第4話 ココロ

「ん?」

 気がつくと、外は明るくなっていた。

(あのまま俺、秋の家で寝てたんだ)

 あまり寝てない所為か、だるい身体を起こし、時計を見る。

「七時か」

 出勤するには丁度いい時間に起きた。

 隣を見ると薄野秋の姿はない。台所からいい匂いがするから、先に起きているのだろう。

(仕事行きたくねえ)

 欠伸を一つしながら、海原橙は彼女の元へと向かう。

「おはよ」

「あら、起きたの」

 おはようと、彼女は出来た料理を並べながらそう笑った。

「今起こしにいこうかなって思ってたの」

「ありがとう」

 海原橙は椅子に腰掛けた。

「何か飲む?」

「何があるの?」

「お茶かコーヒーか野菜ジュース」

「じゃ、コーヒー」

「暖かいのと冷たいの、どっち?」

「んー、冷たいのがいいかな」

 了解と言って薄野秋は冷蔵庫から、コーヒーのペットボトルを取り出し、コップに注いだ。

「はい」

 海原橙は、渡されたコップを手に取り、一口飲んだ。

「あー、目が覚める」

「昨日遅かったからね」

「お前は大丈夫なのか」

「何が?」

「いや、睡眠不足じゃないかなって」

「そんなことないよ。普段が遅いし」

「そっか」

 全ての料理が席に並び、薄野秋も腰掛けた。

 今日の朝食は、ご飯に味噌汁、目玉焼きとスクランブルエッグ、リンゴというメニューだった。

「いただきます」

「いただきます」

 二人は食事を始めた。

「今日区役所行ってくる」

「区役所?」

「うん。婚姻届を取りに」

 海原橙は少し照れくさそうに言った。

「お願いします」

 薄野秋も少し頬が熱くなるのを感じた。

「これからは、毎日こうしてご飯が食べられるね」

「そうだな」

 二人はフフッと笑って、食事を続けた。

 食事を終えると、海原橙は出勤の準備をした。といっても、パジャマで家を出たので、着替えは前に薄野秋の家に来たときに置いておいた服を来た。

「じゃ、帰りにもう一回来るから」

 玄関に向かいながら海原橙は言った。

「うん。気をつけてね」

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 海原橙は会社に向かった。

(今日は早く終わらないかな)

 早く終わって、区役所に早く行きたかった。そして早く薄野秋のところに戻り、早く婚姻届を渡したかった。

「今日も頑張るぞ」

 気合をいれ、仕事に向かった。

「おはようございます」

 会社に着くとすぐに仕事に取り掛かった。

 今までこんなにやる気を出したことがなく、周りの目は驚きを隠せずにいたが、当の本人はそれに全く気がついてない。

 そんな彼のたくましい集中力のおかげで本来残業だった量の仕事を定時には終わらせた。

「お疲れ様でした!」

 こんな彼の様子に周りは呆気にとられた。

 海原橙は走って区役所に向かった。今から行けばまだ窓口は開いている筈だった。

 念の為に時計を確認する。一六時二三分。余裕だった。

 会社から三番目の信号を右に曲がり、そのまま直進するとそこに区役所があった。訪れることはあまりないので、恐らく今回で二度目になるだろう。

「すみません」

 中の生活課に行き、窓口で声を掛けた。

「はい」

 すぐに若い青年が返事をし、対応してくれた。

「婚姻届をいただきたいのですが」

「こちらですね」

 青年は婚姻届を渡した。

 それから、いくつかの注意事項や記入方を説明され、海原橙は区役所を後にした。

 外に出るとほんのり薄暗かった。

(そうだ、ケーキでも買っていこう)

 これから薄野秋の家に行くのだが、久々にケーキが食べたくなったので、買って帰ることにした。

 以前会社の女性に聞いた美味しいケーキ屋に寄っていくことにした。

 区役所から近いところにあり、すぐに見つけることができた。

 凄くお洒落な雰囲気で、こんな時間にも関わらずそれなりにお客さんはいた。

「いらっしゃいませ」

 男一人で入るのは少し抵抗があったが、彼女の為に勇気をだした。

 ショーウィンドウにあるケーキはどれも可愛くデザインされ、食べるのが勿体無いくらいだった。

(秋は確か、ティラミスが好きだったかな…)

