第3話

 翌朝、真智子は月曜日を迎える。同じように誰もが迎える月曜日で、先週もあった同じような朝だった。夏休みに入ろうかという七月の朝。毎日天気予報では、今年の最高気温が更新されている。

 朝ご飯を用意するのは高校に入ってから当番制に変わっていた。それまでは、圭佑と明憲のどちらか手の空いているほうが三人分のそれを作るようになっていたが、「花嫁修行の一つと思って。台所に入るのは冷蔵庫から飲み物を取るときだけでした、なんて嫁ぎ先で言われたらパパたちの立つ瀬がないよ」という圭佑の言葉で、真智子にも料理人としての役目が回ってくることになった。四月から始まって既に三ヶ月。少しずつだが要領もよくなってきて、朝ご飯はそれほどバリエーションの広がりがないことにも気づき、シンプルでおいしいものを作るのが一番だと気づき始めてもいる。

 そしてその朝、キッチンに立ったのは順番によって真智子だった。やったことと言えばウィンナーを炒めて、目玉焼きを作り、トーストを焼く、この三つだったが、それでも二人の父親は娘の成長をこの役目が来るたびに喜び毎回のようにデジカメに収めていた。

 もちろん当の娘の真智子はそんな二人を冷ややかな視線で見ているだけだった。さすがに作った料理を手に持って写真に収まることを要求されたときは、朝の不機嫌さも手伝って怒ったりもしたことがあったが。

「それじゃ行って来るね」

 そして先に出るのはいつも真智子だった。二人の父はそれを見送ってからいつも仕事へ向かう。必ず二人は廊下まで送って来る。観葉植物が一つと、間接照明の温かい光に照らされる通路でお揃いのスリッパを履いた圭佑と明憲はいつも並んで立ち、「いってらっしゃい」と小さく左右に手を振る。

 うん、と小さく頷き彼女は外に出る。マンションの六階の通路は、当たり前だが地上よりも空が近い。暑さがすぐに彼女の身体を包み込む。彼女はエレベーターで一緒になった三階に住む河合家のお父さん、河合隆三に挨拶をして、駐輪場まで降りる。河合さんは他の人と違い、父二人が男でありながら男を愛していても、特に邪険にすることなく近所付き合いをしてくれる人だった。

「今日も暑いね」と、隆三は言う。エレベーター内で二人で並んでの出来事だった。きちっとしたスーツで、眼鏡を掛けている。髪が少ないのが唯一の弱点だが、それでも散らかった印象はない。

「そうですね」

「昨日うちのガスコンロが故障しちゃってさ。もう散々だったよ。妻もなんかちょっとだけイラってしちゃって」

「ガスコンロ? 大変ですね」

「川本さんちはどう? うちはもう全然使えないんだよね。お隣さんもそうみたいだし。だぶん元栓からどっかおかしいんじゃないのかな」

「いえ。うちは別に」

「そっか。じゃうちの階だけなのかな。管理人にちょっと伝えておこう」

「ご飯とかどうしてるんですか?」

「まだ一晩だけだし、コンビニで買って来たよ。けどこれが三日も四日も続くのは嫌だよね。娘にもあんまりああ言うの食べさせたくないしさ」

 隆三には三才になる娘がいた。休日などは公園に遊びに行く一家の姿をよく見かけるほどに子煩悩で、こうして娘の話を毎朝のようにしてくる。今日はあれをした、昨日初めてこんなことを言ったんだ、などなど。その話題は絶えることはないようだった。

「ですよねー」

 そうして世話話をしているうちに二人は一階に着く。隆三は「それじゃ。僕は管理人とちょっと話すから」と言って、エントランスに向かって歩いていく。真智子はというと、自転車を取りにそれとは正反対の方向の駐輪場に向かう。

