暁協奏曲

翡翠

第1話

「ヒロちゃん、おいで」

 ──なあに、おばあちゃん

「ヒロちゃんにねえ、おばあちゃんの秘密の話を教えてあげようと思ってねえ」

 ──ひみつのはなし? なにそれ! おしえて!

「もちろん、教えてあげようか。でもね、ヒロちゃん。この話はヒロちゃんとおばあちゃんだけの秘密の話だよ? お母さんや、お友達にも言ってはいけないよ。できるかい?」

 ──うん、できるよ! やくそくだね! はい!

「おやまあ、このおてては指切りげんまんかい?」

 ──そうだよ! おばあちゃんもおててだして!

「はいはい」

 ──♪ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます

 ゆびきった!


 ***


 ガタガタと音を立てながら雨戸をあけていく。クリアになった小鳥たちのさえずりは思ったよりも近くにいたらしく、庭の木がにぎやかなのを見ながら、一筋のひんやりとした風を浴びる。温まっていた空気の中を流れてくるその風は、まだ今が夏にはなっていないことを実感させる。  

 ガラス戸を閉めて振り向くと、仏壇にある額に収まった祖母と目があう。隣には祖父もいるが、祖父は物心着く前に亡くなってしまったので、ほとんど記憶には残っていない。

おもむろに近づき、手を伸ばして仏壇に備え付けられている引き出しを開く。そこには、引き出しの大きさに似合わない、小さい写真が一枚入っているだけだ。

 この前、掃除をしている時に見つけたそれは、とても昔の写真で若い男女が寄り添っている。女性の方も、男性の方も、顔に覚えはない。まあ、時代からしてもうかなり年を取っているだろうからそう簡単にわかるわけがないだろう。一体、誰の写真なのだろう、と考えていると声がかかる。

「孝くん、おはよう。朝ごはんできたよ」

「ああ、おはよう、洋子」

「なあに、それ。写真?」

 尋ねながら近づいてきた洋子に、うん、と答えて写真を見せる。

「これ、どこにあったの?」

 写真を見て、一瞬だけ眉を寄せた洋子に気がつかずに、仏壇の引き出しの中、と答えると、そう……と考え込むように一言落とす。その様子に、どうしたの、と尋ねようと口を開こうとすると、冷めちゃうから、ご飯食べよう、と言われて言葉を飲み込んでしまう。

 そうだね、と同意して写真をしまい、洋子の後を追った。


 ***


「おばあちゃんはねえ、昔、好きな人がいたんだよ」

 ──おじいちゃんのこと?

「いんや、おじいちゃんとは別の人でねえ。その人とは子供のころから一緒だったんだけど、突然引っ越すことになってしまってね。それからは一度もあっていないんだよ。……ほら、この人さ」

 ──この男の人? 女の人はだれ?

「昔のおばあちゃんさ。引っ越す前に撮った写真だから、もう六十年くらいも昔だねえ」

 ──へえ……。そうなんだ。

「その人が引っ越す一ヶ月くらい前にねえ、大雨の日があったんだよ。その翌日に、私が足を滑らせて、川に落ちそうになった時に、その人が私の腕を掴んで、道の方へ押し返してくれてね、代わりにその人は川に落ちてしまったんだ。川は水がいっぱいでね、私が手を伸ばした時にはもう届かなくて、そのまま川に飲み込まれてしまったんだよ。次の日にその人が見つかった時はもちろん死んでしまっていてね。信じたくなくて、その人といつも待ち合わせ場所にしていた神社に行ってね。私が早く手を伸ばしていれば、あの人は死ななかったのにって思いながら泣いてたらねえ、気がついたら大雨の翌日に戻っていてね。何が起こったのか分からなかったけど、その後、あの人に会った時に、また川に落ちそうになってね。前の時と同じように、あの人が代わりに川に落ちて。でも、その時は私があの人の手を掴めて、二人助かったんだよ」

 ──ふーん?

