/3 紫陽花テキストの場合。


 彼は知らない。その感情が何と呼ばれるのかを。


 自然と身に付いたルーティン。何千回と繰り返されたモーション。放物線を描くバスケットボールが、乾いた音だけをともなってゴールリングを通過する。


 ――その集中。プレイヤーが一点だけを見つめ、全霊をシュートにすのと同じように。まったく違う理由から、そのプレイヤーだけを見つめる誰かの存在が、あるいはその解答であったとしても。プレイヤーはそれを、知らない。


「……まっ。ソレは今回の担当じゃねーし」


【電脳深海】に挑むにあたって必要なモノは三つ。


 能力。技術。そして目的ソレは彼の担当ではなく、《魔法使い》の役割だ。自分は技術――それも専門の――を担当すれば良い。臨むところだ。都合が良いとさえ言える。なにせ、その為だけに彼はを修めたのだから。日々に使われる技術の一端はその副産物と言っても過言ではない。


 けれど。だから。彼は、否。彼らは間違えていた。


「はー! ニンゲンってのはやっぱ難しいよな、ジュン


 まだ紫陽花テキストの所属が、ミリオンダラーの【五番】の椅子に在った頃。ルナの六月と七月は【電脳深海】に挑むための装備を整えていた。


 情報すいあつに耐えるだけの性能を持ったハードとソフトを、趣味だからこそ情熱的に構築する日々。


 ――アバターに搭載するツールを、かつて《妖精》に敗北を喫した時と同じに設定しながら思う。


「……じゃ、ダメだったんだ。を明確に求めることこそが、情報圧に屈しないための最後のピースだった」


 そう。生きることでは、生物は進化を行えないように。


 何に対処するのか。生きる為に何を糧とするのか。目的無しに取捨選択はあり得ない。


 本来は見出せたりなどしないモノ。深海に挑む理由に足る目的の提示。どこまで潜ったか、などという記録レコードを得るため程度では



 レインコートを着込み、さらに傘を差したアバターが、降りしきる0と1の雨だけの仮想空間の中で、フードに隠れ、意図的――或いは本能的――に設定されなかった虚無の頭部で笑った。


『トイレとメシ済ませて来るっすわ。これ、リアルの辛いトコね』


《デリカシー! ボトルで済ませろよ魔術師》


《逆に訊くけど妖精サン、アンタできるの?》


《セクハラだぞそれー!》


 などという日常的なやり取りを済ませ、一旦彼は現実へと帰還した。



 ――かつて暮らしたビルとは比べ物にならない3LDK。自室を出てトイレへ。用を足して、冷蔵庫を漁りにリビングに入ると先客がいた。


「ありゃディッセンさん。夜更かしっすか」


「おやテキスト。夜食ですか」


 自室ではなく共同スペースのソファに座り、小説を読んでいたディッセン=アルマトールは何を思ったのか立ち上がる。


「ちょっと重めのクエ入っちゃったんで栄養補給っすね。ディッセンさんは?」


「私は……なんとなく、かな。珈琲でも淹れましょうか」


「カフェインによる利尿作用! あっでも頂きます。そいやディッセンさん」


「はい?」


 まるでこうなることを予見していたかのように、既に温まった湯が入ったコーヒーケトルを持ち上げるディッセンに、冷蔵庫からエナジードリンクやらゼリー飲料やらを取り出しながら問う。


「そんな風に美味いコーヒー淹れられるってのに、なーんで以前まえはインスタントだったんすか?」


「テキスト」


「うっす」


「……あの業務内容にあって、ゆったりと一杯を注ぐような余裕、あったと思いますか?」


 熱湯を注がれ、ドリッパーの中で膨らむコーヒー粉を見つめたまま、ディッセンは神妙な声色で答えた。


「ですよねー! 簡略化できる全てを簡略化したいっすよねー!」


「そういうことです。我々は多大な犠牲を払って、珈琲をドリップできる程度の安らぎというものを手に入れられたのです」


「……ディッセンさん。ホントはルナのメンバー嫌いだったんすか?」


「はは、まさか。彼らのことは今でも大事に想っていますとも」


 そうした会話をしているうちに出来上がったコーヒーを、二人分の安物マグカップに注いでテーブルへ。先に座っていたテキストの対面の椅子に座ったディッセンは、何も言わずにまず一口。


「……実を言うと、嘘をつきました」


「マジでルナを軽視していたとかいう衝撃のカミングアウト」


「や、そうではなく。『なんとなく』と言いましたが、貴方を待っていたんですよ、テキスト」


「おん? メイちんとノーヴェっちには聞かれたくない内緒話ですか?」


「それほど重要なものでもないですね。ただ、こうして貴方とゆっくり珈琲を飲むという時間を、あまり得ていなかったなあ、と思いました」


「ルナだとブラック派あんまりいなかったっすよねそういや」


「ええ。今となってもメイは珈琲を好みませんし、ノーヴェは冥に合わせるので」


「ほーん? ……あのですね、ディッセンさん」


「はい?」


「自分のじゃなくてオレの死亡フラグ立てるのやめてくれねえ!? ……こほん。ご馳走様でした。やっぱ本格ドリップは違うっすわー。また淹れてくださいよ」


「……テキスト」


「はい?」


「死亡フラグ乙」


「ですよねー!」


「冗談はさておき、死なない程度に収めてくださいね」


「うっす。ま、今回のPTならデスペナ無しでイケるっしょ。報酬ぜんぜん無さそうなあたり笑えますけど」


 そう言って紫陽花テキストはリビングから自室へ戻った。


 空になったマグカップを見つめ、ディッセン=アルマトールはそっと呟く。



「……本当に、頼みますよテキスト。一人分淹れるのは、意外と難しいんですからね」






「だからそういうのを止めろって言ってンですけどォ!?」


 軽率に自身の死を匂わせる家族にツッコミを入れるためだけにUターンを決める紫陽花テキストだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

強盗童話/Ⅱ 冬春夏秋(とはるなつき) @natsukitoharu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