 それから彼女はここから十分ほどのところにある駅に向かい、電車で高校のある三つ向こうの街に向かう。そこは完全な埋立地で、夢の島もほど近い。

 私立の学校で偏差値は高く、所謂進学校の一つだった。埋立地らしく海が近い校舎は、いつも潮の香りのする浜風に晒されている。

 満員電車に揺られて駅を出ると、妙に小奇麗な新しい街独特の不思議な清潔感が漂う。駅から学校は近く、歩いてでも充分な距離だった。

「おはよう」

 いつもの道を歩いていると同じクラスメイトの桜木カナが真智子に声を掛ける。

「あ、おはよう」

「今日も暑いねー」

 この言葉はもう合言葉になりつつあった。そうだね、と真智子は頷く。彼女とは昨日も殺されたクラスメイトの葬儀で会っていた。

「どうするー。この暑さー」

「どうするって」

「いや、もう早く冬が来ればいいのにー」

「けどそしたら夏が欲しいんでしょ?」

「欲しいだなんて、はしたないね。真智子は」

「何よそれ」

 二人はいつものように冗談を言い合いながら、校舎に向かう。それからまた一人、二人と登校途中の友人達を拾っていき、小さな集団と言えるまで育っていく。玄関で靴を上履きに履き替えて、それから階段を上がり人が疎らな教室に入ると、もうそこは毎日の大半を過ごしている海の見える教室だった。

 私立高校だが冷房設備のない教室なので、窓は既に開かれて、遠く太平洋からはるばるやって来た風が彼女たちの身体から僅かに滲んでいる汗を拭く。

 登校途中に買った紙パックのジュースを机の上に出して、授業が開始されるのを真智子は友人たちと待つ。クラスメイトの死は誰もが知っているはずなのだが、それを誰も口にしようとしなかった。それはこの健やかな雰囲気の裏に隠れるタブーと化している。

「ねえ、見て」

 その途中でカナは突然自分の小指を立てて、皆に見せびらかす。

「え? それどうしたの?」

 三人でカナの机を囲んでいた。真智子の他の一人は、荻原芳江と言った。一年留年して二度目の、高校一年生を楽しんでいる同級生だった。髪の毛は非常に明るく染められていて、言動も少し乱暴なことが多い女だった。

 カナは嬉しそうに自分の小指に結んである赤い毛糸を揺らす。さっき登校途中に出会ったときはそんなもの小指にはついていなかったのだが、今ではしっかりと結んであり、その先は窓から外に出て行きどこかへ繋がっているようだった。

「え? なにそれ?」と困惑するのは真智子だった。正直、それが馬鹿げた冗談にしか思えなかった。そして彼女は隣にいる芳江の顔を見る。同じように困惑し説明を求めると思ってのことだった。だが意に反して、芳江は「何って何よ」と彼女を肘で小突いて、「意味わかってるくせに」という。

「恋してるの。愛し合ってるの。あたし。この赤い糸の向こうにいる人と」

「そ、そうなんだ」と、真智子は話を合わせて、窓の向こうへ続いているその赤い糸を見る。潮風でしなり、宙を波打っている。

 それからは芳江が年上としての強さを遺憾なく発揮して、カナに根堀り葉堀り赤い糸の向こうにいる人のことを聞き出していく。カナは時に声を潜め、時に「嫌だぁ」と声を張り上げながらも、蛇行運転を繰り返して結局は全ての質問に答えていく。それはつまるところ初めて男を知った女の惚気話に過ぎないのだが、こういう話は何度聞いても良い物だな、と真智子は思うし、聞いているうちに不思議と彼女はその赤い糸がカナの小指にあることも至極普通のことに思えてきて最終的には全く気にならなくなってしまう。

 それから話が一段落する頃に、始業を告げるチャイムがなる。周りを見ると、周りの生徒もそれを合図に辺りを見回して、話を中断し自席へと音を立てて戻っていった。

 日差しはまだ水平線に近く、それほど高くはないが、真夏の香りがこれから昼に向けてやってくる灼熱地獄を感じさせた。

 チャイムから三分ほど経過すると教室に一人の女性が入ってくる。白いブラウスを来ていて、その透けた生地から下着が黒いことがわかった。唇は一転して心を奮い立たせるような紅いルージュで染まり、頬は扱けているが、豊満な身体のおかげでその影が良いコントラストになって、ミステリアスな雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。

「初めまして」

 その女は生徒に向かって言うと、すぐに身体を黒板に向けて自分の名前をチョークで書いた。島袋瞳。何故か黄色いチョークで書かれたそれは少し見づらかったが確かにそう書いてある。

「突然ですが、今まで数学の担当をされていた田所先生が、交通事故で入院されたため今日からあたしがこのクラスの数学を担当することになりました。名前は――」

 ここで彼女は先ほど書いた自分の名前を指差しながら、「島袋よ。よろしく」と言った。

 彼女の喋り方は舌で飴玉を舐めているような遅さだがまたそれが程良くじれったい。先を急がせたいが、そうしたら彼女の声をもう聞けなくなってしまう。そう思わせる感じだった。