「あとでその人と調べたらねえ、あの神社には言い伝えがあるのが分かってね。時をさかのぼって、大切な人を助けられるってねえ。確か、一つだけ決まりごとがあったと思うんだけど……。昔のことさ、忘れてしまったね」

 ──その神社って、どこにあるの?

「この家の近くだよ。前に一度、お参りに行ったろう」

 ──あそこの神社なんだ! へえ、知らなかったなあ

「今はこの言い伝えを知っている人も少ないだろうしねえ。いいかい、ヒロちゃん。この話は秘密だからね」

 ──うん!


***


 ふと起き上がって隣を見れば、洋子が静かに寝息を立てている。ゆっくりと起こさないように立ち上がり、近くの窓を開ける。ふわり、と風が流れてきて髪の毛を揺らす。

 空には無数の星が広がり、真夏の暑さの中に涼しさを感じさせてくれる。小さくため息をついて、自然と下がった視線が何軒か先にある神社を捉える。

 そういえば、昨日、あそこで遊んでた高校生くらいの子たちがいたな……。洋子の学校だろうか。

 洋子の勤務している高校はここら辺の地域の子がよくいく学校である。もしかしたら知り合いかもな、と当たり障りのないことを考えながら心を無にしていく。

 懐かしい夢を見た気がして、その夢に触れたくて手を伸ばしたら、夢から覚めていた。何が懐かしく感じたのか、気になって悶々と考えていたが、外界の静けさが思考を落ち着かせた。まだまだ夜は深い。今ならもう一度眠れそうだ。

 窓を閉めて、布団へともぐりこむ。

 夢を見た時に感じていた心のざわつきと目を合わせることはしなかった。


***


「ヒロちゃん、赤信号だから、青になるまで待ってようね」

 ──うん。そうだ、おばあちゃん、お家にかえるまえに、きのうはなしてた神社に行きたい!

「そうかい。じゃあ寄っていくとしようか」

「──、危ない!」

 とんっ

 ──えっ、

 ガシャン!

 ──いたっ……、おばあちゃん……!

「おい、救急車呼べ! 人が轢かれたぞ!」

 ──おばあちゃん、おばあちゃん!

「ちょっと、誰かこの子を保護して!」

「運転手の方は大丈夫か!?」

「ぼく、お家の電話番号分かる?」

 ──やだ、はなしてよ! ……おばあちゃんっ!


 ***


 救急車のサイレンが近づいて、遠ざかる。

「何があったんでしょうね」

 さあ、と興味なさげに言ったのが気にかかったのか、後輩の佐藤さんが食い下がる。

「さあって、気にならないんですか?何があったのか」

「個人で連絡が来ないなら家族じゃないだろうし……。情報ならそのうち入って来るんじゃない?」

 え、と疑問詞を投げかけてくる佐藤さんを残して,人が来た受付へと立つ。

「秋葉さんはいるかしら」

「秋葉さんは今出払っていて。どうかされましたか?」

「あら、孝宏くん。居ないんだったらいいわ。またあとで来るから。……ねえ、救急車見た?」

 その言葉に、さっきの救急車かな、と目安をつけて答える。

「音なら聞きました。何かあったんですか?」

「交通事故ですって。轢かれたのは高校生らしいわ。まだ若いのに、大変な目に合っちゃってねえ。大した怪我もなければいいんだけど……。心配だわ」

 じゃあまたね、とつぶやきながら受付から離れていく家の隣人の背中に頭を下げてから自分のデスクへ戻る。

「高校生が交通事故だって」

 佐藤さんに一言伝えて、パソコンと向きあう。

「交通事故ですか……。交通事故だと怪我の度合いがピンキリですよね。軽ければ擦り傷程度だけど……」

「俺たちが心配しててもどうにもならないだろう。ほら、手を動かして」

 続きの言葉を飲み込み、完全に手の止まっていた佐藤さんにそう言えば、彼女は慌てたように仕事に戻った。


 ***


 ──おばあちゃん……。

「おばあちゃんはね、お空に行っちゃったの。もう戻って来ないわ」

 ──うん……

「そうだ、少し遊んでなさい。お母さんたち、相談しなきゃいけないことがあるから」

 ──……ねえ、神社に行ってもいい?

