15 鉄格子の向こうの空

 時間の感覚がなくなった。


 目を覚ますと、まどろんでいたのか、あるいは眠っているあいだに1日過ぎたのかを考えた。が、しだいにどうでもよくなった。太陽の動きは意味をもたなかった。窓は、朝になれば白く浮かびあがり、夜になればまた黒く溶けていく。


 グリエルモ・パントゥルノを父と呼んだあの男は、殺したのはおまえか、と質問したものの、ラウロを拷問にかけたりはしなかった。そもそも父親の死にあまり関心がないようだった。


 3人の男たちは出て行った。

 扉が閉ざされ、再び閂がかけられた。


 ひょっとすると、織物商を殺した犯人は見つかったのだろうか。誰だかわからないが、捕らえられ、もう絞首台から吊されているのかもしれない。キアラでなければいいのだが。


 なんどか眠ったあと、自分がここにいるのを誰も知らない、という事実に思い至った。


 パントゥルノの家に忍び込むことは誰にも告げていない。知っているのはルイジだけだ。それ以外の顔見知りの人間は、ラウロがとっくに別の土地へ逃げたと思っているだろう。


 鐘が鳴る。かもめの声が聞きたい。


 牢の番人は、皺だらけの手の持ち主ということしかわからなかった。ひと言もしゃべらない。男か女かも推測できなかった。ときおりやってきては、小窓から木の椀を回収し、腐ったワインの臭いがする液体を満たしてまた差し入れる。


 黒い酒は苦痛をもたらすものでしかなかった。ついに口をつけただけで激しい吐き気に見舞われるようになり、飲むのをやめた。手を伸ばそうにも、そこまで這っていく力がない。囚人が飲まないとわかったのか、皺だらけの手の牢番も今では与えようとしない。


 体が軽く感じられる。なにも食べていないからだが、不思議なことに、空腹感がない。体がなんの要求もしなかった。ここからもう出られないとわかっているのに、目だけ開いていれば生きられるという思いがある。


 なんどか鉄格子の外に出る夢を見た。今いる牢獄も、その建物もはるか下方に見え、自分は浮いている。死ねば地獄に落ちるはずなので、空を飛んでいるということは、まだ生きているのだろう。


 目覚めると、最初の場所に横たわったままで、鉄格子の向こうの空は永遠の彼方に遠ざかっている。


 牢獄で、足枷をはめたまま死んでいた男のことを思った。自分には足枷ははめられていないが、死ねば同じになる。


 これまで、ラウロは自分の境遇を受け入れようとしなかった。孤児院、ごみだらけの街路、汚い造船所、過酷な労働、飛んでくる拳、すべて拒否した。うちひとつでも甘んじていれば、今ごろは物乞いをするか、どこかで野垂れ死んでいただろう。


 今は受け入れるしかない。もうすぐ鉄格子からネズミが入ってきて、自分の肉を食らう。それも受け入れるしかない。狂おしい感情が胃のあたりに湧きあがり、喉が熱くなった。体を縮こまらせたが、うめき声が少しもれただけで、涙は出てこなかった。


 バルセロナでなぜ投獄されていたのかを思い出した。


 羊だ。


 羊を盗んだのだ。領主の農場から、子羊を1頭抱えて逃げた。追っ手を避けて草むらに屈み込んできたとき、鼻面を押しつけてきたじゃないか。あどけない顔をして、毛は柔らかくていいにおいだった。



 *



 足もとに、ひとりの老人が立っている。


 白くて長い髭を生やし、頭も白髪に覆われている。顔は浅黒い。


 声は聞こえないが、立て、と言われたように感じた。


 驚いたことに、立ちあがることができた。体に力が入らないはずだったのに。

 老人は前を歩いていく。なんとなく、ついていかなければならないような気がした。歩くのは久しぶりのはずだが、手足のどこにも痛みはなく、足取りは軽い。


 老人は待っていた。手で上を指し示している。


 目の前に、上に向かう階段がある。

 ラウロは歩いてのぼった。

 のぼるにつれて光が増していった。

 まわりのすべてが光り輝き、真っ白な海のようだ。


 強い光にひるんだ。が、後ろから押され続け、進むしかなかった。

 のぼりきると、上から太陽が降り注いだ。


 しばらくは眩しくて目も開けられなかった。その場から動けなかった。

 しだいに、自分が街路に立っていること、周囲に建物があることがわかり、目の前にいる人の輪郭が明らかになってきた。


 逆光で顔は見えなかったが、声には聞き覚えがあった。


「たいして痛い目にあわされてないじゃないか」


 そこにいるのはレモだった。

 歩み寄ると、汚れた洗濯物を見るような顔で、彼はラウロを頭からつま先まで眺めた。


 ラウロは片手で太陽をさえぎりながら、まだ牢獄にいるにちがいないと考えていた。床に突っ伏して夢を見ているのだ。しかし、階段をのぼった覚えがあり、靴の裏には土の感触がある。太陽が上から容赦なく照りつけ、額が焼けそうだった。


 笑顔を浮かべている太った男は、まちがいなくあの薬種商だ。


 ラウロも笑おうとしたが、膝から力が抜けた。地面に両手をつき、危うく体を支えたところで肩に手をまわされ、ようやく起きあがった。


「なぜ?」


 声は、かすれてほとんど出なかった。が、言おうとしたことは伝わったようだ。


「詳しいことはあとで話す。今は早くここから離れるんだ」


 白髪の老人が、なにごともなかったように階段を降りていく。皺だらけの手に見覚えがあった。


 安堵に満たされると同時に、痛みと疲労がどっと襲いかかってきた。薬種商の肩がなければ立ち続けることができず、1歩踏み出すたびに頭がくらくらした。


「悪党のくせに、なんというざまだ。しっかり歩け」

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