第25話
「ここだったら何かあっても、ソファで寝れば夜もみてあげられるから、心配ないわね」
「壁にもたれたでしょ、埃だらけよ」
言われて身体をよじってみると、なるほど、
「汚れること覚悟で来てるんだからいいだろ」と言い返してはみるが、紗代子はまるで聞こえない様子で、陽介の背中を掌で何度か叩いた。
「あと、押し入れだけ見といてや」と、声をかけてきたのは
「部長、本当に決まってますね」
陽介は心底感心し、その姿をあらためてしげしげと眺めた。部長の実家は工務店で、中学時代から家業を手伝っていたという話は聞かされていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。しかし当の本人は陽介よりも、紗代子への説明に一生懸命だった
「この中板も外して、クローゼットみたいにするわけやな。それで、襖も木目調の引き戸に変える、と」
「ハンガーパイプは片側だけにしたいんですけど。こっち側には棚を入れて」
「それはそれでOK牧場やで」
ほとんど陽介の意見は無視され、紗代子と岡本部長の間で、この家の内装は決まりつつあった。賃貸マンションを引き払い、一軒家を借りて、退院してきたペクと一緒に住むというのが陽介と紗代子の出した結論で、そうするために二人は何軒かの不動産屋を回り、築四十年に近いこの物件に行きついたのだ。
ずっとここに住んでいた夫婦が老人施設に入るという事で、取り壊す予定だったものを、最長で十年という期限付きで借りることになった。ペット可は必須条件だが、ついでに内装に手を加えることも了解してもらって、今のマンションとほぼ変わらない家賃だ。
賃貸マンションがあった新興住宅地とは逆方向、紗代子の実家ともずいぶん離れていて、要するに、地価の安い、交通の不便な半農村エリアがこの家のある場所だった。陽介の通勤時間は朝夕あわせて三十分長くなったし、徒歩圏のスーパーは一つだけだが、それでも日当たりと風通しがよくて、小さいけれど庭のある角地の家だ。
二人の計画を聞いて、紗代子の両親はまず反対した。何もあんな場所に住まなくても、というのが、住所を聞いただけで年収などの背景を具体的に想像してしまう、地元民である彼ら、特に義母の意見だったし、彼女は陽介が提案したのではないかと考えているようだった。しかし今回、マンションからの引越しを言い出したのは紗代子だった。
それは陽介が九州から戻った、次の土曜のことだった。旅の疲れがまだ完全にとれていない事もあって、昼近くまで眠っていたのだが、そこへいきなり紗代子が現れたのだ。
最初は掃除でもしに来たのかと思ったが、彼女は寝室に顔を出して「お早う」とだけ言うと玄関に舞い戻り、スーツケースやスポーツバッグを次々と運び入れてから、廊下にぼんやりと立っている陽介に向かって「ただいま」と言った。
「ペクも無事入院したことだし、私もこっちに戻ることにしたわ」
言われてみれば当然なのだが、何故か陽介の頭からはその考えがすっぽりと抜けていて、ペクの入院中もずっと別居生活が続くように思いこんでいた。
「キリン堂でパン買ってきたんだけど、陽介も食べる?」
「ああ、冷蔵庫にヨーグルトと、トマトもあるよ。卵は古いからやめた方がいいと思う」
「判ったわ。顔洗ってくれば?」
陽介が洗顔と着替えを済ませて居間に行くと、紗代子は食事の準備を整えていた。温めたクロワッサンとベーコンエピ、蜂蜜を入れたヨーグルトに、電子レンジで作ったらしいトマトのコンソメスープ。
「冷蔵庫が気持ちいい位すっきりしてるね」と言いながら、紗代子はマグカップにコーヒーを注いだ。
「今週はあんまり早く帰れなくて、ずっとコンビニのお世話になってた」
「じゃあ今日は野菜いっぱい食べないと」
「そうだね」と頷いて、陽介はコーヒーを飲んだ。いつもの豆でいつものコーヒーメーカーなのに、普段よりおいしいと感じるのは、誰かが自分のために淹れてくれたからだろうか。久しぶりに二人で食べる朝食は妙に緊張して、掃除の行き届いていない部屋のあちこちに目を走らせたりしてしまう。それは紗代子も同じことらしくて、これまではろくに見もしなかったベランダの方へ何度も視線を投げている。
「テレビ、つけていいかな」
紗代子の提案で、いつも食事中はテレビを見ない約束になっていたが、一人でいた間はずっとつけていたので、いきなりの静けさというのも居心地の悪さの原因かと思い、陽介はそう尋ねた。
「ごめん、ちょっと話したい事があるの」
「何かな」
もしかして鹿児島行きの道中に起こった事が、何かばれたんだろうか。陽介は思わず身を固くして、紗代子の表情を伺った。