「神社? 近くのあそこね? わかったわ、じゃあそこで遊んでなさい。一人で行ける?」

 ──うん、行けるよ。行ってきます

「あ、ちょっと、気をつけてね」

 ──はーい。……ええっと、ふたつお家をすぎて、このかいだんを上る、っと。ついた! ここでおねがいするんだよね。神さま、おねがいします、おばあちゃんをたすけさせて!


 ***


「孝くん、お疲れ様」

「洋子、何かあったの?」

 仕事も終わり、帰ろうとしたら洋子が待っていたことに驚き、何か約束でもしていたか、と思考を巡らせる。

「いや、何かあったわけじゃないけど、学校を出た時間が丁度よかったから待ち伏せしに来たの」

 小さく笑いながら、楽しそうに言う。その顔を見て、頬が緩むのを感じながら、せっかくだしどこか食べに行こうか、と提案する。

「たまには、それもいいね」

 二人ならんで歩きながら、どこに食べに行く、と話をする。

 十二月も半ばに近いのでとっくに日は暮れて、走りゆく自動車や街灯、道に連なるお店の明かりが歩道を、二人を照らしていく。

「焼肉食べたいなあ」

ぽつりつぶやくと、洋子が賛同する。

「焼肉! そういえば、最近行ってないな」

「じゃあ、焼肉食べに行こうか」

「そうだね」

 行き先が決まり、ここの信号渡るよね、と確認してくる洋子に、うん、と答える。

「あ、赤信号になっちゃった」

「まあ、待ってたらいいだろ」

 おもむろに夜空を見上げる。街の光で夜空は明るく、星は全く見えない。

 無性に、今、星が見たいな。

 そう思った瞬間、けたたましいブレーキ音とともに、誰かに身体を押される。そして、ドン、という鈍い音に続け、誰かの悲鳴が響き渡る。

 押され、崩れていた体勢から立ち上がって振り返り、やっとのことで状況を理解する。

 先ほどまで立っていたはずのところには大型トラックが、電柱に食い込んだまま停止。そして、数メートル先には女性が倒れている。

 交通事故だ。

 この現状を理解しても、理解したくなくて周りが騒がしくなるのを聞きながら立ち尽くす。

「お嬢さん! 大丈夫!?」

 倒れている女性に必死に呼びかける声を聞いた途端、はじかれたように洋子の元へ駆ける。

「洋子、洋子! どうしてっ!」

 じわじわと広がってしまう黒い水たまりが、やがて光に当たり、赤く染まる。

「洋子っ、お願いだから、」

 目を開けてくれ。

 その願いが音になることはなかった。


 ***


「ヒロちゃん、お買い物に行こうか」

 ──おばあちゃんだ……

「え?」

 ──おばあちゃんが、生きてる!

「……、ヒロちゃん、もしかして、神社に行ったのかい?」

 ──うん! おばあちゃんがね、車にひかれちゃったの。それで、しんじゃったから。

「そうかい……」

 ──だから、きょうはお家から出ない!

「じゃあ、お買い物はお母さんが帰ってきたら、頼もうか」

 ──うん!

