変わらないのだから。自分が自分である以上、どこへ逃げて何をしても、変わりはしないのだから。

 テレビを見ていた。時計の針は夜八時になっていた。少し沈黙が重たかった。コントを見ていたけれど、少しも笑えなかった。笑える心情ではなかった。

「蓮」リオナがぼくを呼んだ。

 ぼくは返事をせず、首だけを回し、テーブルの上にいたリオナを見た。リオナは立ち上がって、胸の前で手を結んでいた。

「蓮」またぼくの名前を呼んだ。返事を求めているようだった。

「なんだい?」ぼくはリオナに対し正面を向くように、座りなおした。

「あのね……」リオナに似合わず、小さな声だった。「あのね、お別れの時が来たの」

 お別れ……。

 お別れ。

 そうか。

 ぼくはテレビを消した。

「母星に帰るのかい?」

「うん……」

 心は素直だ。

 ほっとしていた。

 救われた気持ちになっていた。

 何もかもが、元に戻るんだ……。

 やっと……。

「帰ったら、リオナも褒められるね。マカトフのデータを取る任務に成功したんだし」

 成果は充分にでているはずだ。

「うん……。蓮のおかげよ。でも……」

「でも?」

「帰るっていうのとは、少し違うかな」リオナが少しうつむいた。

「違うって? どういう事?」

「えっと、長距離転送をしたコピー体はどうしても、原子間のつながりが弱くなってしまうって、お話したでしょう?」

 そう言えば、最初に会った時に、そんな事も言っていたっけ。あの時はそんなに深く考えていなかったけれど。

「うん、聞いたよ。それで?」

「タイムリミットが来ちゃったの」

「……言っている事が、よく分からないよ」

「だからね……。私ね……。私、もうすぐ、原子のレベルでバラバラになっちゃうの。消えて無くなっちゃうのよ」

「消える?」ぼくの心臓が、大きくドクンと鳴った。

「そう、跡形もなく消えちゃうの。私のこの体が、元のバラバラな原子に戻るのよ」その目に、薄く涙が浮かんでいた。

 え! そ、それって、それって、まさか、

「それって、つ、つまり、もうすぐ君は死んでしまうって事?」背中に冷たい物が走った。全身の血が逆流を始めたような感覚に襲われた。

 リオナは何度も何度も首を横に振った。

「ううん。そうじゃない。そうじゃないよ。私のオリジナルは、今も母星にいるもの。私はただのコピー。始めから存在しないはずのコピー。存在しないはずの私が、ただ消えて無くなってしまうだけ。ただ、元の原子に戻るだけ」精一杯の笑顔を作っていた。その頬を、意思と逆らうように涙の粒が流れていた。

「そ、そんなの、言い方を変えただけじゃないか! ぼくが知っているリオナは、今、ここにいるリオナだけで、そのリオナが消えて無くなってしまうって事は、それは、つまり、死んでしまうのと同じじゃないか!」

「蓮が、そう捉えたいのなら、それでもいいわ。お別れする事に、変わりはないもの」リオナの声は震えていた。

 そんな、そんな、死んでしまうなら、なぜ、そう言ってくれなかったんだ……。

 リオナは今日も明るかった。今日も普段と変わらなかった。

自分の死が迫っているというのに。

普段と変わらずぼくに接してくれたのは、彼女の優しさからだろう。

 もしも、今日死んでしまうと朝にでもぼくに言っていたら、ぼくが余計な気を使うと思って、今まで黙っていたんだ。自分が今日、死ぬ──消滅すると、分かっていながら。それでも明るく接してくれていた。なのに、ぼくは、ぼくはそんな彼女を、疎ましく思ってしまっていた。彼女を邪険に扱ってしまった。彼女は、リオナは、こんなに、こんなにぼくに気を使ってくれていたのに! 自分の悲しみや苦しみを全く表に出さず、こんなにぼくを思っていてくれていたのに!

