6 顔立ちの似た女を目にするたび

「薬売りが泊まっているという宿はここか?」

「そうだ」


 と答えて、ラウロは自分を呼び止めた男を観察した。50才はとうに越えているだろうが、浅黒い顔とがっしりした体つきを見れば、この男が海で鍛えられた商人であるのがわかる。上質そうな黒い羅紗の外衣に絹の帯・・・・・・この男が酒や反吐のこびりついた宿の椅子に腰を降ろすことは絶対にあるまい。


「キアラ、ここで待ちなさい」


 若い女奴隷に、男は馬の手綱を引き渡した。

 女は質素な麻の服に身を包み、耳飾りをつけている。貴族の女がこぞってつける宝石ではなく、小さな貝殻でできているようだ。むき出しのうなじに、後れ毛が汗でへばりついている。午後から暑さが増していた。馬の脇腹も汗で照り輝いている。


 身なりのよい男は宿に入った。驚いたことに、宿の主人と会話中の人物が薬種商と知るや、男はためらいも見せずに椅子にどっかと座り、会話に加わった。


「わたしもこの歳になったし、胃を悪くしましてね。商売は息子たちに任せて島へ帰ってきたんです」


 笑うと厳めしい顔に皺が多く刻まれる。男は織物商人で、グリエルモ・パントゥルノと名乗った。


 レモは、パレルモへ移り住んで商売の手を広げるつもりだと当初は話していた。しかし、最近になって考えを変えたかのように、まだ宿に居座っている。船はそのあいだにいくつも出航したのだが。レモ自身、迷っているようなふしがあるとラウロは思う。


「胃なら、この丸薬はいかがです」


 レモは荷物からいろいろ取り出した。織物商はテーブルに銅貨を置いた。その手つきは鷹揚で自身に満ちていた。

 金を数えるためにあるような手だ。日頃から金にさわり、思うままに動かしている男の手だ。数字で埋まった帳簿とにらめっこし、一方で袋から本物の金貨を取り出して眺めることも愛しているにちがいない。そして貧乏人に貸し付け、高利をむさぼるのだ。

 ラウロは数多くの富裕な商人や職人親方のもとで働いた。ある程度の財力をもち、人を雇う立場にいる者は、抑圧し搾取することに慣れている。灼熱の街路に女奴隷を置き去りにしたまま、織物商人は主人に酒を持ってこさせ、腰をあげる気配がない。


 日よけの向こうにいるキアラの姿が目に映った。いつ戻るかわからない主人を待つのに慣れているのだろう。視線があった。ラウロは急いで目をそらした。


 今から10年以上も前、ラウロはバルセロナの造船所で働いていた。真夏の昼下がり、ほかの職人は昼寝にいそしみ、作業所には誰もいなかった。建造中の船のあいだを通って、小屋のひとつに近づいた。硬貨が入った壺がテーブルに置いてあるのを窓からのぞいて知っていたのだ。

 硬貨をわしづかみにして取り、誰にも見られないうちに小屋から出た。宿舎の横にさしかかり、ふと立ち止まった。漆喰の隙間からもれる声を聞いたからだった。


 造船所の親方は、殴ることしか知らない男だった。かっとなって殴る親方は大勢いたが、厄介なのは彼がいつ怒り、いつ喜ぶのか誰にもわからないことだ。そのため誰からも恐れられていた。そして、そのそばにいつも付き従う、若い女がひとりいた。東方の商人から買った女奴隷で、親方は彼女に身のまわりの世話をさせていたのだ。その世話が寝台にまで及ぶのは当然なので、ラウロは女をちらちら盗み見ては想像を膨らませていた。


 くすねた銅貨をいっぱい持っていることも忘れ、漆喰の穴からのぞきこんだ。


 壁際にベッドがあり、床に裸の女がしゃがんでいた。足もとに桶が置かれ、そこから水をすくって体を洗っている。乳房の丸い輪郭にそって水滴が伝い降りていた。脱いだ小さな靴がそばに置いてある。ベッドには、やはり全裸の親方が寝そべっていた。女は立ちあがってベッドに近づき、両手をついて男に覆い被さった。日焼けした太い腕が、白い腰にまわされた。

 突然、女が床に転がり落ちた。親方がベッドから降り、片手で女の肩をつかんで、顔を殴った。女は床に倒れた。ラウロは仰天した。男は女を転がしてまた殴り、足で蹴ると、満足したのか、隣の部屋へ姿を消した。

 ラウロは一目散にその場から逃げた。


 殴られるのははじめてではなかったにちがいない。ひどく痛めつけられながら、彼女はじっと我慢しているように見えた。逃げれば、連れ戻されるに決まっている。悲鳴らしい声もあげず、ただうずくまって耐えていた。顔立ちの似た女を目にするたび、彼はいつもそのことを思い出す。


 織物商は胃薬と、奥方のための咳止め薬も買って立ち去るところだった。透明な水薬で、黒ずんだ小瓶に入っている。

 宿の主人がレモにたずねた。


「なあ、その足、どうかしたのかい」


 引きずっている片足のことだった。

 膝を撫でながら、レモは話しはじめた。


「ああ、これはな・・・・・・」 

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