「何か質問あるかしら?」

 そして上空から地上の獲物を眺める鳥のように彼女は生徒を見渡す。真智子は、そのセクシーな魅力に少しの嫉妬を抱く。憧れもあったが、どうしてだか嫉妬が多かった。だが男子は既にその魅力に取りつかれてしまったようで、すぐに野球部に所属するお調子者の伊賀という男は手を挙げて、「彼氏はいますか?」と島袋に質問した。

 クラスにどっと笑いと男子からの拍手が鳴り響く。島袋も美人の特権として受けられるその手の質問への対応は慣れているようで、たっぷりの間を開けてから「バツイチよ」と答えた。

 この答えは男子も女子も予想外で「おお」と驚きの声が上がるが、すぐにそのバツイチという経歴は彼女の美貌によってマイナス評価でなくむしろ、経験豊富というプラス評価へと転じた。

「あの、お年はお幾つでしょうか?」

 そしてさらに調子づいた男子から次の質問が上がる。

「一億六千六百歳。うふふ。さ、授業始めますよ。田所先生はどこまでやっていたのかしら? あたしこの教科書はあまり馴染みがないのよね。ねえ、誰か教えてくれるかしら。う~ん。そうねぇ」

 島袋はまたさっきと同じように獲物を見るようにクラスを見渡す。目が合いたくないな、と思っていた真智子だったが、こういう時に限ってそういうものはやってくる。

「それじゃそこの子。えっと――」と、島袋は一旦言うが、「なんちゃって。あなたの名前は知ってるわよ」と微笑む。「川本真智子さんでしょ?」

 真智子は、「どうして知ってるんですか?」とは訊かなかった。たぶん新しいクラスを受け持つに当たって予習して来たのだろうかと思ったからだ。

 すると島袋のほうから「どうしてって訊かないの?」という質問が真智子に飛んできた。「なんだか普通って顔してるけれど」

「いや別に」と、目立つことを恐れた真智子は答える。

 だが意に反するように既にクラスメイトの注目は島袋から真智子に移っていた。

「ふぅん」

 鼻を鳴らす島袋は「やっぱりなかなか賢いのね」と言い、「何ページ」と続ける。

「三十六ページです」

「ありがと。今度、角砂糖上げる」

 なんだかわからない冗談を真智子は受け流す。だが脳ミソまで筋肉な奴らは、その一言で角砂糖を口一杯含んだような甘い表情になってしまう。

「じゃ三十六開いて」

 また教室に一陣の風が吹く。「海が見えるって最高ね」教科書をぱらぱらと開いていき、その風のせいで少し行き過ぎてしまったのか、島袋は若い数に向かって数ページだけ捲り直す。

 真智子は最初に感じた嫉妬も手伝って、先ほどのやり取りにも棘を感じてしまう。なんだか面白くない。だから授業中は黒板よりも、穏やかな波に揺れる海面と青空の境界を眺めていた。雲が流れ、一秒一瞬ごとに空の模様は少しずつだが変化していき、海面も海面で無限に沸く波が蠢き、一瞬だって同じ顔を見せてはくれない。嫌う人もいるが潮の香りも毎日鼻梁を掠めるのに、飽きることなく真智子は今でも大好きな一つの香りだった。

 昨日も一昨日もその前もその前もこうしてどこまでも続いていく海と空ばかりを眺めて過ごして来た気がした。だが気がするだけで本当にそうなのかわからなかった。

 強く竜巻と勘違いするほど風が吹くと、カナの指に結んである赤い糸が真智子の視界に飛び込んでくる。真智子を見ると、彼女は真面目にノートを取っていて、自分の小指が暴れていることには気づいていないようだった。

「この問題、川本さん。どうかしら?」

 不意を突くように島袋から指される。

「え?」と、真智子は思わず声を上げてしまう。それは敗北の合図でもあり、教室にはそのきょとんとした顔を見た友人達の笑い声が上がった。

「ここここ」とすぐに後ろの席のカナが問題の場所を教えてくれる。

「集中しなくちゃね、川本さん」

「すいません」

 質問に答えた後、島袋は彼女に言葉を添える。彼女が謝るとチャイムが鳴った。終業を告げるものだった。一気に緊張が解けて、「それじゃおしまい」という島袋の合図とともに教室に華やかな花弁がひらひらと舞う。それは次から次へと天井から降りてきて、空気抵抗を受けて、左右に揺れながら楕円を描くように落ちては消えていく。その速度は他の時間軸とは違いとてもゆっくりとした、いわば悠久を感じさせるようなものだった。白、赤、薄いピンク、三つの色の花弁が互いに交差しながら決してぶつかることなく優雅に落下している。