「……ありがとうね、ヒロちゃん」


 ***


 あれから時は流れ、気がついたら洋子の写真が仏壇に並んでいた。

 仕事に行こうとしたら、今週一杯は休みにしたから、ゆっくり休め、と秋葉さんに言われてしまった。休めと言われてもやることもないので、庭を眺めながら、ただひたすらに時を過ごす。

 ふと思い出してしまう、あの光景に、何かが重なったような気がした。

 あれ、と思い、洋子を振り返る。すると、洋子の隣に並んでいる祖母が目に映った。

 ──ヒロちゃん。

 昔、祖母にそう呼ばれていたことを思い出す。孝宏──タカヒロの宏で、ヒロちゃん。

 物心着く前からずっとその呼び方をされていたので、男の子なのに、ちゃんは嫌だ、と言った時に、ヒロくん、と呼ばれたのが違和感で、最終的にヒロちゃん呼びに落ち着いたことを今でも覚えている。そういえば、祖母に何か大切な話をしてもらったことがあった気がする。何か、こう、大事な話。

 おもむろに、仏壇の引き出しを開けていた。そこには、春頃に見つけた写真が、以前と変わらずに置かれている。

 あ、と思わずつぶやく。

 ──ヒロちゃんとおばあちゃんだけの秘密の話だよ?

 そうだ、確かに昔、この場所で大事な話をしてもらった。

 どんな話だったか、と必死に記憶の糸を手繰る。詳しくなんて、覚えてない。ただ、話の概要だけでも思い出さなければ……。

 なぜ、そう思ったかなんてわからなかったし、そんなことを考える暇さえ惜しかった。

 おばあちゃんの想い人が、川で亡くなって……。確か、気がついたら流される前だっけ? どうしたら、時間が戻ったんだ?

 ──後で調べたらねえ、あの神社には言い伝えがあってね。

 言い伝え……。どんな内容だったか。

 いいや、と首を振った。きっとその言い伝えが、時間を戻せる、というような内容なのだろう。

 とにかく、と上着を羽織って玄関に向かう。もう、時刻は六時を過ぎていた。外は真っ暗だったので、懐中電灯をもって家を出る。神社は目と鼻の先だ。


「あ、」

人がいるなんて思っていなくて、不意に声を出してしまう。

 誰かが神社の前の階段に座っていた。

「……誰ですか。どうして、ここに」

 スマホの懐中電灯を使ったのだろう。突然照らされた光に目を細める。

「俺は……」

 洋子を、助けるために。

 言おうと思ったが、声が出なかった。代わりに、彼の顔が見えるくらいまで近づく。高校生くらいの少年が、悲しみを押し込めたような、少し強張った顔で立っている。

 もし、言ったとしても、言い伝えを知らない人にとっては、何故ここに来たかなんでわからないだろう。言うべきか、言わないべきか。

「……言い伝え」

 はっと息をのむ。彼は、言い伝えを知っている人間なのだ。

「俺も、同じなので。でもまだ終わってない。きっとまた、繰り返す。だから、待ってくれませんか」

 言われた言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

「……君は、」

君も、誰か大事な人を亡くしたのか。

そう尋ねるのは簡単だったが、口を噤む。そんな質問をして、どうするのだ。ふと思い浮かべる、洋子の姿。

洋子は亡くなった。だけど、これから助けに行くんだ。

「君も、して」

「次で。終わらせる、つもりです。まだ助かるかどうかわからないけど、でも。だから、お願いします。絶対に、この日までには解決するって約束するから」

「……分かった。わかったから、泣きそうな顔しないで」

 話して行くうちに、強張っていた顔が崩れ、泣きそうな表情になってく。

 そのまま帰るわけにもいかず、彼の隣まで歩み寄り、腰を下ろす。彼は戸惑ったようだったが、やがて腰を下ろした。それを見てから懐中電灯を置いて足に肘をのせ、両手を合わせる。

「嫁がね、死んだんだ」

 口にするたびに、魂を奪われるような脱力感に襲われる。突然の発言に驚いたのか、息をのむ音が聞こえて小さく笑う。

「事故でね。どうしても助けたいんだ、ここの事はずっと昔、祖母から聞いたから、思い出して」

「……それで、ここに」

「そう。……君は?」

 笑いながらじゃないと、泣いてしまいそうだった。声が泣き声になりそうなのを必死にこらえ、静かに問いかける。他に話すようなことがとっさに思い付かなかったし、それ以前に、聞いてあげないと彼が何か得体のしれない物に押しつぶされてしまいそうな気がした。

