はざまとくるるぎの始まり
世界は、それを見るものにとっては一つではなく、理もまた、一つではない。数多の理、数多の常識、数多の世界で成り立つのが、この世である。
これは、そんな言葉が世間の人々に「当たり前」だと信じられていた頃の話。不思議と神秘を宿した極東の島国が、まだ、日ノ本と呼ばれていた頃の話。人里離れた山奥で、神域を護るために存在した
否、狭間がその力を失い始め、枢木がその傍らに寄り添うことになった、始まりの話。
これは、遠い遠い昔話。
不思議と神秘が科学によって解き明かされ、人々の心から徐々に、徐々に、それまで「当たり前」だった世界の多様性が忘れ去られていった頃の話。忘れられ、力を失っていく異形達と共に、それから人々を、世界を、この国を、ただ愚直に護り続けていた狭間の一族が弱体化していった頃の、お話だ。
「……無様ですわね」
静かな声が呟いた。その声はまるで月のように鋭く、雪のように冷え切っていた。だが、その点さえ目をつぶれば、それは間違いなく、美しい、まるで鈴を転がしたような少女の声音でもあった。しゅす、と彼女が身に纏う巫女装束が衣擦れの音を立てた。白と赤の巫女装束。神に仕える乙女の服装としてはこれ以上無いほどに相応しく、けれど、彼女が身に纏った瞬間にそれは、まるで歴戦の
少女の声が断じたのは、誰に対する侮蔑だったのか。視線の先には、何もない。そう、何も。だが、彼女の瞳はまるでそこに何かがあるように真っ直ぐと見据えていた。
「
「ただの小娘を姫と呼ぶのは不敬ではなくって?」
耳朶を打った低い声音に、少女はどこか楽しそうに笑って返した。ただの小娘、と己を称する彼女の姿を上から下までとっくり見下ろして、男は楽しそうに喉で笑った。何をぬかす、と男が発した声は、どこか獲物を前にした肉食獣のそれに似ていた。
巫女装束の少女の傍らに佇むにしては、男の姿はあまりにも粗野であった。着崩した着物は、くたびれた印象を与える。無精髭の残る顎を無骨な掌で撫でる仕草も、腰に下げた瓢箪から酒を飲む姿も、まぁ、あまりにも似合いすぎているのだ。それゆえに、清廉とした印象を与える少女の傍らに立つには、あまりにも、無骨だった。
だが、同時に、奇妙な調和が彼らの間にはあった。結婚適齢期に辛うじてかかっているであろうか、と思しき10代半ばの少女と、男やもめと称する方が相応しそうな四十路に近そうな男。単純に見てしまえば、可憐な少女が悪漢に襲われていると思えてしまうだろう。しかし彼らの間には、余人が立ち入ることを躊躇うような、一瞬の絆が見え隠れしていた。
「ねぇ、私でよろしかったの?」
「……あ?」
「貴方は、私で、よろしかったのかしら?」
一言一句区切るように問いかけた少女の顔は、美しい微笑みを浮かべていた。綺麗に背に流した黒髪は、まるで絹のように艶やかだった。風がふわりとその髪を揺らす様が、まるで絵師が手がけた見返り図のようだと暢気に男は思う。思うが同時に、己を見据える少女の双眸が、決して甘い小娘のそれではないことも、理解していた。
くつくつと、男は喉を鳴らす。さて、どんな答えを口にすれば、この気位の高いお姫様は満足するのだろうか。そんな思考に至った男を理解しているのだろう、少女はすいと美しく繊細な指先を伸ばして、ぱちんと慣らした。瞬間、男の意識の傍らで、何かが閉じた。無粋なことを、と呟いたのは男であったのか、少女であったのか。
「そりゃあ俺の役目だろうが、姫さん」
「この程度でしたら、私でも可能ですわ。……この程度しか、と申し上げるべきでしょうけれど」
ふふふ、とまるで花が開くように、鈴を転がすように微笑む少女の面差しは美しいのに、その内側に宿った気性を知っている男には、まるで美しく見えなかった。いや、違う。何とも不似合いだと思えただけだ。清楚な巫女装束など似合わない。柔らかな微笑みなど似合わない。目の前にいるのは、美しい少女の見目をしただけの、ただの愚直な番人でしかないのだから。
少女の名前は、
狭間の一族は、文字通り狭間に立つために、ありとあらゆるモノが見える。それが霊だろうが、妖怪だろうが、精霊だろうが、名付けることも出来ない異質の何かであろうが、その存在を認識することが出来る。それ故にそれらを発見し、一般人に危害が加わらないようにするのが役目であった。
枢木の一族は、閂を落とす役割を担っている。この場合の閂とは、異界と此方の接点の扉を封じるモノ、である。ソレがどのような形の異質であろうと、一般人に危害を加える可能性のある存在は全て、そちら側へ押し返し、扉を閉める。それを担うのが、枢木の人間の覚悟。
だが本来は、枢木が担うのは、彼らの本拠地とも言える各地の神域の守護だけであった。目を持たぬ枢木の人間は、けれど神域を拠点にするからこそ、異形の気配に気づくことが出来た。だからこそ、ただ閂を落とすだけで良かったのだ。