 同じように雑談の言葉が飛び交い、短い休憩時間を誰もが謳歌する。いつの間にか朝はなくなり、もうすっかり昼の雰囲気が支配しているが、時刻を見るとまだ正午には程遠い。だがこれが若さでもあった。

「ねえ」

 カナだった。「今ね、フリーターの友達からメールがあったんだけどね」と彼女は話を切り出す。真智子は黙って、彼女の頭についたままの花弁を取って、床に捨てる。

「なに?」

 芳江が言う。「なに?」

「今ね駅前のパチンコ屋にアイドルが来てるんだって。営業で。ほら」

 添付された画像を彼女は見せてくる。だが真智子も芳江もそして実のところそれが誰であるかはわからない。だが人に囲まれてマイクを持っているその姿は確かにアイドルのそれだった。「見に行こうよ」

「けど授業あるし」

「いいじゃん。抜け出しちゃおうよ」

「ええー」

 戸惑うのは真智子だった。抜け出したことなんてないはずだった。心はそんな事を考えただけで、途端に心拍数を上げてしまう。

 警察と学校の先生たちが学校を抜け出し、駅前のパチンコ屋へと向おうとする彼女を追うのだ。いつしか景色は夜に代わり、黒いゴミ袋を漁るねずみがいる路地裏へと真智子は逃げ込み、外套の灯りで浮き立つ無数の影が遠くに行ってしまうのをそっと息を殺して待つ。

 そんな姿を想像しただけで恐ろしい。

 だが不安を打ち消すように、芳江は「いいねいいね。行こうよ!」と乗り気だった。見たこともないアイドルを見るのが面白いと彼女は言うのだ。

「ね? 真智子も行くでしょう?」

「ううん」と彼女は曖昧な返事をする。だが否定しないということは相手にとっては肯定である。二人は立ち上がり、財布を鞄に入れている。仕事が速く、もう今更やめようよ、なんて言葉を言うことは憚られた。

 だから気持ちは乗らないままで流されるままに真智子は自分も鞄を肩に掛けて、外に行く準備を整える。鞄には二、三のキーホルダーがついている。ライオンと猫など動物ものが中心だった。昨日の夜のクマのぬいぐるみのように動き出すようなことはないであろう、小さなキーホルダーだった。

 教室の出口に向って歩き出すとそのキーホルダーたちはゆらゆらと揺れ、チェーンが重なり合って音を立てる。

「早く早く」と彼女を急きたてるのはカナだった。同じように芳江も「早く早く」と言う。

廊下に出ると窓際で会話をする生徒が幾つかいる。だがそれは人というよりも既にハリボテに近い存在になっていた。薄っぺららい板に人物像をプリントした紙を貼り付けておいてあるようなものである。動くのは肘の間接と、下顎を上下させるだけで、何かを話しているのだがそれが一体何なのかはもう真智子にはわからない。

 彼女はたった今、これ始まる逃亡劇の主人公になり、それ以外はまさに脇役であり、単なる舞台装置になっていた。

 一年多く学校にいる芳江がここでそのキャリアの違いを発揮して、「こっちの非常口を使おう」と二人に言う。

 二人は特に反論する理由などないので、芳江に続く。銀色のドアノブを握りそれを捻ると、吹き晒しの小さな踊り場があった。普段から、いわゆる不良と呼ばれる生徒たちが気軽に利用しているのかそこには煙草の灰と空いた缶コーヒーが放置されてある。

「片付ければいいのにね」と、芳江は一言吐き捨てるようにいい踊り場から階段を小刻みなステップで降りていく。真智子とカナもそれに続く。四階だったので地上まではそれほど近くもないが、思ったほど遠くもない。三人の足音がカタカタと響き、その度に一つまた一つと校庭が近づいてくる。

 地上に降りると、体育の授業に向う他のクラスの集団と擦れ違う。知り合いには挨拶をして、鞄を持っていることを訝しげられながらも笑顔ですり抜けて、真智子は芳江の後に続いた。芳江は一旦正門とは反対の方向に向かい、テニスコートの脇をすり抜けていく。テニスコートの裏には、不良集団がいた。全員が全員、制服を崩して着ていて、同じようなキーチェーンをズボンに下げている。どうやらタイミングが良いのか悪いのか丁度、弱い者から小遣いを巻き上げてつつストレス発散のために暴力に訴えているようだった。

