第8話 六日目 金曜日

 案の定、体は動かなかった。寝返りをうっただけで全身に痛みが走った。そのせいで、夜に何度も目が覚めた。いや、体の痛みのためだけではなかった。心も苦痛で悲鳴をあげていた。眠りの中に逃げ込むのが難しかった。夜中に目を覚ました時、いつも枕の横にいるリオナの姿が無かった。母星へ帰ったのかと思った。違った。リオナはテーブル横のクッションの上で寝ていた。ぼくに気を使ったのだろう。ぼくにとってこの夜は、ほとんど眠られぬ夜となった。

 日の光が差し込む時間になると、リオナはベッドの上、ぼくの目の前にいた。相変わらずセーラー服のリセ姿だった。気分はどうかと聞いてきた。疲れていて、体が動かないと答えた。ぼくはなんとかベッドから抜け出て、トイレに行った。血尿が出た。立っているのがやっとだった。昨日コンビニで買っておいた物の中から、サンドイッチとポテトチップスを取り出し、小瓶に水を汲んでテーブルへ運んだ。今日はとても料理ができる体調ではないから、これで我慢してほしいとリオナに言った。うんと返事をし、リオナは首肯した。リオナが食べられるようにサンドイッチとポテトチップスの袋を破り、テーブルの上に広げ、ぼくはまたベッドへ戻った。蓮は何も食べないのかと聞かれた。食欲が無いんだと答えた。胃に何も入れられないと思った。体は栄養を欲していた。胃は空っぽになっていた。でも、食欲は無かった。なんとか栄養を取らないと、回復が遅れるだけだと分かってはいた。でも、食欲が無かった。食べる事も呼吸をする事も煩わしかった。体力が戻らないように、心に平穏も戻らなかった。

 リオナが暇を持て余しているようだったので、テレビでも見るといいと言った。でも、蓮が眠るのに邪魔になるからと言われた。テレビの音はそれほど気にならないから、かまわないと答えた。テレビの音で眠れないのなら、まだ健康的だ。きっと耳元でフルオーケストラが演奏していても、今のぼくは気にならないだろう。きっと優しい日差しが適度に差し込む、暖かで柔らかな布団の中で横たわったとしても、眠れないだろう。睡眠導入剤を飲んでも、眠れるか怪しかった。

 食欲は無いが空腹だった。いつもなら辛い空腹の苦しみが、今は心地よかった。飢餓の苦しみは、まだぼくが生きているという証拠だ。時として肉体的苦痛は、精神的苦痛を凌駕する。ぼくの体へ新しく苦痛が加わるたび、ぼくの心の苦痛は少しだけ緩和されていくような気がした。リストカットはこんな精神状態がさせてしまうのかもしれない。

 食欲はどうにかなったが、喉の渇きは我慢できなかった。ぼくはトイレと水を飲む時だけベッドから抜け出た。部屋を横切るたびに、リオナが大丈夫かと聞いてきた。その優しさに、少しだけ申し訳ない気持ちになった。ぼくが今、リオナをどんな目で見ているか──。それは知られたくなかった。リオナがテレパシーを使えなくてよかった。

 先週の金曜日は何をやっていただろう? 確か、アルバイトに出ていたはずだ。あの時は、こんな事になるとは思ってもいなかった。あの時はこんな事に巻き込まれるとは思ってもいなかった。ごく普通の、ありふれた日常。退屈だったけれど、小さな喜びにあふれた世界。もう、ぼくには戻ってこないかもしれない日々。

 テレビを見るリオナの横顔を見つめた。愛らしい顔立ちだ。セーラー服姿も手伝って、本当に山崎さんがそこにいるような錯覚を覚えた。ぼくが山崎さんを好きになったきっかけを思い出した。彼女はクラスの中でも、特別可愛らしかった。でも、好きになったのは、そのためではなかった。それだけなら、他のクラスに、もっと可愛い子がいた。