そうして、狭間は各地を巡り、枢木は拠点を護り、彼ら二つの一族は、古い古い血脈を保ちながら、能力を受け継ぐ次代を育てながら、この国の片隅でひっそりと息づいていた。時の支配階級に知られることもなく、ただ、ひっそりと。誰に褒められることも、頼まれることもなく、役目であると自らを奮い立たせて生き続けてきたのが、二つの一族だった。
けれど、先代の死により狭間を継いだ櫻が気づいた異変が、彼らの在り方を変貌させた。
本来、狭間の人間は、枢木の人間の上位互換のような能力を持っていた。全てを見通す目と、ありとあらゆる扉を開閉する能力。その二つを兼ね備えていたからこそ、狭間は外を巡り、枢木が拠点たる神域の護人になったのだ。
だがしかし、世界は変わる。不思議と神秘の国であったはずのこの国も、外つ国から入ってくる知識によって、ありとあらゆる事象が解明されていった。その最中で、人々は、ゆるゆると不思議と神秘を、異形を、忘れていった。そんなものは気のせいなのだと、忘れていったのだ。
外つ国の話にこうある。人に忘れられた神々は、妖精と呼ばれる非力な存在へと成り下がる、と。この国においても同じだった。祀られることの無くなった神々が弱体化し、人に認識されることの無くなった異形が弱体化する。それと同時に、それらと対峙してきた狭間の人間に異変が生じたのは、皮肉としか言いようが無かった。
今や、当代随一の才能を持つと言われ、今際の際の先代から一族としての異能を受け継いだ櫻でさえ、ほんの小さな異形を押し返すために閂を落とすことしか、出来ないでいた。これでは到底外回りなどつとまらない。世界の守護者であるはずの、この国の護人であるはずの狭間の人間がこの様かと、櫻が侮蔑するのは無力な己だった。
だからこその、枢木虎之助の存在である。
枢木の一族でも随一と言われる、閂を落とす能力を有した男。本来ならば、神域の守護者として残しておくべき男が櫻の傍らにいるのは、彼が生身でも強いからだった。未だ華奢な少女である櫻の一人旅など認められるわけがない。そのための、虎之助だった。
「私が聞きたいのは、……好いた
「好いた女、ねぇ」
櫻がそんな不躾な質問を投げかけたのには、意味がある。本来、枢木の人間は神域から出ることは無く、また、その血でごく普通に生活をしていた。能力を持つだけで、その在り方は市井の人間と何一つ変わらなかったのだ。
だが、狭間は違う。拠点となる場所で血を繋ぐ者達と異なり、外回りを任される者達には一つの異質が存在した。それは、人を逸脱すること。繋ぎ続けた力を受け継ぐことにより、当代と呼ばれる者達は時の流れから外れる。その力を次代へ渡すその時まで、彼らは力を受け継いだ瞬間の姿形のままで生きるのだ。
つまり、櫻は当代となった瞬間から年を取らなくなった。それは良い。櫻は納得した上で先代から力を引き継いだのだ。そしてまた、その可能性もあると言われながら修業を続けてきた。けれど、虎之助は違う。本来枢木の人間に、その業は存在しなかった。するわけがなかったのだ。
しかし、櫻と共に世界を巡る役割を引き受けた虎之助は、櫻と同じように秘術を受け、その身を人の流れから逸脱させた。もはやこの男は、櫻同様、次代に力を受け渡すその時まで、年を重ねることは無くなったのだ。それはすなわち、人の営みの中で生きて、朽ちていく運命であった枢木の人間を、狭間の業に引きずり込んだことに他ならなかった。
僅かばかりの罪悪感を櫻が抱いてしまうのは、それゆえだった。己の無力さゆえに、虎之助を引きずり込んだ。それがわからぬほど、櫻は幼い小娘では無かった。たとえ、未だ年端もいかぬと男に小馬鹿にされる小娘であったとしても、その気性はただの小娘では無かったのだ。
「生憎この年で、そんな初心なことを考える性分でもねぇなぁ」
「虎之助」
「なぁ、姫さん。そりゃ、むしろ俺の疑問だ。アンタは、役目を継いで、良かったのかい?」
男の問いかけに、少女はぱちくりと瞬きを繰り返した。そんな反応をすると、まだ幼い少女だと解る。なぁ、と重ねて問いかけられて、少女は唇を笑みの形に変えた。いや、それは笑みに見える、別の表情だったのかも知れない。
「私の好いた方は、もういらっしゃいませんもの。お役目を継ぐのが、その方への供養ですわ」
慈愛と、懺悔と、幾ばくかの悔恨と。ない交ぜになった不思議な表情で微笑む櫻に、虎之助は息を飲み、そして、やはりなぁと呆れたように呟いた。そうして、きょとんとしている少女の頭を、優しく、撫でた。大きく無骨な掌は、まるでそれが当然だと言いたげに少女の小さな頭を撫で回し、櫻が文句を言うより僅かに早く、離れた。
