第5話 エピローグ

海原橙が小さい頃から憧れ続けていた街、このトウキョウに住みだして三〇年経とうとしている。高層ビルやスクランブル交差点など見る影もなく、自分が憧れていた“都会”とは全く違うが、トウキョウの中心地からちょっと離れたこの地域、[ミサキ区]通称“隔離研究区”も、彼にとっては都そのものだった。

 彼が今いる場所、街並みが一望できるこの高台は彼女と初めて会話をしたところであり、彼女がいなくなった今ではここで一日を過ごすことが日課になっている。時刻は一七時を指し、夕日が海原橙の顔を照らす。

 そして、この区で最愛の人を亡くして一五年。今まで海原橙は彼女のこと、薄野秋のことを一度も忘れることなく想い、過ごしていた。

 彼女の身体が昇華しきった後、ずっと彼女の最期を側で見ていた海原橙は『感染者』になっていた。そのことが会社にばれた海原橙は実験体の一人としてこの区に住んでいた。痣ができた場所は彼の左頬。偶然なのか、薄野秋と同じ場所にできていた。発症して一五年経った今、彼の痣は左半身を覆っていた。そよいできた風にめくれる服の下から、痣が心臓に達するまであと僅かであることが確認できる。

「海原さん」

 声のした方を振り返ると若い青年が一人立っていた。

 今年この[ミサキ区]に配属された杜家侑汰もりいえゆうたである。彼もまた、海原橙と同じでこのトウキョウに憧れ、ここに来た。そんなこともあってか、海原橙はこの青年が自分にどことなく似ていると感じていた。

「どうした?」

「今日も話を聞いてもらいたくて」

 そう言って、杜家侑汰は海原橙の横に座った。

 彼は時々こうして、海原橙のことを訪れることがあった。仕事の話や、上司に怒られた話など、よく相談を持ち込んでくる。これも彼が元ここの管理官であることを知っているから何でも話せたのだ。

 しかし、今日の杜家侑汰の話はちょっと違った。

「俺、好きな人がいるんです」

「…え?」

 海原橙はかなりびっくりした。今まで恋の相談などされたことがないからだ。

「いや、正確にはいたんですが…」

「いた?」

 はい、と杜家侑汰は続けた。

「俺、ここに配属されてすぐに好きになった女の子がいたんです。一目惚れでした」

 杜家侑汰は少し照れくさそうに言った。

(ということは『感染者』か)

 それを聞いた海原橙はそう思った。

「仕事で、でしたが、たくさん話して、その度に彼女は笑ってくれて、凄く嬉しかったんです。この人とずっと一緒にいたいと思って、告白しようと思ったんです」

「うん」

「先日告白して、彼女は笑っていいよって言ってくれました。でも、そう言って彼女は…」

 それから先を杜家侑汰は話さなかったが、海原橙にはその彼女がどうなったのか安易に想像できた。

「そうか…」

「…昨日、朝起きて異様に左腕が熱かったから見てみたんです。そしたら痣ができていました」

「上には報告したのか?」

「いえ…そのことを話したら俺も実験体になってしまします。俺はまだやることがあるんです」

「やること?」

 はい。と、杜家侑汰は頷いた。

「彼女の無念を晴らしてやりたいんです。彼女、三歳くらいからここにいたそうなんですよ。まだ外の世界でやってないことがたくさんあったんです。俺と話していたときもそんな内容ばかりでした。水族館に行ったり、映画を見たり、買い物したり。病気が治ったら一緒に行こうって約束してたんですその約束を、彼女はもういないけど叶えてやりたいんです。そのためにはワクチンを打つしかないんですが、昨日こっそりデータを見たら満員でした。早く打たないと俺も手遅れになってしまうのに…」

 海原橙は考えた。

 確かに彼の考えはよくわかる。自分も同じような運命を辿っているし薄野秋の無念も晴らしてやりたいと思っている。長年勤めてきた会社だし、上に掛け合えばワクチンだって手に入るだろう。だが、そんな事をすると今度は、一般市民が大変なことになる。

(どうすればいいかな…)

 その時、自分の身体に衝撃が走った。

「ぐっ…」

「海原さん、大丈夫ですか!?」

 杜家侑汰は海原橙を抱えるようにした。

「大丈夫だよ」

 そう言って海原橙は杜家侑汰を遠ざけた。

 胸の痣を見ると、もう残された時間はほんの僅かだった。

(そうだ…思い出した)