 あれは三年時の文化祭の日。

 文化祭。真っ暗な体育館の中では、普段あまり目立たない文化部の人達が日頃の成果を発表し、スポットライト光に照らし出されていた。状況をよく理解していない真面目すぎる発表では、居眠りの時間や友達と親交を深めるための時間へ変わってしまっていたが、状況をよく理解している部の発表の時には、それなりに盛り上がっていた。その中でも特に皆の注目を集めたのは、演劇部の発表の時だ。ほとんどコントと言っていいその内容は、今なら少しも面白くないだろうけれど、その日、その時は大きな笑いを生んでいた。ぼくも笑った。ぼくの周りからも笑い声が響いた。体育館の中は笑い声で包まれていた。しかし。ぼくの横に座っていた山崎さんは違った。彼女はうつむき、膝の上で小さく握られた握り拳には、時折涙の粒が落ちていた。皆の笑い声の中、彼女の瞳からは涙がこぼれていた。彼女の涙の理由を、ぼくは知らない。そして、彼女が泣いていた事は恐らくぼくしか知らない。演劇部の発表が終わり、次の退屈な発表が始まると、前の席の女子が彼女に話かけてきた。その時、彼女はもう泣いていなかった。笑顔を作っていた。頬の涙は乾いていた。誰にも見てもらえない涙ほど、悲しい物はない。誰にも見てもらえない涙ほど、切ない物はない。でも、彼女はそれを選択した。暗い体育館の中、皆の笑い声が響くその場所は、彼女に気を止める者など誰もいなかった。そこを選んで、彼女は泣いていた。彼女はその涙を誰にも見られたくなかったのだろう。その、誰にも見られるはずのない涙を見てしまった時から、ぼくの心は彼女に支配されてしまった。彼女の笑顔だけが見たかった。彼女にたくさんの笑顔をプレゼントしたかった。彼女の幸せを見つめたかった。彼女を、世界一幸せな人にしてあげたかった。誰にも見られたくない涙など、一生流さずにすむようにしてあげたかった。

 ぼくが彼女を好きになったのは、確かにあの日からだった。そして、ぼくの後悔の日々の始まりでもあった。

 告白する事は何度も考えた。でも、できなかった。彼女から、自分のどこを好きになってくれたのかという質問をされたなら、なんと答えればいいのか? 文化祭の時の涙を見てしまったからなんて理由は、言えるはずがない。彼女にとって、誰にも知られたくない事のはずだから。もし、もしあの文化祭の日、ぼくがハンカチを彼女にそっと差し出していれば。ただ一枚のハンカチを、彼女に差し出していれば、状況は変わったかもしれない。あの頃のぼくには、優しさが足りなかった。決定的に他人を思いやる心が欠落していた。だから彼女の涙を見ても、何の行動にも出られなかった。慰めてあげる事ができなかった。あの時、あの場所で、それができたのは世界でぼくしかいなかったのに。ぼくは後悔した。彼女を好きになればなるほど、後悔は深くなって行った。

 やがて卒業を迎え、皆バラバラになっていった。

 彼女に会えなくなれば、ぼくのこんな恋心も消えてしまうと思っていた。新しい環境、新しい世界で、もっと好きな人が現れ、ぼくは新しい恋に胸を痛め心躍らせるのだろうと思っていた。しかし時の流れの中でぼくはより一層、後悔を深くしただけだった。彼女の事を忘れる事ができなかった。もう今さらどうする事もできはしないのに。たった一枚のハンカチを渡せなかった、その後悔をずっと抱いていた。

 今でも時々、彼女の涙を思い出す。誰にも見られたくなかった涙。それでも流れてしまった涙。彼女がすぐ後に作った笑顔とのコントラストに、その涙に乗せられた悲しみはより一層大きく感じられた。

 リオナを見た。テレビを見ながら、普通に笑っていた。顔こそ似ているが、山崎さんとリオナが別人格である事は始めから分かっていた。リオナには、リオナの良いところが沢山ある。優しさ、明るさ、直接的な感情表現。気の強さもチャームポイントの一つだ。彼女のどの部分を切り出しても、リオナはとても魅力的な女性だ。いつも輝いて見える。自分に与えられた仕事にプライドと信念を持ち、また、仕事だけの生活に陥らない姿勢。そんな彼女の内面が、彼女を輝かせているのだろう。リオナが山崎さんに勝っているとは思わないが、山崎さんがリオナに勝っているとも思わない。二人は別人だ。全く別のパーソナルだ。だから、顔こそ似てはいるが、リオナが山崎さんではないからと、彼女を否定したりはしない。そんな事はぼくの身勝手さ以外の何物でもないからだ。山崎さんもリオナも、立派な個人なのだ。その二人を比べて、どちらが上でどちらが下などと言う事が許される者など、この宇宙のどこを探してもいるはずがない。山崎さんは山崎さんの良いところが沢山あり、リオナはリオナの良いところが、また、沢山あるのだから。

 でも……。

 でも。

 でも、山崎さんは〝コピー〟ではなかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る