「ペクの事なんだけど、退院したらあっちの家じゃなくて、私たち二人で飼えないかな」
「このマンションで?」
「それは無理だから、どこかで安い借家さがして、引っ越すの」
思わず「うーん」と唸って、陽介は空になったマグカップをテーブルに戻した。正直いって、引越しというのは悪くない提案だ。
「俺は基本的に賛成だけど、なんで急にそんな事思いついたの?」
「私ね、自分じゃペクの飼い主のつもりだったけど、結婚してからはお父さんとお母さんに任せきりだったし、病気もすぐに見つけてあげられなかったし、鹿児島に連れて行くのも陽介に任せきりだったし」
「インフルエンザは仕方ないよ」
「でもとにかく、私の犬なのに、ちゃんと自分で面倒見てなかったって、今更のように思ったのよ。それに、陽介と結婚してるのに、ペクのことが大変だからって、ずっと実家に帰ったきりで、何ていうか、どっちも中途半端にしてたなあって、反省したのよ」
紗代子の口からそんな言葉が出るとは予想もしていなかったので、陽介はただ「そっか」としか言えなかった。
「まあ、寝込んだせいで、有り余るほど考える時間があったからなんだけどさ」と、紗代子は照れたように付け加えると、ちぎったクロワッサンの端をスープに浸し、口に運んだ。
「それでね、熱があると、奇妙な夢を見たりするじゃない?」
「ああ」
「自分でも寝てるんだか起きてるんだか判らなかったり、とても長い、続き物みたいな夢だったり、そんなのを見たのよ。どうやら私も鹿児島まで行ってる感じで、病院みたいな建物の中にいるの。そこにはベッドが幾つかあって、一つには陽介が寝ていて、もう一つにはペクが寝てたわ」
「仰向けに?」
「どうだろう、そこは憶えてないけど、とにかくペクなの。それでね、私は二つのベッドの間に立っていて、傍には女の人がいるの」
ふーん、と言いながら、陽介は自分が見た奇妙な夢の事を考えていた。状況は違うといえば違うし、似ているといえば似ている。そのもう一人の女性というのは、動物病院の受付嬢だろうか。まあ、あの時いちばん気がかりだった事はほぼ一致しているのだから、互いにそんな夢を見たとしてもおかしくはないのだけれど。
「綺麗な人だった。何ていうか、セレブ御用達のファッション雑誌の、読者モデルみたいな感じなの。派手じゃないんだけど、きっと高いんだろうな、って雰囲気のワンピースを着ててね。で、その彼女が私に向かって言うの。可哀相に、陽介さんもペクちゃんも、じき死んでしまうわ。でもね、これは誰にも秘密だけれど、私、人魚の肉を持っているの。これを食べれば、どんな病気でも治すことができるわ。ただし、一人分しかないのよ。だから紗代子さん、貴方にとって本当に大切なのは陽介さんかペクちゃんか、今ここで選んでちょうだいって」
「なんかちょっと、ぞっとしない話だなあ」
「ごめんね。聞いてて不愉快だろうとは思うけど、続きがあるのよ」
紗代子はいったん立ち上がるとキッチンへ行き、コーヒーのお代わりを持って戻ると、陽介と自分のマグカップに注いだ。
「それでまあ、こうして話ができてるんだから察しがつくとは思うけど、私は陽介を選んだの。そしたら彼女は、どこからか血もしたたるような生肉を一切れだけ盛った、小さなお皿を出してきて、それを指先でつまんで自分の口に入れたかと思うと、こんどは寝てる陽介に口移しで食べさせたのよ。私はというと、あららら、って感じで見てるしかなかったわ。そしたら彼女、血まみれの真っ赤な唇でこちらを見上げて、これであなたの願いはかなったわね、ってにっこり微笑んだわ。
思わず、ペクはどうなるの?ってきいたら、連れて行くわ、だってもういらないんでしょう?って、眠ってるあの子を抱えて出て行ってしまったの。私は慌てて後を追ったんだけど、彼女はすごいピンヒール履いてるのに、歩くのがとても速いの。お願い、待って!って叫ぼうとしたところで目が醒めたわ。もしかしたら実際に叫んでたかもしれない。だって私、本当に涙を流してたんだもの」
紗代子はそして、コーヒーを飲むと小さな溜息をついた。
「あれ、何時ぐらいだったのかしら、まだ夜中で、どこからも何の音も聞こえなくて、ただ私の動悸だけが耳の奥に響いてた。それでじっと泣きながら、私は心の中でペクに謝ってた。あの子が私にしてくれた事と、私がしてあげた事って全然つりあってなくて、病気になってからはそれを穴埋めしようって一生懸命だったけど、結局はあの子を一番にしてあげなかった。人間とペットでは仕方ないって、理屈でそうなるのは判るんだけど、やっぱり自分のこと許せないのよ。でもその一方で、陽介が私にとってどれだけ大切かって事もよく判ったの」
