第4話

幕間


 ここは薄暗い病室。浦安市の海の前に立つ総合病院の一室に、灯りのついていない部屋が一つある。ベージュのカーテンは開かれて、潮風で靡く。外から入る陽光のおかげで、電灯の力を借りなくても視界は確保できていた。

 部屋にはベッドと、大仰そうな生命維持装置がある。丁度、部屋の中央あたりだろう。そのベッドの傍らには、慢性的に疲れた表情の女性が佇んでいる。ここ十年近く笑っていないような顔で、彼女はベッドで眠る男に優しい視線を送り続けている。

 女性は男の母親で、男は医師にもうしばらく起きることはないでしょう、と言われてから何度もの春を越えて来た。

 彼はずっと続く夢の途中に今もこれからもいるのである。その夢はいつも荒唐無稽で、彼が眠りについた十六歳の頃までの記憶をコラージュして作られている。

 女性はそんなことなどはわからない。自分のためにとリンゴの皮を剥いて、何か楽しい夢でも見ていてくれてたらいいのに、と願うだけだった。

 今でも本当のことを知りたいと思うことがある。どうしてこんなことになったのか、その原因を知りたいと。流れの全くない青いプールに浮かぶ黄色い浮き輪のために、時たま足で水面を蹴り波を作ってやりたくなるのだ。

 だがそれだって、男が眠りについてしまった直後に比べたら大部減った。今はもうほとんどこの穏やかな時間があるだけでも幸せではないのか、と思うことが大半だった。

 諦めに似た境地だった。

 最初にもうこれからずっと自分の息子が植物人間だと伝えられたとき、全てが絶望に変わった。奈落の底があるなら、それは間違いなくその瞬間で、それから彼女はその奈落から、時折降り注ぐ天の光を眺めるだけの生活だった。

 それまで毎日、当たり前のように浴びていた何のありがたみも感じなかった光に、全てを感じるようになった。希望、羨望、願い、嫉妬、多くをその光に望むが、長い月日が経った今、何一つそれらが叶うことはなかった。

 湾岸道路を通る車のクラクションが部屋に届く。

 リンゴは皮を剥かれて、男のために一旦皿に盛り付けられる。いつもつまようじを二本用意するが、男は何の反応もないのだ。だから使われるのは一本だけで、もう一本は気が向いたときに捨てられてしまう。

 もしかしたら結婚もして孫をいたかもしれない。もう男はそんな歳だった。どんな人生を彼は送っていたのだろうか。

 女性は男が彼女に黙って夢の世界で遊んでいるように、彼女も現実世界でしばしば夢を見る達人にいつかなっていた。

 リンゴを齧り、その変わらない味に何の感情も抱くことはない。食べ終えると、男の手を握り、ありもしないもう一つの人生を想像するこの時間が好きだった。

 夫には一度も話したことのないことだった。もう夫とはあまりベッドで眠る男のことを話すことはなかった。必要以上にそれについて話すのはお互いの傷口を人差し指でえぐるような行為になっていた。

 手を握って、穏やかな寝顔を見ているとまたいつか何かの拍子に、朝日と共に目覚めてくれるんじゃないかと思うこともある。

 口についた呼吸器を外してくれと言い、今何時? と女に訊くのだ。手を握っていると男の爪が伸びていることに気づく。

 サイドテーブルの上に置いてある爪切りを手に取ると、女は男の指を開いて一つずつその爪を切っていく。

 パチン、パチン、パチン。

 パチン、パチン、パチン。

 十年近く部屋の外から出てもいなければ、何も持っていない指の爪は美しい。薄暗い部屋の僅かな光でも、それを反射させて艶やかに輝く。

 対して自分の爪と言えば、と女は思う。もう長い間手入れなどしていない。ちゃんと伸びた部分は切っているが、本当にそれだけだった。男の爪と違い、苦労の年輪が刻まれて、潤いを失って亀の甲羅のようになっている。

「検診の時間ですよ」

 扉が開かれると、白衣の女性がカートを置いて入ってくる。

「よろしくお願いします」

 女は椅子から立ち上がり、小さく頭を下げる。

「今日も良い陽気ですね」

 看護師の女は言いながら、ベッドで眠る男の袖を捲る。

「そうですね」

「今年の夏は猛暑らしいですよ」

「嫌ですね」

「地球温暖化してますからね」

 男の脇に体温計を計る。温度が測られるまで少しの間、雑談が続く。毎日のことだった。

「そういえば、あの男の人とはどうなったの?」

 女から話を切り出す。それがこのところの二人の目下の話題だった。

「また食事に行くことになりました」

「いつ?」

「今週の土曜日です」

 カレンダーを見る。四日後だった。

「どんな感じだった?」

「なんか理系みたいで」

「というと?」

「薬品メーカーの研究職ってお伝えしましたよね? だからずっとなんかあれとあれをこうするとああなるとかそういう話ばかりで」

「なんか可愛いじゃない」

「そうですか?」

「もの足りない?」と、女尋ねるとやや間があって、「ええ。まあ」と看護師の女は答えた。

 丁度良く、検温が終わったことを知らせる電子音が鳴った。だがそれだって男は自分で脇に差してある温度計を取ることはない。看護師が近づき、それを抜くのだ。そして昨日と大して何も変わっていないことを確認するだけだった。また昨日と同じ今日がやって来ただけなのだ。

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夢の島 月読了栄 @thingtooks

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