 殴られているのは同じクラスメイトの、名倉貴明という名の男だった。背の小さく口数も少ない男だった。数人の男に囲まれて、背中を彫刻刀で刺されている。彼を囲んでいるのは三人の不良に対して、背中に刺さっている彫刻刀は六本だった。一人二本、彼の背中に刺した計算だった。白いYシャツは赤く染まり、裾で一旦血が溜まり、その後ぽたりぽたりと落ちて、丸い斑点を彼の影の周りに作っていた。

「今日はこれだけです。これだけです」

 半べそになりながら貴明はポケットから皺くちゃの千円札を取り出す。

「これじゃ何も買えねーよ」

 ぶすり、と彫刻刀が彼の腕に刺さる。

「ひえー」と情けない声がした。

「明日はもっと金を持って来いよ」

「お前が代わりに死ねばよかったのにな!」

 それは殺されたクラスメイトの代わりということだろう。今回殺されたのは目の前にいる不良グループに属している生徒だった。「なんでお前みたいなクズで弱い奴が生きてるんだか」

 囲んでいる不良たちが彼を蹴る。すると貴明は簡単にバランスを崩して、地面と顔を近づける。彼はすぐに身を守るように身体を丸くして、その暴力の雨がどこかへ飛んでいくのを待っている。

「また苛められてる」

 カナは声を潜めている。そして横目で一瞥した後、それ以降その光景は見ない。真智子も同じような表情であまり関わらないようにした。

「ちょっとあんたら!」

 だが芳江は違ったようだ。「あんたら弱いものばっか苛めてるんじゃないわよ!」

 彼女は不良たちに近づいていって、一人ずつの頭を引っぱたく。

「あんだよ」と、向こうは威勢良く睨み返す。あっという間に芳江は三人に囲まれてしまうが、彼女は一歩も引こうとしない。

「なによ! 弱い者いじめしてるあんたらにあたしが倒せるわけ?」

「どういう事だよ」

「あたしの事知らないなんてもぐりでしょ?」

「はあ」

「あんたらの先輩のコージの元カノって言ったらわかるでしょ?」

「コージ先輩のかよ――」

 一年前の芳江の姿をカナも真智子も知らない。だがどうやら今の彼女とか少し遠く、カナと真智子の二人からはとても遠い存在であったようだった。

「ビビってんじゃないわよ。ほら、さっさと散りな!」

「ったくよ」

 そして男たちはどうする? と相談を始めて、仕舞いには何か文句のようなものをぶつぶつと呟きながら校舎の影へと消えていってしまった。残されたのは芳江、カナ、真智子の三人と、苛められっ子の貴明だった。

「あんたもいつまでもメソメソしてんじゃないわよ。あんな奴ら嫌なら嫌ってはっきり言いなさい」

 怒りはまだ収まっていないのか芳江は地面で丸まっている貴明にまで当たる。体勢を直すと彼は半ば自虐的に笑いながら背中に刺さっている彫刻刀を手探りで位置を確かめながら抜いていく。そして、「いいんですよ、どうせ。三年経れば終わるから」と呟いた。

 だがその台詞がさらに芳江の怒りを逆撫でしたのは明らかで、「そんなんだからいつまで経ても苛められてるのよ!あんた」と説教に一層の凄みが増す。

 芳江の顔は見る見るうちに赤くなり、彼女の身体は湯気が出ていた。

「見て、煙が――」

 カナはそんな彼女の姿が可笑しいのか笑いを堪えている。真智子はなんだか貴明が心配だし、ここで芳江がさらに騒いで先生達に見つかることを恐れていた。

 だから仲裁しようと、「まあまあ」と言いながら二人の間に割って入ると、膝を折り、地面に座ったままの貴明と視線を合わせる。

「痛くないの?」

「痛みって何さ」

「あ、そう。もう行きなよ、授業始まるよ」

「みんなは?」

 彼は立ち上がる。もう血は止まっているようだった。

「あたしたちはちょっとこれから」

「用事があるのよ!」と少し語気を強めて言ったのは芳江だった。

「そう」

 どこか影のある言い草は変わらない。貴明は「僕は行くから」と言って歩き出して、彼もまたどこかの黒い影の中へ消えていってしまう。

「もう最悪。なんなのあいつ」

 まだ怒りは収まっていないような芳江だった。「お礼の一つも言いやしないじゃない」

「まあまあ」と、笑いながら彼女を宥めるのはカナだった。「ねえ?」

「うん」

「人助けって見返り求めちゃだめだよ」

「あたし偽善者なのよ! うんもう」

「それより早く行こうよ。芸能人見に行こうよ。あたし芸能人見るの初めてなの」

 カナの声はこれから始まる小さな冒険に向かって弾んでいる。口からは音符が次々に飛び出し、そこに休符や間延びした四分音符はない。全ては三連符以上に連なり、彼女の心拍数が愉快なリズムを刻んでいるのが手に取るようにわかった。

