恋の呪い

カワサキ シユウ

恋の季節とその結末

 徹夜明けの空はどうしてこんなに重苦しい鈍色なのだろう。けだるい身体を引きずるようにして歩く町はいつもとは全然違う顔をしていて、孤独を煽る。その孤独を噛みしめるように僕は一歩一歩足を動かし続けた。この苦しさを忘れてしまう頃、僕はきっと悲しい大人に成り果てているのだろう。そんな拙いことを考えながら、僕は夜の一番深い時間の中を歩いた。鈍色の空の薄い雲の向こうにあるはずの眩い太陽のことを思った。


 つまらない一つの恋が終わった。お互いが優しさを投げかけることに夢中な時期が終わり、見返りを求めた途端にさめてしまうような恋だった。自分が傷つくことなく相手の非をどれだけ挙げられるか、そんなことばかりを考えて神経をすり減らす生活が終わり、虚しさと吹っ切れた悲しみだけが残った。

 君はそんな辛い恋の終わりの相談相手だった。君も同じように失恋して傷ついていたから、互いの傷を舐めあうようにして寄り添っていたのだと思う。それが二人の始まりだった。僕らはやっと二十歳になったばかりだった。


「私のことなんか好きにならないほうがいいよ」


 君はいつもそんなことを言っていた。なんで、って聞き返しても、そんなことはないよって否定しても、返事はいつも同じだった。


「私なんか好きになったって幸せにはなれない」


 そういって僕のことを突き放そうとするのは君自身の保身やナルシシズムのためでもあっただろうが、同時に誰かを傷つけまいとする優しさでもあったのだろう。


 さざ波はいつまでも飽きることなく打ち寄せては引いていく。その単調さは永遠を思わせた。波音はいつまでも止まないけれど、慣れてしまうとそれは静寂に等しい。水平線のかなた遠くに浮かぶ船の影が揺らめく。うだるような暑さとそれにふさわしい真夏の砂浜。新しい恋の予感に胸を震わせる僕ら以外誰もいないここは絵画の世界だった。このまま時が止まってしまえば、恋の喜びも苦しみも切なさも味わうことなく僕らはいつまでもかすかな昂揚の中でお互いを想い続けられるだろう。唇にすら触れたことのない無口な隣人のことを。

 やがて絵画のときは終わる。家族連れはあれこれと道具を広げてどうやらバーベキューでも始めるようである。数十メートル先で広がる健康的な眺めを見て、僕は少しだけうらやましく思った。それは僕だけではなかったらしい。


「いいね、ああいうの」


 君がそう口にするのを聞いて思わず口角が緩んだ。絵画が鮮やかに色づいて、時を止める魔法は音もなくその効果を失った。


「うん」


 パステルカラーの君が愛しくてたまらなかった。


「ねぇ」


「うん?」


「僕はたぶん君のことが好きだと思う」


 君はおどけて見せて、そして笑う。


「たぶんってなに。もしかしたら好きじゃないかもしれないの?」


「それはわからない」


「わからないんだ」


「うん、だけどきっと君のことを、今よりもずっと好きになると思う」


「それは呪いのようね。恋の呪い」


「呪いは嫌い?」


「嫌いじゃあない」


「じゃあ、一緒に呪われようよ」


「私でいいの」


「君でいいのかな」


「さぁ」


「君でいいと思う」


「そう思うなら、いいんじゃない」


「うん、いいと思う」


 ふふと薄い笑みを浮かべながら、君はずっと先の砂浜を見ている。僕も同じように見てみると、カップルだろうか、小さな二人分のシルエットが砂の上をゆれている。


「まるで遭難者のようね」


 遭難しながらも二人はくっついたり離れたりして手をつないだりしてどんどんこちらから遠ざかっていく。


「ねぇ」


「ん?」


「僕と付き合ってよ」


「そうしたいの?」


「うん。君と恋人になりたい」


「じゃあ、いいよ。恋人になろう」


 青空の果て知らぬ青さのような、雄大な海の底知れない碧さのような、僕らの夏の始まりだった。


 二人の優しさが溶け合ってぐちゃぐちゃに混ざり合ってどこまでが自分の優しさだったかなんてとうにわからなくなってどうでもよくなって、だからそれは僕らの優しさであって大好きな君と僕の二人だけの優しさで、だからそれだけで十分だった。