「俺は、……幼馴染の、三人を、助けたくて。どうしても大切で、どうしても諦めたくなくて、だから必死になって頑張って、でも何度も何度も助けられずに目の前で死んでいって。……次で、終わらせる。終わらせたい、じゃないと、おれが、わけわかんなくなりそうで、それが怖くて」

「……頑張ってるんだね」

 教えてくれた事実に驚く。何回も、何回も、友人が死ぬのを見てきたのだろうか。そして、今もまだそれが続いているなんて。まだ、高校生なのに。

 彼が、ぱたぱたと涙をおとす。それに気がついて、隣に座り続ける。声はかけてはいけない。けれど、去ってはいけないような気がした。彼が落ち着くまで、一緒にいてあげよう、と。それと、一つだけ、伝えなければならない言葉がある。

 少し時がたち、息遣いが落ち着いてきたのを感じて、小さく彼の肩を叩いてから立ち上がる。

「約束だ」

 その言葉に、彼が頷くのが力強くて、思わず彼の頭を軽くなでる。

「頑張れ。きっと、君ならできる。だから」

 何というのが一番だろう。

 迷ったけれど、そのまま思っていることをクリにする。

「待ってるよ。君のループが終わるのを、祈ってる」

 それだけ伝えると、懐中電灯を持って階段を下りた。


 先ほど、近くの店で買った一輪の花を、歩道の隅に置く。

 あの事故から、もう二週間は立っただろうか。今置いた花のほかにも、誰かが置いてくれたであろう花束がいくつかあって、ほんのり温かい気持ちになる。

 いつまでも道端に居座るわけにもいかないので立ち上がり、あの日、二人で歩いていた道を一人で歩き、職場へと向かう。

 何気なく聞こえていた、前を歩く人の会話が、ふと耳に残った。

「さっきさあ、母親のお見舞いに行ったんだけど、交通事故で入院してた高校生が亡くなったらしくて、少し騒がしかったの。たまたま、その病室の前を通ってさー」

 適当な相槌を打ちながら進められていた話はすぐに打ち切られ、他の話題へと移っていく。

 そういえば、あの男の子も高校生くらいだったよな、と思い出した。


***


 ──かみさま。

 これが最後の挑戦だ。

 ──かみさま、

 お願い。次で最後にするから、あともう一回。

 ──たのむよ、かみさま。

 もう一度だけ、ループをさせてくれ。


 ***


 救急車の音が近づいて、遠ざかる。

「何があったんでしょうね」

 さあ、と興味なさげに言ったのが気にかかったのか、後輩の佐藤さんが食い下がる。

「さあって……。気にならないんですか?」

「個人で連絡が来ないなら家族じゃないだろうし……。情報ならそのうち入って来るんじゃない?」

 え、と疑問詞を投げかけてくる佐藤さんを残して、人が来た受付へと立つ。

「秋葉さんはいるかしら」

「秋葉さんは今出払っていて。どうかされました?」

「あら、孝宏くん。居ないんだったらいいわ。またあとで来るから。……ねえ、救急車見た?」

 その言葉に、さっきの救急車かなと目安をつけて答える・

「音は聞きました。何かあったんですか?」

「交通事故ですって。轢かれたのは高校生らしいけど、大した怪我はなかったらしいわよ。頭とか、ぶつけてなければ大事には至らないわね」

 高校生の交通事故、か。

 それは良かったですね、と相槌を打つと、じゃあ後で、と軽く手を振りながら受付を離れていく背中に頭を下げてから自分の席へ戻る。

「高校生が交通事故だって」

 佐藤さんに一言伝えてパソコンと向き合う。

「交通事故なんですか。大丈夫なんですかね」

「大した怪我はないらしいよ。……俺らが心配してどうにかなるわけじゃないし、ほら、手を動かして」