 真智子はなんだか浮かない顔をして消えていった貴明の姿が頭に残ってしまう。残された柄まで血に染まった彫刻刀もそうだった。

――痛いって何?

 そう言って何が面白いのか口許を緩ませた姿は、一つの悲劇のようであったし、何か思うところがあった。

「もう行こ」

 芳江は気持ちを入れ替えるよう二人に言って、「着いて来て」とまた先を進み始める。

 物思いに耽っていた真智子はこれまた始動が少し遅れるが、それだって三歩くらいの距離に過ぎない。ちょっと早く歩けばすぐに埋められる距離だった。

 今はもう使われていない焼却炉の横を通り、体育館倉庫の裏までつくとそこは全く手入れの届いていない草木が生え放題の場所だった。空を動いていた雲の陰が、木々の陰に重なり、三人は一時夜かと見間違うほどの暗さの中に佇む。一瞬だが、夏が消え、涼がその場を制した。

「このフェンスを登って外に出れば良いから」

 誰にも見られずに外に出るのは実に苦労するんだな、と真智子は感じる。既にここまで来るだけでその身体には汗が纏わりついていた。

 スカートということで真智子とカナが躊躇っていると、芳江は先にフェンスをよじ登る。彼女のスカートは捲りあがり、栗のイラストが描いてある下着が見える。

 次に向ったのはカナで彼女も彼女で今度は苺のイラストが描いてある

 真智子は誰もいないことを最後確認してフェンスの向こうで待つ、芳江とカナに会うためにフェンスをよじ登る。まず先に鞄を向こうに投げて、それから指で金網を掴み、その間に靴先を押し込んで足場を掴み登る。自分はどんな感じで下着が晒されているのか心配だったが、それを気にしている余裕もなかった。

 フェンスの一番上に手が届くと、一気に力を込めて身体を持ち上げる。背中に羽が生えて、拙い腕力を補うために羽ばたかせると、彼女の身体は一瞬空気と一体となるように軽くなって、浮き上がる。このまま空に手が届きそうだったが、彼女の身体は反転してフェンスをその頂上で折り返すと、後は下るだけの作業となるので背中に生えた羽は消えてしまう。

 降りるとそこは校庭の土ではなく、誰かが舗装したアスファルトだった。数枚の羽毛が落ちているのはご愛嬌で、「さ、行こう」と待っていた二人は言い、歩き出す。

「駅前のなんていう店なの?」

 途中で真智子はカナに尋ねる。

「ダイナソー」

 その名前を聞くと見覚えのある電飾看板がすぐに思い浮かんだ。日曜日に待ち合わせのために駅に来たときに、早朝から熱心なパチンコファンが行列を作っていたパチンコ屋だった。