 リオナはまだ笑顔を作っていた。そして、その頬を流れる涙も止まらなかった。

「リオナ、駄目だリオナ、消えちゃ駄目だ」ぼくの瞳からも涙があふれてきた。

「ごめんね、蓮。コピーは絶対に消えてしまうのよ。蓮には我がままばかり言って、ごめんね。これが最後の我がままだから」

 優しくしてあげなくちゃいけなかったんだ。昨日だって、今日だって。優しくしてあげられるチャンスはずっとあったのに、ぼくは優しさの欠片さえ、彼女に向けてあげられなかった。これは……。これは、ハンカチと同じだ。山崎さんに渡してあげられなかったハンカチと同じだ。ぼくはまた、優しさを分けてあげられなかった。

 同じ過ちを繰り返した。

 ずっと後悔として残ってしまう過ちを。

「謝らないで、リオナ。ぼくこそ謝らなくちゃ」

「蓮は何も悪くないわよ」

「ぼくは、君に全然優しくしてあげられなかったもの」

「蓮は優しかったわよ。私の我がままも怒らずに聞いてくれたし、私のために地球の自然を見せてくれたし、私の──」

「違うんだ!」ぼくはリオナの言葉を遮った。「違うんだよ、リオナ。ぼくは、ぼくはね、君の事を邪魔者のように──」

「でも」今度は、リオナがぼくの言葉を遮った。「でも、それを言葉に出して、私を責めたりしなかったでしょう? 私をこの部屋から追い出したりしなかったでしょう? 私のために、お料理だってしてくれたじゃない」

「そ、それは……」

「あのね、蓮」

「なんだい?」涙でリオナがよく見えなかった

「蓮は優しいわよ。私が会った人の中では、一番優しかった。こうしてちゃんと最期を迎えられたもの。殺されて、消えてしまうんじゃないもの……」

「……」

「だから、私、蓮に会えてとっても幸せだったわ。こんなに可愛い服も買ってもらったし、公園の散歩、楽しかったわね」リオナは一番の笑顔を作った。

「好きだったんだ。リオナの事、好きだったから、嫌われたくなかったから、だから、だからぼくは……」泣いているせいで、きちんと言葉を続けられなかった。

 リオナの体が、突然大きく輝き出した。らうるるるるあ達が転送される時とは比べ物にならない程の大きな光だ。

「駄目だ。消えちゃ駄目だ。リオナ!」

「ありがとう。ありがとう、蓮。私、蓮に会えて、本当に良かった。本当に嬉しかった。本当にしあわ──」

 リオナの声は途切れ、光は消え、リオナが立っていた場所には、ただ服だけが落ちていた。彼女の髪の毛一本さえ、残ってはいなかった。

 何度も何度も、目を凝らして探してみたけれど、彼女がここにいた痕跡は何も残っていなかった。

 思い出を取り戻してくれるような物は、何も残っていなかった。

 ぼくはしばらく何もできず、そのままテーブルを見つめていた。だれもいないテーブルを見つめていた。

 時計の針が十時を指した頃、ぼくは服を丁寧にたたみ、テーブルの上に置いた。

 ぼくは言った。

『ぼくが知っているリオナは、今、ここにいるリオナだけで──』

 そうだ。

 答えは出ていたんだ。

 コピーがなんだって言うんだ!

 コピーだなんて関係なかったんだ!

 ぼくが好きになったリオナは、ここにいたリオナだけだったんだ。ぼくが好きになったのは、この一週間、一緒に過ごしてきたリオナだけだったんだ。枕元で無防備な寝姿を見せていた、リオナだけだったんだ。なのにぼくは、子供みたいにいじけて、彼女を邪魔者扱いしてしまった。ぼくが勝手に勘違いしていただけなのに。ぼくが勝手に傷ついただけなのに。ぼくが勝手にトスク人を信じてしまっていただけなのに。

 ……彼女は、何も悪くなかったのに……。

 彼女は何も悪くなかったのに、自分の傷ついた心を少しでも慰めるために、彼女を悪者にしてしまった。コピーだからと、蔑んでしまった。悪いのはぼくの方だったのに。

 本当に最低だ、ぼくは。

 他人に愛してもらう資格なんてない。

 山崎さんに渡せなかった、一枚のハンカチ。リオナにあげられなかった、一片の優しさ。ぼくには優しさなんて物が全く無いんだ。

 リオナ。君は確かにコピーだったのかもしれない。でも、コピーではないぼくなんかより、ずっと人間らしかった。ぼくに、〝優しさ〟という物を教えてくれたのだから。

 そしてぼくは、また、後悔の日々を送るのだろう。

 何日も何か月も何年も。

 再び、ぼくの心が愛する人を見つける事を許す日まで。

 それまで、後悔の日々を送るのだろう。

 今はこれから先の事など、明日からの事など、全然考えられないけれど。




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