 完全に手の止まっていた佐藤さんにそう言えば、彼女は慌てたように仕事に戻った。


***


「孝くん。お疲れ様」

「洋子、何かあったの?」

 仕事も終わり、帰ろうとしたら洋子が待っていたことに驚き、何か約束でもしていたか、と思考を巡らせる。

「いや、何かあったわけじゃないけど、学校を出た時間が丁度良かったから待ち伏せしに来たの」

 小さく笑いながら、楽しそうに言う。

 洋子と並んで歩きながら、今夜は焼き肉を食べに行こうと決めるが、渡るべき信号の前まで来ると運悪く赤信号になってしまう。

「あ、赤信号になっちゃった」

「まあ、待ってたらいいだろ」

 おもむろに空を見上げるが、町の光で星は全く見えない。

 無性に、今、星が見たいな。

 そう思った瞬間に聞こえたブレーキ音と、誰かに押される感覚。続くのは、何かがぶつかった鈍い音と、誰かの悲鳴。

 体制を整えて振り返ると見えたのは、電柱に食い込んだまま停止しているトラックと、その数メートル先に倒れている女性のふたつ。

 交通事故だ。

「お嬢さん! 大丈夫!?」

 女性に呼びかける声を聞いて、はじかれたように洋子の下へ駆ける。

「洋子! 洋子! どうしてっ」

 じわじわと広がる黒い水たまりが、ショーウィンドウから漏れた光によって赤く染められる。

「洋子っ、お願いだからっ」

 目を開けてくれ。


 ***


 あれから時は流れ、気がついたら洋子の写真が仏壇に並んでいる。

 仕事は、今週いっぱい休みをとったと秋葉さんから言われてしまったので、家で、ただひたすらに時を過ごす。

ふと思い出してしまったあの光景に、何かが重なった気がして仏壇を振り返る。洋子の隣にいる、祖母と、目があった。

 ──ヒロちゃん。

 祖母からは、いつもそう呼ばれていた。昔、祖母から大切な話をしてもらった気がする。とても、大事な話。

 なんとなく引き出しを開け、あの写真を見る。

 ──ヒロちゃんとおばあちゃんだけの秘密の話だよ?

 ふと浮かび上がった記憶に、あ、と声をこぼす。必死に記憶の糸をたどって、〝神社の言い伝え〟がきっと、時間を戻すことだということまでたどり着く。

 上着と懐中電灯を手に、家から駆けだした。

 目指す神社はすぐそこで、大した時間もかからずに階段を上り始める。上りきって見えた、本殿と思われる建物に、目を閉じて祈る。

 ──お願いだ、洋子を助けさせてくれ。




 気がつけば、あの日の夕方で、俺はまだ仕事をしていた。


「孝くん、お疲れ様」

 あの日と同じように仕事を終え、帰ろうとしたらあの日と同じように洋子が待っていた。

「洋子」

「学校を出た時間がね、丁度良かったから、待ち伏せしに来たの」

 小さく笑いながら、楽しそうに言う。

 ああ、この笑顔は何日ぶりだろうか。

「蕎麦でも食べに行こうか」

 あの日とは違う提案をして、洋子が同意したのを見ると、二人並んで歩き始める。

「今日ね、高校で面白いことがあったの」

 洋子が話し始めた高校の話を聞きながら、一人幸せをかみしめる。日常って、こんなにも幸せなものなのか。

 だんだんと、前に事故にあった交差点が見えてきて、もう少しであの時間か、と時計をちら見する。それに気が付かない洋子は、のんびりとした雰囲気で話を続ける。

 交差点は渡らずに道を曲がり、蕎麦屋を目指す。少し古びたビルが目に入る。

何となく嫌な予感がする……。あのビルの看板、ぐらついてる?

そう思った瞬間、ビルの看板が宙に浮く。それを見て、声を出す間もなく洋子を突き放すと、俺の視界は黒く染まった。


***


 ──なんで。どうして、あなたは死んでしまったの?