「まあ、そう言ってもらえるのは有難いけど」
「それでね、思ったの。これからは陽介と一緒に住んで、ペクの世話をしたいって。もちろん色々と思い通りにならない事はあるかもしれないけど、それは我慢するつもりよ」
あれから半月たっていないのにもうここまで話が進んでいるのは、何だかこちらが夢のような気になる。職場で何気なく打ち明けた引越し話に、誰より乗り気だったのが岡本部長というのも意外だった。
「元々が工務店の倅やし、趣味は日曜大工やのに、もう自分の家はこれ以上いじらんといてって嫁さんに釘さされてるんや。頼むしやらせてんか」と、頭を下げられての内装工事だが、まあそれはそれでいいか、と任せることにしたのだ。
部長を手伝いに来ている二人のゴルフ仲間に軽く頭を下げ、陽介は縁側から庭に降りてみた。今までここに住んでいた老夫婦が植えたという白梅の蕾が、早春の日差しを受けてほころびかけている。どうやら二人は園芸が趣味だったらしく、庭のあちらに水仙が咲いているかと思えば、こちらには何かの新芽が黒い土を割って顔をのぞかせようとしていた。ペクが帰ってくる頃には、もっと沢山の花が咲いているかもしれないし、自分で何か植えてみるのも面白いかもしれない。
「何ぞええもんが見えますかいな」
振り向くと、岡本部長が立っている。「ワシは一時間ごとにニコチン補給せんと動けへんのや」と言いながら、ポケットの煙草を取り出して火をつけた。
「ちょっと庭いじりなんかも面白いかと思って」
「まあ、趣味が増えるのはええこっちゃな。仕事だけでは生活も味気ないわ」
「部長の口からそういう意見が出るとは、何か意外ですね」
「そやなあ、仕事一辺倒の時もあったし、また考え直す時期もあったし、人生色々、やな」
そう言って部長は深々と煙草を吸うと、十分な間をおいてから白い煙を吐き出した。
「そういえばあの、大野くんなあ、突然辞めた」
「あ、はい」
「どこぞの病院にしばらく入ることになったらしいわ。精神科のあるとこや」
「え、入院、ですか?」
「あの子な、実はうちの嫁さんの親戚筋にあたる子やねん。縁故、ちゅうわけでもないけど、まあ就職の時は人事に、よろしく、ぐらいは言うたんやけどな。あんな辞め方してすいませんでした、いうて、こないだうちにお母さんが訪ねてきはったんや」
もしや自分の事も何か言われるのではないかと、陽介は少し緊張しながら部長の言葉を聞いていた。
「元々、ちょっと難しい子ではあったらしいんやけど、あんまり仕事が楽しくはなかったようやな。それはワシも気づいてはおったけれど、傍から見るより具合が悪かったらしいわ」
「そうですか」と相槌をうちながら、陽介は大野さんがいなくなった後の職場の事を考えていた。
彼女と年頃の近い女子社員は、意外なほどクールに彼女の不在を受け入れ、忘れてしまったように見える。中には「あの子ってかなりトロかったですよね」と批判めいたコメントをする者までいて、陽介を少し鼻白んだ気分にさせた。
先輩である西島さんは「別に全然驚かない展開よね」と受け流していたりして、結局のところ、彼女の突然の退職は全くといっていいほど業務に影響を与えず、急速に忘れ去られていった。ただ意外なことに、彼女を目の仇にしていたはずのマダム井上は、時々思い出したように「大野さんどうしてるかな」と口にしたりするのだから、人とは判らないものだ。
「はっきりとは言わんかったけど、調子の悪い時には自殺未遂みたいな事もあったらしいわ。親にしてみれば、それは何より辛い事やで」
岡本部長はそして、もう一度だけ深々と煙草を吸うと、ポケットに入れていたアルミの携帯灰皿で揉み消した。
「まあ彼女もまだまだ若いし、何も会社勤めするだけが正しい生き方というわけでもないし、ゆっくり休んでまた出発したら、それでOK牧場や」
ほとんど自分に言い聞かせるようにそれだけ言うと、岡本部長は「さて続きをやりましょか」と唸りながら、家の中へと戻って行った。
陽介はそして、これから住むことになる二階建ての小さな家を今いちどしげしげと眺めた。古いし、隙間だらけだし、地震にも相当弱そうだ。しかしこちらの方が何だか、今までのマンションよりも、自分と、紗代子と、そしてペクにはふさわしいような気がした。
妻と犬、および陽介 双峰祥子 @nyanpokorin
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