第2話

 ママがスパイで魔法使いなんて意味がわからない。初めて聞く言葉だけど全く信じられない。ふざけてる!

 彼女はベッドの上で天井を仰ぎながら、胸に置いていた枕を壁に向かって投げつけた。普段はそんな事はしない。だけど圭佑のあまりにもはちゃめちゃな言葉に今夜は温厚な彼女も怒りが収まらなかった。先日迎えた誕生日に父親二人から貰った貰ったクマのぬいぐるみも投げ捨ててやろうか、という気持ちになる。十六にもなってぬいぐるみがプレゼント? とも思ったが、貰って弄っていると案外可愛くて気に入っていたのだが今はそんな気分にはなれない。頭の横にいるそれを見ていると、手足を引っ張って、おまけに首を絞めてやりたくなる。

 もちろんここは彼女の部屋で、彼女の他に誰も居ない。何をしようにも誰の目にも触れず咎められることなどはない。時間は要らなかった。すぐに指先で摘むようにしてぬいぐるみの手足を持つとそれを引っ張って、真智子は「ん~」と喉の深いところを鳴らしてストレスを発散する。

 するとクマのぬいぐるみも同じように「ん~」と言う。

「ん?」

 思わず真智子の手が止まる。思うのは、クマのぬいぐるみが喋った、ということだった。その真意を確かめようと彼女はもう一度手を左右に引っ張ってみる。

「ん~」

 堪えるような声がする。これは少しおかしいと思い真智子は手を離して、上半身を起こす。胸は少し興奮して心拍数が上がっていた。クマのぬいぐるみ以外から聞こえる可能性も考えて回りを見渡し、さらにベッドから降りてカーテンの隙間から外を見るが誰も居ない。そもそもここは六階である。外に誰かが突っ立っているはずなどないのだ。

 一通り確かめ終わった後、もう一度クマのぬいぐるみを見る。するとそれは立ち上がり、動き出している。ベッドの上のふかふかの布団の上を歩き、床に降りれる場所を探しているようだった。だがベッドと床の差はクマのぬいぐるみが考えているより高いのか、縁を歩き回ると彼は諦めていつもの場所に戻ってしまう。

 自分の頭がおかしくなったんだと思う。

 恐怖心を感じた彼女は思わず部屋を飛び出して、圭佑と明憲に助けを求めに行く。二人はまだリビングにいて、何か高そうなワインを飲んでいる最中だった。テレビはまだついたままで何だかよくわからない人が落とし穴に落ちていた。

「どうした?」

 明憲が言う。「何かあった? 泥棒?」

 彼が言うと何でもそう対して大事じゃないように思えるから不思議だった。

「すごい顔してるよ、真智子。シャワーでも浴びる?」

 圭佑も冗談交じりに言って、目尻を下げている。

「いや、あの、それが」

 二人の前に立つとそれまでの興奮がどこかへ飛んで行ってしまう。自分がこれから話そうとしていることの荒唐無稽さだけがこのいつもと何も変わらないリビングでは、ただただ無様に目立つだけだった。そして恥ずかしさもある。ご飯粒を口の端につけて必死に地球温暖化の脅威について喋っている映像を後から見せられているような気分だった。

「ケイとアキに貰ったぬいぐるみが――」

 だからか自然と聞こえないような掠れそうな声になっていた。半開きにしていた扉は閉まろうとして、可動域の範囲に立つ彼女の腕にコツンと当たる。またそれが何か自分の今から言うことの馬鹿馬鹿しさを揶揄されているような気がした。

「何かあった?」と、明憲。

「いや――。可愛いなって思って」

 一秒、二秒と経過していくごとに正気を取り戻していく真智子は思わず嘘を吐いてしまう。

「真智子、酔っ払ってるの? だめだよ。高校生なんだから」

 ワイングラスを傾けながら圭佑が言った。彼は一口それを飲むと、テーブルの中央に置いてあるスライスチーズを摘む。最後の一枚だった。

「疲れるの? 何か飲む?」

 明憲は立ち上がり、キッチンに進んで冷蔵庫を開ける。

「うん」

「なんかねすっごい健康そうなオレンジジュースを買って来たんだよ。ほら、この前近所になんだかおしゃれなスーパーマーケットが出来たじゃん。そこに今日のお昼、二人で行ってきたんだけど」

「じゃそれ貰う」

 椅子に座りながら、真智子は言った。心の中ではまだクマのぬいぐるみの件が燻っていたがもうそういう雰囲気になかった。

「まあ何かあったら言うんだよ。十六歳なんだし」

 すると隣に座った圭佑が言った。

「そうそう。十六歳なんだし」

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