 祖父から教えてもらった、あの言い伝え。あの神社の名前をはっきりと覚えている。

 あの神社は、皮肉にも私たちの家の近くに会った。

 ──おじいちゃんは、助けてもらったんだっけ。私は助ける側になったよ。きっと、おじいちゃんの初恋の人は、おじいちゃんを失った時、すごく辛かったんだね。自分を助けて、あなたは亡くなってしまうなんてって。

 無人の神社は、とても静かで、心が落ち着いた。

 ──ねえ、時量師(ときはかしの)神様(かみさま)。時間を戻して。あの人を助けるために。


 ***


 気がつけば、あの日の夕方で、俺はまだ仕事をしていた。


「孝くん。お疲れ様」

 あの日と同じように仕事を終えると、あの日と同じように洋子が待っていた。

「洋子」

「学校を出た時間がね、丁度良かったから、待ち伏せしに来たの」

 しっかりと目を合わせて、洋子が言う。その瞳は、とても凛としている。

 あの日は焼き肉を食べに行く事にしていた。だから、あの交差点で事故にあった。じゃあ、あの交差点を渡らなければいい。

「蕎麦でも、食べに行こう」

 蕎麦屋なら、あの事故に出会うことはないだろう。そう思って発した言葉に、洋子は同意した。その同意までに、一瞬のためらいがあったのには気が付かなかった。

「今日ね、高校で面白いことがあったの」

 そう話し始める洋子が、いつもより静かで、大人しい感じがして不思議に思う。その違和感に頭を悩ませながら相槌を打ち、話を聞く。

 こうして、当たり前の日常があるのは、とても幸せなことなんだ。

 ふと、そう思った時には違和感なんて忘れていて。あの交差点が近くなっていた。ちらり、と何気なく時計を確認した、と思ったら洋子に気がつかれた。

「どうしたの、時間なんか気にして。何かあるの?」

 洋子がそう尋ねながら、腕時計を覗きこんでくる。

 思いがけない質問に少し戸惑い、のちに気になっただけ、と答える。ふうん、と腑に落ちない顔のままの洋子の表情が少し強張っていたように見え、再び顔を見やるが、いつもと変わらない洋子だった。

「なあに? 人の顔を覗き込んで。……そういえば、ここ曲がったら自動販売機あったよね。飲み物勝って行ってもいい? 私、のど乾いちゃって」

 それを引き留める理由もなく、どうぞ、と了承する。

 信号待ちでなければ、あの事故に合うことはないだろう。そうすれば、洋子が亡くなることはないのだ。

 交差点で道を曲がり、すぐそばに合った自動販売機に洋子が駆け寄っていく。洋子の隣まで行くと、少し先にある古びたビルが目に入る。

 あのビルの看板、ぐらついている?

 そう思った次の瞬間には、看板が派手な音を立てて落下していた。音を聞いた人たちがあるまって来るが、けが人がいないのは、俺がこの目で見ている。

 丁度、ペットボトルを取るのにしゃがんでいた洋子の足が震えているのが見えて、声をかける。

「洋子? 大丈夫?」

「孝くん……、助かってよかった」

 ふるえ声で言い、俺のスーツの袖口を小さく、けれどしっかりと握りしめる。

「それは、こっちの──」

 セリフだよ、と言いかけて、ふと押し黙る。

 俺が、助かってよかった? それは、どういう意味だ?

 数秒の思考の末に行き当たった、とある想像に、確認しないと、と思う。

「洋子。……もしかして、神社に?」

 ──もしかして、神社に行ったのかい?

