Scene9 潮騒の誘惑

 ・・・遠くで潮が騒いでいる。


 ざわめきは、沖からゆっくりと近づいてくる。

 まるで《あちら側》の世界から運ばれてくるかのような、不思議な響きだ。

 それは、徐々に、何らかの形になっていき、やがて言葉へと体系化される。


 センパイ・・・


 先輩・・・


 静かに目を開ける。いつの間にか眠りについていたようだ。

 隣で夏美がシートに横たわっている。

 頭の中は依然混沌としていて、ビールとワインの混じった匂いだけがあてもなく漂っている。

 僕は軽く頭を振ってから、改めて夏美を見る。

 薄暗い車内において、彼女の体だけが、まるで幽霊のように、心許こころもとなげに浮かび上がっている。


「お願いがあるんです」

 夏美はゆっくりと顔をこちらに傾ける。

 僕はカップホルダーに置いてあった缶コーヒーの残りを飲む。何の飲み物か分からない危険な味がする。

「どうした?」

 彼女は静かにうつむき、小さく言う。


「抱いてもらえませんか?」


 今自分の耳に入ってきた言葉を頭の中で再生してみる。

 ダイテモラエマセンカ?

 その言語がどんなことを意味するのかを考えようとするが、混沌たる頭の中ではそう簡単なことではない。


「だめですか?」


 強めの潮風が入り込んできた後、ダイテモラエマセンカという音に、少しずつ意味が加わってゆく。

「本気の言葉?」

「本気です」

「そう言ってもらってうれしいけど、それは、さすがにやめとこう」

 夏美はうつむいたままシートに深く沈み込む。憂いを帯びた空気がゆらゆらと立ちこめる。

 僕には罪悪感のようなものが込み上げてくる。


「今日私は、先輩に抱かれようと思ってここに来ました」

「何のために?」

「きちんとするためにです」

 コンビニの袋からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、それに口を付けると、正常な空気が少しずつ頭の中に入ってくる。こいつを買っておいたのは、まさにこの瞬間のためだったのだと、今になって納得する。 


「というか、私、たった今しました。ちゃんと結婚します。ただ、結婚した後になって他の誰かに抱かれたいと思うことがないようにしたいんです。だから、今のうちに、後悔しないようにしときたいんです」


 正直なところ、僕は激しい喜びを感じている。

 だが、ここで彼女の要求に応じれば、2度と会えなくなる恐れがあることを承知しておかなければならない。もしそうなれば、僕にとっては、かなり手痛い喪失だ。

  

「私、先輩に抱かれたいと本心から思ってるわけだし、かといって、後になって先輩を追いかけ回すようなことはしませんから」

 夏美は懇願するように畳みかけてくる。

「これからの自分の人生を本気で考えた時に、私、どうしてもここで先輩に抱かれたいと思うだけなんです。そしたら、私、何の心残りもなく結婚できます」

 夏美は体を僕の方に向ける。

 薄暗い車内において、その瞳だけが僕をとらえている。偽りのない瞳だ。


 僕の身体は、なぜかガクガクと震え出す。


 すっかり美しくなった夏美を抱くことは、僕の心を満たすだけでなく彼女の心を慰めることにもなる。つまり、僕たちにとっては、ウインウインの行為なのだ。

 だが一方で、決して触れてはならぬものに触れるのではないかという、ある恐ろしさにも似た感情が湧いてきたのも事実だ。


 僕の思考は、この2つの想いに挟まれて、身動きがとれなくなってしまう。

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