Scene8 遠ざかる飛行機のテイルライト
それはかなり難しい
「中澤とは、縁がなかったんだよ」
思い切って言う。
夏美はゆっくりと僕の方を見る。
「あいつ、たしかにいい奴だけど、夏美と結婚する男じゃなかったと思う」
「なぜですか?」
「第3者的な勘だよ」
夏美は鼻でため息をつき、「先輩、やさしいですね」と漏らす。
それから再び星空に視線を放り投げる。
夏美は未だに過去を引きずって生きている。しかしそれは不毛な憧憬だ。
もちろん彼女はそのことをよく理解した上で、結婚という苦渋の現実路線を選んだ。
かたや僕はというと、30歳を目前に控えた今、現状の惰性的な生活から抜けだして高みにたどり着きたいという漠然とした願望を抱えつつ、過ぎ去った日々と何ら確実性のない未来との間を、あてもなくふらつき回っている。
不毛さのレベルでいえば、たぶん、彼女よりも上だ。
つまり僕たちは、程度の差こそあれ、似たもの同士だと言えるかもしれない。
ただ夏美に伝えてやりたいのは、中澤の結婚式に参加してみて、中澤とは結婚する運命ではなかったということだ。あいつは好みの女性と出会ってさっさと結婚してしまった。今も楽しく暮らしているだろう。
もちろん、そんなことは口には出せない。
今度は僕がため息をつく。
夏美は空を見たまま、さらに聞いてくる。
「私、ほんとうに結婚を決断していいんでしょうか? 出会って半年の人と、これから一生過ごしていく決断をしてもいいんでしょうか?」
僕は紙コップのワインをあおる。葡萄の香りが強烈に立ちこめる。
「いいと思う。さっき夏美は、その人のことを、誠実で一緒にいて安らげる人だと言ったよな。それが間違った感覚とは思えない。きっとその人は、夏美をずっと大事にしてくれるんだろう」
「ありがとうございます」
夏美は小さく声を震わせる。頬には涙が青白く光る。
それからしばらくの間、僕たちの間には潮騒と風の音だけが横たわる。
僕は、漁り火の上の方にさそり座を見つける。赤みを帯びたアンタレスがはっきりと確認できる。前にここへ来た時にも、たしかあの星を見たような記憶がある。
僕はここでギターをつまびいた。指先が痛くなるほど弦を弾き、声がかすれるほど歌った。その喉をビールで潤した。あれから8年も経ったのだ。
エルトン・ジョンの『ダニエル』を頭の中で口ずさむ。
あの頃何度も歌い込んだ曲だ。
8年前の僕はすぐそこにいるような気がする。かと思えば、きわめて遠くに過ぎ去ってしまったような気もする。
僕は、寄せては返す波打ち際の砂のように、時間の中を、頼りなく、行ったり来たりしている。
夏美はすぐ隣で泣いている。
そのうち、胸の奥が徐々にざわつきだすのを感じる。夏美を抱きしめたいと思うようになる。
大学時代には、そんな衝動に駆られることもなかった。彼女のそばにはいつも中澤がいたからだ。
それが、今になって、夏美がたまらなくいとおしい。彼女は、完全に過ぎ去った僕の日々を未来へとつなげてくれる、たった1人の存在と言って良かった。
だが、僕には夏美に触れる勇気がない。
彼女を失ってしまうのが怖いのだ。
その葛藤に歯を食いしばっているうちに、正常な時間の感覚というものを失う。
目を閉じると『ダニエル』のメロディが、恐ろしくリアルに耳元で聞こえてくる。
ダニエルは今夜スペインに向かって飛び立っていく。
僕には、飛行機のテイルライトの中に、君が手を振る光景が見えるんだ。
ダニエル、君は夜空を照らす星のきらめきだよ・・・
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