何ですの、と不愉快そうに唇を尖らせる櫻に、虎之助はにぃと唇だけで笑った。そうやって、櫻が剥き出しの少女らしさを見せることが、虎之助には良いことに思えた。少なくとも、これから随分と永い時間を共に生きていくのだから、本音ぐらいさらけ出してもらいたいものだ、と。……己があまり本心を明かしていないことについては、棚上げをしているが。
不意に、祭り囃子が聞こえた。あぁ、そういえば夏祭りだったか。そんなことを呟いた虎之助に、櫻は彼へと視線を向けた。
「夏祭り、ですか?」
「この辺りのな。店も出る。……行くか?」
「私達に、そのような
「長い人生、楽しまないでどうすんだ」
そう告げて、虎之助は櫻の手を引いた。細い、細い、力を込めれば折れてしまいそうに細い指先。巫女装束に包まれた肉体は未だ成熟しきらず、ほっそりとしていて、いとけない。あぁ、世界は理不尽だと、そんなことを虎之助は思う。哀れな、とも。こんな幼くか細い少女が、国の守護者になろうと身を削る運命など、残酷以外の何でもなかろう、と。
――虎之助、櫻を、あの娘を頼みます。
己に秘術を施した、狭間の先代の姿を、その言葉を、虎之助は思い出す。顔合わせをした時に、それほど年を重ねていないはずだった相手の、今にも朽ち果てそうな姿に驚いたことを覚えている。かさかさに乾いた皮膚に、やせ衰えた肉体。実年齢は八十路そこそこだったはずで、その外見は20代の青年のものであるはずだった。その相手の、あまりにも朽ちた姿に、驚いた虎之助だった。
狭間の先代は、弱った力を己の生命を削ることで補填して、役目を果たし続けてきた。けれどそんなことをすれば、破綻は常より早く訪れる。本来ならばもう少し、せめてもう十年、次代と黙されていた櫻が大人になりきるまで、彼の人が役目を担う筈であった。
だが、彼が身を挺してその事実を示したからこそ、櫻の傍らに虎之助が添うことになったのも事実だった。或いは彼の人は、己の次を担う少女が、己と同じ過ちを犯さぬように、ひたすらに身を削り、朽ちる前にその事実を周囲に納得させたのではないだろうか。全ては虎之助の憶測であり、事実がどうであるのかは誰にも解らない。
頼むと、ただそれだけを告げた相手に、虎之助は面倒くさそうに一言、「気が向いたらな」と応えた。あまりにも不敬なその言葉に、周囲の世話役達が顔色を変えたが、彼の人は楽しそうに微笑んで、「お願いします」と告げたのだ。
……だから、虎之助は櫻の傍らにいる。興味が湧いたのだ。あのように身を削りながらも彼が護ろうとした少女が、どんな娘なのか。そうして顔を合わせた櫻は、幼さ残る美しい見目に不似合いな、戦士の瞳をした娘だった。それが気に入ったからこそ、虎之助はこうして、櫻の傍らにいる。
「虎之助」
「何だ、姫さん」
「……私、夏祭りなど、知らないのですけれど」
「そりゃ勿体ないな。姫さん、世界は楽しいことが多いぜ」
「そういう話ではなくて」
「美味いもん食って、楽しいことを知って、……そうすりゃ、護ることにも意欲が出るだろうよ」
生真面目な少女の気性を知ってか、知らずか。男が零した言葉は、彼女の琴線に触れたようだった。それならば、と櫻は素直に虎之助の後を付いてくる。不釣り合いにしか見えない二人。けれど、男に手を引かれて歩く少女は、僅かばかり楽しそうに微笑んでいた。己が微笑みを浮かべていることにすら、気づいていないだろう。
すれ違う人々が、彼らは何かと視線を向ける。だが、男は気にした風もなく少女の手を引き、少女もまた、そんな有象無象の視線に意識を向けなかった。それよりも、聞こえてくる祭り囃子や、人々が賑やかに売り買いする祭の風景に、誘われているようだった。
「なぁ、姫さん」
「何か?」
「……いや、何でもねぇ」
「おかしな人ですね」
小さく笑う少女に、男はため息をついた。口にしようとした言葉が、誤解を招きそうだと思ったから、虎之助は口をつぐんだのだ。けれど櫻はそんなことを知らないから、普通の少女のように笑っていた。それならそれで、良いと思えた。
――朽ちるまで、役目が終わるその時まで、アンタは俺が護ってやる。
そんな言葉は、己には不似合いだと思った。けれど、気が向いたのだから仕方が無い。己が身を贄のように使い潰して世界に尽くす狭間の一族を知っている。ならば、その傍らに佇むことが許されるなら、それに緩やかな歯止めをかけるのが自分たち枢木の一族の役目では無いのかと思ったのだ。
少なくとも、今、この国は揺れ動いている。外つ国から知識が入ってきた。外つ国の圧力に屈しようとしている。そんな時代であっても、彼らが成すべきことは何一つ変わらなかった。時の権力者達でも対処の出来ない異形を排除する。それは、何一つ、変わらないのだ。
そして、彼らから、狭間に寄り添う枢木の形は、始まるのであった。
FIN
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