/2 ファリシア=エリューゼロッテ・ランバートの場合


 現実リアルを知らない知人の応援要請を、間を置かず了承したものの。に踏み入るという事態の重さを、その少女は過不足のない認識で受け止めてもいた。


 なるほど、場所が場所だけに。その道のエキスパートがごく少数いれば、それが最適解であるとも。だからこの妖精わたしに声がかかったのだし。



 ――アレは何年前のことだったか。陸上生物が水中で当たり前に息苦しさを覚えることと同じで。自分の生きる場所は空の高いあの地上ではなく、煩雑はんざつとした情報の混じりあう電子の海の方だった、と自覚していくらか経った頃。


 少女の脚は大地を歩くためではなく、水を蹴るためにあった。可視化された電脳情報。その中を泳ぐ快感。安全性の保障などされていない、敵も味方もどこかしらで繋がりきった、たった独りでも孤独ではない矛盾の世界。生き抜くために磨いた自身。誰かの自論、誰かの空想、れっきとした事実。味のある嘘。一つくらい解き明かしたところで問題にもならない圧倒的な分母の量。


 インターネットにダイブする、という技術が確立されて以来、彼女ほどそれを使いこなせた人間もいないだろう。だからこそ彼女は人間扱いをされず――あくまで話題の中で――と呼ばれているのだが。


 原理を紐解く魔術師ウィザードではなく。その向こうで当たり前に生きる隣人フェアリー


 そんな彼女――ファリシア=エリューゼロッテ・ランバートをして、は認識するや否や一目散の逃走を選択するほどにだった、と言わざるを得ない。


 状況が違う。意味が違う。認識が違う。尺度が違う。濃度が違い、が違った。


 個人、いやいかなる団体であろうとも構築することなど出来ない圧倒的な密度……消費文明の負債を目の当たりにするかのような、廃棄物の沈殿。一度ってしまえば否応にも理解させられてしまう恐怖。それだけのモノでありながら、ソレは電海のいたるところに存在していた。……救いがあるのならば、深海ソレは決して自らの版図を能動的に広げようとする意思を持たず、またこちら側も足を踏み外した程度では、そこに墜ちたりはしないことか。


 例えれば例えるほどに、海だった。多くの水生生物が暮らす表層から中層と、あまりにも違いながら出入り口も存在せず隣接する深海。


 そこではが既に違っている。――現実の深海とどこまで似通っているかは未知ではあるが、基本、そこに生きる生物たちはそこで生きるために、そこでしか生きられないようにできている。自在にを行ったり来たりできる生物は数えるほどもいないだろう。


 そう珍しくない話題として、深海生物が何の因果か浮上してしまった時に既に死んでいるようなものだ。


 が深海の水圧に耐えられる構造をしていないように。も、表層の軽さというものに到底耐えられるものではない。


 だからか、それとも本当に何も居ないのかはやはり、定かでは無いが。今に至るまで電脳深海から何かが現われた、という事実は存在しない。そしてソレは、まったくもって安心できる要素でもない。


 人間的な空想で判断するのなら――電脳深海でしか存在できないプログラムが、どんな性能をしているか想像もできないようなそれらが、気泡すら放たずに海溝を泳いでいるのかもしれない。


 それが、<妖精>シルフの現状で知りる『電脳深海』の事実だった。


 基本的には廃棄キャッシュのおり。再利用の目処も立たない、本来であれば探索する意味も価値も、ついでに言えばそれを行うための手段も存在しない場所。


「……だったんだけど。ボクはつい最近、ソレと似たモノに遭遇している。や、規模は全然違ったんだ。でも今思えば、アレは確かに人造の深海だった。そうだろ? ――<レイニィ>」



“解凍する。あまりにもゴミ。解凍する。破損し尽くしたデータの山。解凍する。解凍する。解凍する。解凍する――”


 結局、その全てを暴き尽くして、探し物などそこに存在しないと結論付けた時には、周囲に広がっていたソレら。


 意味のないまま圧縮され、展開すれば視界を埋め尽くすほどだった膨大な――


『ま。ツール作りはオレの担当だったからね。無から世界を空想できるなんてカミサマじゃあるまいし? ってのは必要でしょーよ』


 深海探査の実験として、日常的にありふれた物を探査機にくくり付け一緒に沈める、というものがある。


 生物が深海に沈めば圧殺されるように。風船は破裂し。アルミ缶は潰れ、発泡スチロール製のカップめんの容器は凝縮され、僅かな気泡を孕んだ硝子は砕けて散る。


 その、覆せないことわりを識り、紐解きするのが人間であり――性能に圧倒的な差が存在したにも関わらず、妖精の首を刎ねる寸前まで肉薄した『魔術師』の技術である。



『とか言っても眺めるだけに留まらず行くことになるとはまったく思ってなかったけどなー! はーログアウトして遺書でも直筆してこよ』


 とは言うものの、その文章は秒で――口頭で喋ることと変わらぬ速度で表示された。つまりは。情報世界に触れるのではなく準備を既に済ませている紫陽花テキストに、リズは隠しもしない笑い声を上げたのだった。


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