「うんっ」

 ──うん。

 突然よみがえる言葉に、洋子の返事が重なる。

 と、いうことは、俺は一度、死んでいたのか。それに……。

 顔を伏せている洋子の頭をそっと撫で、ありがとう、とつぶやいた。



「洋子は、この神社に来るのは二回目になるの?」

「うん。おじいちゃんが、昔、この辺りに住んでたみたいで、話は聞いてたんだけどね。孝くんは?」

「俺は、昔、祖母と一緒に。……そう、思い出したんだけど、一回、祖母を助けるのに時間を遡ったことがあったんだよね。だから、最初に洋子を助けた時にうまくいかなかったのかも」

 こうして、日中の明るい時間に来ると、思ったより階段が長かったことに気が付いた。その階段を、洋子とともにゆっくりと上る。

「そうだったんだ……。孝くんのおばあさん、会ってみたかったな」

「俺が高校に入る前には、病気で亡くなってたからね」

 あの日の後、二人の知っているあの日を組み合わせて、三つのあの日が分かってから、洋子が何度か俺の祖母の話を気にしていた。いったい何があるのか、尋ねても教えてくれないので分からずじまいである。

「あの時は、こんなにゆっくりなんて上らなかったけど、こうしてみると結構疲れるんだね」

 それには同意であった。意外と、階段を上るのが疲れるんだな。

 そう思いながら、上りきったことで全貌が見えた橘神社の本殿へ、一歩、二歩と近づいていく。お賽銭箱の手前まで歩いて行き、賽銭はせずに二人で祈りをささげる。

 ──時量師神様……、二度もチャンスをくださり、ありがとうございました。

 ふわり、と風が柔らかく吹いて、髪の毛を揺らす。

 この感謝の気持ちは、神様に伝わっただろうか。

 目を開けても、先ほどと変わらずに本殿があるだけで、冬の日光に優しく包まれている。

「……帰ろっか」

 しばらくその場に立っていたが、洋子の声でようやく動く気になる。

「そう、だね」

 つぶやいた声が、思ったよりも消え入りそうだった。最後に長く、一礼をしてから、二人一緒に踵を返す。

「伊吹、そんなに急がなくてもいいでしょ」

 階段を降りはじめてから聞こえた声に道路を見ると、近所の高校の制服を着た子たちが四人、仲よく歩いているのが見えた。

「いいだろ、今日は部活できなかったんだし、早くバレーやろうぜ」

「別にいいけどさあ、ちょっとはしゃぎ過ぎ」

「はしゃぎすぎるのが伊吹でしょ、汐」

「そうだったね」

「なんかそれ、酷くねえか? 千洋。汐もっ」

「まあ、日ごろの行いじゃない?」

「清春まで、ひでえ」

 テンポの良い会話が心地よくて、洋子と顔を合わせて、くすり、と笑う。

「こんにちは」

 丁度階段を下りきったところで彼らとすれ違い、女の子二人が最初に挨拶をしてくる。

 こんにちは、と返して家の方へと、階段から離れようとすると、伊吹と呼ばれていた少年が声をかけてくる。

「あれ、もしかしてそちらの方、奥さんですか?」

「え……? そうだけど。どうしたんだい?」

 もしかして、どこかで、会ったりした?

 そう尋ねると、彼は何やらひとりことを呟いてから、口を開く。

「いえ、たぶん、会ってないですね」

「伊吹ー? 何してるの?」

「すぐ行くから!」

 汐という子から声がかかり、彼女に一言伝えてから、俺に頭を下げる。

「え、」

「あの時はありがとうございました! それと、良かったですね、助けられて」

 その言葉の意味を理解する前に、では、と言って階段を駆け上がっていく彼の背中を、ぽかん、と見つめる。

「あの子に、話したの?」

 ふと投げかけられた声に、いや、と否定する。

「夏くらいに見かけたことはあった気がするけど……。話したことは、ないな」

 洋子が亡くなった時の話なんて、話す機会なんてなかったはずだ。

「……あの子もきっと、誰かを助けたことがあるんだね」

「……そうなのかも」

 境内から聞こえる、賑やかな声にほおを緩め、再び、帰ろうか、と洋子と目を合わせた。

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