「旅がしたいね」


 君はよくそう言った。


「私の世界の何もかもを捨て去って、それでも存在する世界の美しさに触れてみたい」


 何かを諦めることで見ることのできる夢は、何かを犠牲にしてつかむ夢は、それでも美しいだろう。そうして真っ先に彼女に捨て去られるのは僕ではない。それは悲しいことだった。


「お土産話、聞きたいな」


 僕が寂しくなってそういうと、君も少し寂しそうに笑った。


「私はあなたのこと、もっと好きになりたいな。それこそ鬱陶しくなって旅に出なくちゃならなくなるほど」


 僕は黙って君の頭をなでた。頭の中を押しつぶすような白が支配していて、それが優しさなのか憎しみなのかわからなかった。


「昨日夢をみたの」


 虚空をにらんだ君の瞳はギラギラしていた。


「怖い夢。そばにあなたがいればいいのにって思った。夢の中にいてもあなたは私の手を握って、そうすれば怖くないのにって思った」


「それは無理だよ」


「じゃあ、私が眠るまでの間はそばにいて。朝になったら体をゆすって何度も起こして。私、何度も二度寝するから、耳元で名前を囁きながら何度でもゆすって」


「それならできるかな」


「それならできるでしょ」


「でもかわいい寝顔のせいで何度も抱きしめてしまうかもしれないね」


「じゃあ、眠り姫になるわ」


「それでは旅には出られないね」


「出られるわよ、眠りの旅に。そうしたら毎朝お話してあげる。夢の国の旅の話を」


「それじゃあ待ちきれなくて早く起こしてしまうかもしれないよ」


「それはそれでいいわ」


 君は僕の膝を枕にして寝たふりを始める。


「あなたの恋人でよかった。……今のは寝言ね」


 そっぽを向いた。


 電車の車窓は僕らにたくさんの景色を見せてくれる。輝かしい街のきらめきも、懐かしい田園風景も、駆け出したくなるような真夏のビーチも、そして過去を思い出させるような陰鬱な曇り空も。だから君がその日いつもの駅で電車を降りなかったのもきっとそんな憂鬱な秋の空のせいに違いなかった。終点で降りてまた反対方向の電車に乗ったり、環状線をぐるぐる回ったり、そんな不毛なことを続けても彼女が見つめる先にある灰色の空は一向に陽の射す気配も見せなかった。雲の向こうが見えるものがあったとしても、陰鬱な青白い月くらいという時間になってようやく君は電車を降りた。


「帰る」


 ようやく決心した顔でいつもの駅で降車した君はいつもよりぎこちない仕草で、じゃあね、と僕に手を振った。二つ隣の駅にある自分の部屋に帰ってしばらくして電話が鳴った。


「やっぱり今夜は一緒にいて」


 部屋のドアの外には手提げのかばんを抱えて髪や肩を濡らした君が突っ立っていた。月も見えない空からはいつの間にか大粒の雨が何滴も降り注ぎ、それは人々の悲しみと同じくらい果てしなかった。

 シャワーを浴びてもこもこと白い部屋着に着替えた君は群れからはぐれた羊のようだった。僕がその頭に手をのせると思い出したように寄りかかってきた。


「なんかさみしい」


 言わないといけないから仕方なく言ったようなわずかな怒りのこもった声だった。僕は頭にのせていた手を引いて、それから君の肩に腕をまわす。


「あなたは私のさみしさを慰めたり寄り添ったりしようとしてくれる。でもそれがさみしい」


 腕が握り返される。


「そういう人を好きになれればいいなって、そうすれば幸せになれるんだろうって思ってた。私のこころに寄り添ってくれて、穏やかに私を好きでいてくれる人に。私のささやかな努力に共感してくれる人に。でも……どうしてかなぁ……」


 その夜、雨が降り止むことはなかった。その雨を止める魔法が使えないことを、僕はどれだけ歯がゆく思ったことだろう。


 それから本格的に寒くなるまでの短い季節、僕らはよく夜の街を歩いた。昼間の明るい日差しから逃れ、まっくろな世界を旅した。君は饒舌だったり無口だったり情緒不安定だったり辛気臭かったりした。

 波は決して飽きることなく打ち寄せては引いていく。その中で誰にも気づかれないくらいに少しずつ何かを削り取っていく。悪意さえなく。


 季節は、冬になっていた。身体のひりつくような酷く寒い冬だった。

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