 前のことで忘れていたが、海原橙は胸ポッケトから手帳を取り出した。ずるとそこには一枚の紙があった。それを取り、杜家侑汰に渡した。

「これ、やるよ」

「え?」

 杜家侑汰は紙を受け取り、その中を見た。

「これ!」

 その紙は、ワクチン接種の受付用紙だった。

「多分話したら大丈夫だから」

「でも、海原さんが…」

 海原橙はふふっと笑った。

「なあ侑汰。こんな話知っているか?」

 海原橙は話し出した。

「ある男の話だ。そいつはお前と一緒でな、ここの管理官をやっていたんだ。そしてある女性に恋をした。勿論、ここの住人だった」

 海原橙はここで言葉を区切った。

「ずっとずっと一緒にいたかった、ずっとずっと笑ってて欲しかった。いつその命が絶えるかも分からなかったけど幸せにしてやりたかった。これほど人を愛したことなんてなかったからな。…でもな、時ってのは残酷なもんだよ。男はあっけなく彼女を失った。幸せにしてやるって約束した次の日だった。悲しみに満ち溢れて、何もかもが嫌になった。そんな男を容赦なく病魔は襲った。すぐに『感染者』と会社にばれ、ここの住人となった。退職したときにその紙をもらったらしい」

 そう言って杜家侑汰が持っている紙を指差した。

「絶望的だっただろうな、この世界に。何もかも報われないし、誰も助けてくれるわけでもない。ましてや『感染者』となったら、その自由すらも奪われる。ワクチン接種はできたから一時は打とうか考えた。けど、そうしなかった。何故だかわかるか?」

「いえ…」

「打てば楽になれるのに、その恐怖から開放されるのにそうしなかったのは彼女の無念を晴らしてやりたかったからだ。彼女がこの町が好きだと言っていたのを思い出したから。ここに残る事を決心した」

 海原橙は杜家侑汰を見た。

「わかるか?何が言いたいか?」

「いや…わかりません」

「お前はまだ若いからな」

 海原橙は立ち上がり、夕日を見た。

「男がそうしたように、お前も自由に生きていいんだ。病気だからって『感染者』だって、自由であっていいんだよ」

「自由に…」

「この世界、目まぐるしく時代は移り、技術は進化していく。それについていけるのは一部の富裕層だけだ。残されたものは苦しむだけだ。自由まで奪われて。それがこの現状だ」

 下の町を見ながら、海原橙は続ける。

「技術が進めば、人間は荒んでいくもんさ。それはお前も分かっているはずだ。そんな人間でも人を愛することは最後まで失くさないんだと思う。何があっても、どんなことがあってもずっと愛していける。自由に愛せる。そんな心まで失くさなくてもいいんだ。環境が変わろうが、世界が終わろうが、地球が滅びようが関係ないんだよ。最期の最期まで自由に、愛していけばいい」

 海原橙は杜家侑汰を見た。

「好きなように、自由に生きろ。愛した人を忘れないよう、その心を忘れないよう、大事に生きろ」

 それを聞いた杜家侑汰は何か決心が付いたのか、立ち上がり、

「海原さん、俺ここから出ます。彼女の思い出と一緒に、彼女の笑顔と一緒に、彼女がやれなかったことをやり遂げようと思います」

「それでいいんだ。行け」

「今までありがとうございました!」

 杜家侑汰は勢いよく頭を下げた。

 その時、海原橙の身体に今までにないくらいの衝撃が走った。

(いよいよか)

「海原さん!」

 海原橙の身体がうっすらと光りだした。

「侑汰、早く行け」

「でも…!」

 杜家侑汰は急いで海原橙に駆け寄ろうとした。

「行くって決めたんだろ!」

 そう強く言われ、杜家侑汰は歩みを止めた。

「行って来い」

 そう、海原橙は笑った。

 杜家侑汰は、零れそうになる涙を堪えて、もう一度深く頭を下げた。そしてその場を去った。

「もう充分だ…」

 既に薄れている自分の手のひらを見ながらそう言った。

「秋、俺ももう終わるみたいだ。また一緒に笑って暮らそうな」

 海原橙は目を瞑り、その時を待った。

(今までありがとう)

 綺麗な光の粒が、夕日に向かって飛び立っていった。



―何も恐れなくていい。自由なんだから、好きに生きればいいんだ―




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サイボウ、ココロ @a-i000

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