5 あの船には盗人が乗っていたらしい
「おい、なんの音だ?」
男たちは往来へ飛び出していった。ラウロは立ちあがろうとして、よろけた。
「まだ歩きまわらないほうがいいぞ」
聞き覚えのある声だ。
顔をあげた。中年の男が椅子に腰掛け、ラウロを見ていた。
「おまえさんを殺そうとしたやつは、薬の分量をまちがえたな。今ごろは死んでいてもおかしくないんだが。まあ、あのまま道に倒れていたら、どちらにしてもおしまいだっただろうがね」
杖で体を支えながら、男は立ちあがった。どうやら左足が悪いらしい。ラウロの前までやってきた。
「わたしはレモだ。パレルモはどうだった? わたしもあそこへ行こうと思っていてね」
ラウロはぎくっとした。杖にすがって歩きながら、レモはにこにこ笑っている。この男はなにもかも知っているのかもしれない――大司教の墓を暴いたことも。
「パレルモにいたと、なぜ知ってるんだ」
「おまえさんの格好を見ればわかるさ。おれもそういう洒落た靴がほしくなってきた」
ほどなく港が見えてきた。小型の帆船が2隻とガレー船が1隻、互いに一定の距離を保って停泊している。ラウロの目はガレー船に吸い寄せられた。大きな船だ。甲板の中央に帆柱がそびえている。しかし、帆をとりつけるための帆桁がない。長くしなやかできわめて重い木材は、帆柱から落ちて甲板にめりこんでいた。先端ははるか遠くの波間に沈んでいる。先ほどの音は、帆桁が甲板に叩きつけられた音だろう。
「朝に入港したばかりの船だ。帆桁を吊り下げる綱が切れたんだ」
船は沈もうとしていた。船体のどこかから発せられる不気味な軋みは、死に際にあがるうめき声のようだ。海水でびしょ濡れになった甲板に午後の強い光がぎらつく。
「チュニジアで荷揚げする予定の荷がまだ残っていたのに」
運び出せたものはわずかだった。乗組員ひとりを含む、ふたりの人間が死んだとのことだった。
ことの次第はこうだ。船の甲板からは帆柱の上に届く縄ばしごがかけられている。船員はこの縄ばしごを登る。ところが、未熟なひとりの船員が、登っている最中に足を踏み外して落ちた。
船員は右足を開放骨折し、その場で膝上を切断することになった。町の外科医が彼の上に屈み込んでいたそのときに、帆桁が彼らを直撃したらしい。
衝撃は大きく、誰もが最初にいた場所からはじき飛ばされていた。気づいたとき、足を怪我した船員は海に沈んでいくところだった。外科医は甲板で縄と木片のあいだに倒れていた。
港の役人が駆けつけてきた。ふたつの遺体が帆布にくるまれて運び出された。
「どちらも首の骨が折れている」
と誰かが言った。
宿では、声を落とした会話が交わされた。
港町らしく、壁際に積まれたがらくたを覆っているのは、白い帆布である。誰もがそれに目をやり、なにかを思い出して顔をそむけた。
航海に死はつきものだ。風向きによって、危険な海域に流されるのも珍しいことではない。海賊の恐れは常につきまとう。長い航海ともなれば、決死の覚悟になる。
そのような恐怖が日常である船乗りにとって、港は避難所だった。きわめて危険な航海を生き延びて辿りつく安息の地であったのだ。嵐とも海賊とも無縁でいられる。次の出航まで、しばらくのあいだは死を意識しないですむ。その港で、ふたりの人間が突然死んだのだ。
命を落とした船員も、外科医もまだ若かった。船員ばかりか、航海に出ることのない人間も衝撃を受けていた。
中央のテーブルにいる男が、話題を変えようとしてか、抑えた声で話しはじめた。
「パレルモの大聖堂が盗掘にあったらしい」
ラウロは常連客と並んで話を聞いていた。
「前の日に、正装で埋葬された大司教が、裸同然で見つかった。あろうことか、同じ棺に司祭が箒といっしょに押し込められていた。若い下男が納骨堂に入ったところ、棺のふたの隙間から祭服がはみ出してたんで、人を呼んで開けさせた。すると大司教の亡骸に覆い被さってる司祭が出てきたってわけだ」
「それで?」
「死んでいた。だが、しばらく息があった証拠に、棺の内側から爪で掻きむしったような痕が残っているそうだ」
一同はしばらく押し黙った。ラウロは胃が締めつけられ、次いで吐きそうになった。あの司祭はまだ生きていたのか。彼を、ルイジとその相棒は棺に放り込んだのだ。
「あの船には盗人が乗っていたらしい」
と、金髪の若い男が言った。名をオルランドといい、客のあいだでも事情通で通っている男だ。
「ほう?」
「パレルモで乗船したふたり組だそうだ。この港で降りたというぞ」
「大司教の墓を暴いた盗人か?」
「いや、そうとは限らんだろう」
「待て待て。まだ続きがあるんだ。そいつらが持っていた麻袋から、金の鎖や留め金が落ちたそうだ。ある船乗りによれば、その装身具は大司教が生前に身につけていたものとまったく同じなんだ」
オルランドの話を聞いていた数人が、すぐに胸の前で十字を切った。
彼らが船の事故と墓荒らしを結びつけて考えているのが、ラウロにはわかった。偶然起きた不幸な出来事を、ごく身近な人や嫌われ者のせいにする。邪な悪人が同じ船に乗り合わせたせいで、神の怒りにより、あんな事故が起きたのだと。
ラウロが子供の頃、町で疫病がはやった。人々はその恐ろしい災害を、隣人のせいにしていた。あの男が井戸に毒を投げ入れたからだ、とひとりが言えば、見てもいないのに全員がそれを信じてしまう。
ラウロは頻繁に戸口を見ていた。この瞬間にも、ルイジが入ってくるかもしれない。まわりが見知らぬ者ばかりで、話しかけてくる人のいないことがありがたかった。
もしやつが入ってきたらどうしようか。ひと財産奪われ、命まで失いかけた。飛びかかって喉を切り裂いてやろうか。幼い頃から盗みを繰り返し、奪いあってきた。しかし復讐めいた考えにとらわれたことはこれまでいちどもなかった。
あんなやつのことは忘れてしまえ。裏切るつもりの相手に裏切られただけじゃないか。
だったらこうして入り口を見張っているのはなんのためなのか。
夜遅くなるまで彼は食堂に残ったが、ルイジが姿を現すことはなかった。
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