「まだいるかな」

「午前中はずっとイベントやるって友達が言ってたよ」

「今更だけど制服でパチンコ屋って入れるの?」

 真智子は言う。

「そういえば」

「大丈夫じゃない。見るだけだし、ちょっと注意されたら出ればいいんだもん。一目でも見れればあたしたちの勝ちじゃない」

 芳江は得意そうに言う。もうすっかり彼女の身体から出ていた湯気はなくなっていた。

「そっか」

「そうそう」

「全然関係ないけどさ、今度うちどっか旅行行こうと思うんだよね」と、カナが話を切り出す。

「どこ? 彼氏と?」

「違う違う。一人旅のつもり」

「お金は?」

「バイトしてるし」

「あ、コンビニか」と真智子は言った。

「うん。夏休みにどっか。なんか良いところないかな?」

「海外は?」と、芳江。

「怖いよ。うち英語出来ないし。真智子はどこかお勧めある?」

「うーん。京都?」

「中学の修学旅行で行ったばかりだし」と、カナは笑う。「どんだけあたし京都がフェイバリットなのよ」

「英語できるじゃん」

「これくらいは余裕だよ。ねえ、どこかない?」

「やっぱ沖縄じゃん? 夏休みなら」

「そうそう」と真智子の意見に芳江も同意する。「せっかく一人でどこか行くなら街より南の島でしょ」

「恋人とこそ南の島のような気がするけど――」

 真智子は芳江の顔を見る。「砂浜で散歩したりとかさ」

「ま、そういう価値観もあるわよね。悪くないと思う」

「なにその言い方。おばさんっぽいよ」

「おばさんじゃないわよ。一歳しか違わないだけじゃない」

 こうやって芳江を、おばさんと言ってからかうことがカナと真智子の二人には良くあった。

もちろん本気で言っているわけではない。

 交差点にやって来て赤信号で三人は止まる。隣には盲導犬と並んで立つ全盲の男がいた。交差点には赤い車が三つ白線の手前で止まっている。高い車のような気がしたが車に全く興味のないのでわからない。

「彼氏、二十歳って言ってたけど、車は持ってるの?」

 気になりカナに尋ねてみる。

「持ってない」

「そっか」

 信号が青に変わる。三人はまた歩き出す。なんとなく横断歩道の白線部分だけ踏みながら、真智子は向こう岸に向かう。

 白線以外踏んだら死ぬ、と自分に言い聞かせて、またそんなくだらないことを二人に悟られないよう普通を装いながら歩く。

 集中するほどのことではないが、いつしか目の前には白と黒のストライプだけになり、それは突然波を打つ。すると彼女の足は掬われて、思わず黒い部分を踏みそうになってしまう。ずっと鳴り響いていた蝉の音は消えてしまい、車のエンジン音すらもどこかへ消えていってしまう。一気に難易度の上がったその一人遊びを制するために、真智子はタイミングを見て一歩を踏み出し、向こう岸に着く。

「なにしてるの?」

 辿り着くと芳江とカナは真智子に冷めた視線を送る。

「ちょっとね」

「なんか横断歩道、うねうねしてたよ」

「そういう日もあるじゃん」

「ないって」

「ドラゴンがやって来て、ここから近いハンバーガー屋はどこですか? って日本語で尋ねるくらいないね」

 カナはそう言う。

 だがそう言った途端に、太陽が何かによって遮られたことに三人は気づき天を仰ぐ。

「ドラゴンだ」と、呟いたのはカナだった。太陽光を遮るシルエットはまさにそれで、翼をゆっくりと優雅に上下させながら、少しずつ車道に向かって下降をしてくる。

 そして三人の前まで降りてくると、「ここいらで一番おいしいハンバーガー屋さんは知りませんか?」と日本語で言うのだ。

「雑誌に紹介された奴でよかったらこの道を真っ直ぐいくとあります」

 呆気に取られてはいたが、質問に答えないわけにはいかないので彼女たちはその道順をドラゴンに説明をする。

「どうもありがとう。お嬢さん方。このご恩は一生涯忘れません」

 ドラゴンは翼を一旦畳んでから、頭を下げる。翼を畳むだけで、圧力と言えるほどの風が立ち三人は倒れないよう踵に力を込める。

 だが行ってしまうとすぐにいつもの日常が戻ってくる。三人は彼が行った後で、「写メ取ればよかった」と口にするがもう時は既に過ぎ去ってしまっている。

 それから三ブロックほどは、本物のドラゴンを見た興奮が尾を引き、芳江などは思わずスキップをしたりする。

 するともう目的地のパチンコ屋は目の前で、その軒先はアイドルファンらしき二十代から五十代の独身男性のグループが牽制するように三つほどあった。

 なぜその三組が仲良くしないのか謎だったが、それぞれのアイドルへと忠誠心が間違ったプライドを呼び込んでいることは想像できた。

「店の中にいるのかな?」

 真智子が疑問を口にして、看板を見上げる。昼間だが電飾は光り輝きダイナソーという店名は自己主張を続けている。

「そうじゃない」

 自動ドアを開き芳江は何の躊躇いもなく店内に入っていく。

「ちょっと」と止めようとする真智子に「いいじゃん。いいじゃん」と言いながら、それについて行くカナ。一瞬でも見れれば勝ち、と言っていた芳江の言葉が思い出される。

 こうして真智子は初めてパンチコ屋の中に足を踏み入れる。自動ドアが左右に開いた瞬間に気づくのはその騒音と床中に広がる銀色の球の存在だった。これでは店の経営が成りたたないだろう、というくらいにパチンコ玉はそこら中に落っこちている。

 店には甘い声の音楽と、パチンコ玉がじゃらじゃらと弾かれて台から出てくる音が無秩序に絡み合う轟音が土砂降りの様相を呈していた。

「うるさいねー」

 自然と声は大きくなっていた。だが真智子の問いなど簡単に掻き消されてしまうので、三人は自分の言葉に漫画のような吹き出しをつけて喋り始める。そうすれば音が聞こえなくても目で相手の言葉を拾うことが出来るからだった。

――どこにいるんだろう。

――みんなパチンコに夢中って感じだね。

――階段あるし二階があるのかな。上じゃね。

 そうやって突き進むのは芳江の役目だった。店員に目をつけられる前に名前も知らないアイドルの姿を見なくては気が済まない。

 階段を上がってみると上は、スロット台が並んでいた。

――こっちは下とは違うね。

 真智子は並んでいるスロット台を物珍しそうに眺める。階段の横のカウンターの中にいる店員と一瞬目が合う。もちろん三人は制服姿で、どう控え目に見てもパチンコやスロットをして良い歳には見えない。

 すぐに視線を外すが、姿を見られてしまった。向こうにも丁度良く景品交換の客が来て、それ以上彼女たちに構える状態ではなくなったが、緊張の度数が上がり、流れる血の巡りが早くなるのは感じた。

――見られたね

 カナの小さな声。

――どうする?

 そう返したのは真智子だった。

――てか意外に店内広いね。

――うん。

――ちょっと奥まで行ってみようよ。

 普段から通い鳴れているような場所でないので勝手がわからないのは三人ともだった。少しずつ探るように、見落としのないようにスロット台とスロット台の間を通り過ぎていく。

 汚い親父や浪人生風の若者などは突如として店内に現れた三人の女子高生の姿を見つけると、二度見する人も少なくない。どう考えてみても、それらがこの空間にいるのはおかしなことなのである。

 しかも台を探している風でなく、ただあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返し、右往左往しているのだ。

――一体どこにいるのよ、あたしたちのスーパー無名アイドルは。

 芳江は冗談を交えて言うが、その言葉に苛立ちが隠されているのは聞いている真智子にはわかった。

 ふと後ろを見ると、インカムに何かを話しながら彼女たちを見るめる店員の影があった。短い髪で、鋭い目つきの男だった。ひたすらに薄くほとんど肌色の唇がまさしく軽薄で陰湿そうな性格を現している。思わずその姿を見ると、真智子は鳥肌が立つ。

――尾けられてる。

――最悪。

 と、カナも後ろを見る。台の後ろに身を隠して、顔だけ出している店員の顔を彼女は見る。

――あ、あそこじゃない。頭が見える。

 芳江が何かを見つけたようだった。彼女はつま先立ちで周りを見渡して、ついにこの街に営業へ来たまだ売れていないアイドルの姿を発見したのだった。

――急ごう。

――うん。

 三人は早足で視線の先にいるはずの目的へ向かう。スロット台の列を三つ通り過ぎ、二人掛けできるカップルシートをやり過ごして、イベントスペースへ向かう。

 後ろを見ると店員の姿は一人しかいなかったはずなのにいつの間にか三人、四人と増えている。

――ちょ、やばい。

 カナはなんだか楽しそうだったが、真智子は捕まった後に学校へ通報されて、パパたちにばれたらどうしようか、ということばかりが浮かんでしまい気が気ではない。

 イベントスペースは小さな人だかりが出来ていて、先ほど軒先で見た顔が何人もいた。カメラを手にして、ダンボールの上に立つ水着のアイドルを収めている。

――水着だ。

――そうでもないね。

 芳江は冷静な声で言う。確かに彼女の言うとおりだった。売れていないのも頷けるような容姿だった。

「ちょっとあんたら」

 聞いたことがあるような声が突然に響いて、真智子の肩が叩かれる。

「こんなところで何してるの?」

 そこには溢れんばかりのメダルケースを店員に持たせている島袋の姿があった。「学生なのに昼間からスロット?」

 思わず目を閉じて、その光景を瞼の裏で作った暗闇に押し込んでしまい、一生涯なかった事にしたかった。

 だが目を開いてもそこには島袋瞳がいて、したり顔で三人を見ている。

――終わったね。

――うん。

 と、真智子はカナの呟きに答えた。

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