 彼女の好みを考慮しながら二つ購入した。

 店を出る頃には星が光っていた。海原橙は携帯を取り出し、薄野秋に電話をした。

「もしもし」

『あ、もしもし。橙君?』

「今からそっち行くから」

『了解。ご飯作ってるから』

「ありがとう。俺もお土産あるから」

『婚姻届じゃなくて?』

「うん。他にもあるよ」

『楽しみにしてる』

「ああ」

『気をつけてね』

「うん」 

 電話を切った。

 海原橙は薄野秋の家までの道を急いだ。早く、早く。そんな感情が彼を押していた。

「ただいま」

 彼女の家に着き、中へ入った。

「おかえりー」

 それに気がついた薄野秋は玄関へと向かった。

「お疲れ様」

「ああ」

 これ。と海原橙はケーキの入った箱を渡した。

「なにこれ?」

「ケーキ」

「わーい」

「初めて買うところだから味は分かんないけど」

「これ、美味しいところのだよ」

「なんだ、食べたことあったの?」

「一回だけ」

 ありがとう。と喜ぶ彼女の頭を撫でた。

「ご飯、出来てるよ」

「おお」

 二人はリビングに入った。

 机の上にはハンバーグとサラダ、ご飯が並べてあった。

「ハンバーグじゃん」

「うん。橙君が来るって分かってたから、帰りに買ってきたの」

 早く食べよう。と彼女は急かした。

 海原橙も席に着き、二人は食事を始めた。

「区役所行けた?」

「うん。後で渡すね」

 二人は今日あったことを話しながら食事を楽しんだ。

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

 食事を終え、二人で片づけをする。

「橙君って意外に家事できるよね」

「意外にって失礼だな」

「ごめんごめん」

 薄野秋は笑いながら言った。

「そうだなあ…高校の時からやっていたしな。母親が遅くまで仕事してる時は変わりにやってたから」

「へえー。すごいね」

「料理も簡単なのだったらやれるし」

「それは頼もしい」

 後の食器の洗浄を洗浄機に任せ、薄野秋はケーキを冷蔵庫から取り出し、海原橙は鞄から婚姻届を出した。

「うわーティラミスだ」

「それでよかった?」

「良く覚えていたね」

「ああ」

 薄野秋はケーキを皿に移し、コーヒーを

入れた。

「食べようか」

「うん」

 二人はケーキを口に入れた。

「美味しいな」

「この何とも言えない甘さが丁度いいんだよ」

「通りで人気があるわけだ」

「でしょ?」

 この生地がどうとか、このクリームがああだとか、それぞれのケーキの感想を言いながら、また交換しながら食べ終えた。

「あー美味かった」

「うん。ありがとう」

 海原橙は、封筒に入った婚姻届を取り出した。

「これが…」

「うん」

 机の上に広げ、二人で眺めた。

 婚姻届と書いてあるその紙は、格式のあるそんな感じの雰囲気を保ったものだった。

 その紙の名前を書く欄。二つのうち片方には海原橙の名前があった。

「もう書いたんだ」

「うん。早く書きたかった」

 少し笑いながら海原橙はそう言った。

「後は秋が書くだけ」

「うん」

 そう言って薄野秋はペンで名前を書いて印鑑を押した。

「ありがとう」

 薄野秋は改めてお礼を言った。

「こちらこそ。こんな俺を選んでくれて」

 海原橙も言った。

「これからも、ずっと一緒だね」

「ああ」

 そう言って二人は笑った。

「そろそろ帰ろうかな」

 海原橙は時計を見ながらそう言った。時刻は二一時。家に帰らないと明日の着替えもなかった。

「そっか。送ってくよ」

「いいよ、そんな」

「いいじゃん。たまにはお散歩したいの」

「分かったよ」

 行こうか。そう言って海原橙は立ち上がった。それに従うかのように薄野秋も立ち上がった。

 それぞれの準備を済まし、外へ出た。

「星が綺麗だな」

 上を見上げると、満点の星空だった。

「本当だ」

 二人は歩幅を合わせて歩いた。

「久々だよな。こうして歩くの」

「そうだね。夜は初めてかも」

「いつも自転車だからな」

「楽しいね」

 ふふっと、薄野秋は笑った。

「そう」

 その笑顔に嬉しくなり、海原橙も笑った。

 何気なく手を取り合った。

 静かな町並みをゆっくりと歩く。

 夜の風の匂いが二人を温かく包む。

「あそこ、行こうよ」

 薄野秋は高台を指差した。

「いいけど、時間大丈夫か?」

「いいから」

 行こう?と、薄野秋は誘った。

「仕方ないな」

 二人は散歩ルートから少し外れて高台を目指した。

「うわあ」

 高台の頂上に着き、上を見た。そこには先程よりも素晴らしい星空が広がっていた。

「すごいな」

「…うん」

 薄野秋は頷いた。その時だった。彼女の身体に凄い衝撃が走る。

「どうした?」

 海原橙も異変に気付き彼女に駆け寄る。

「なにかあった?」

「…ううん」

 薄野秋は悟った。

(もう、終わりなんだ)

「…秋?」

 気がつくと、薄野秋の身体がうっすらと光りだしていた。

「あ、秋…」

 海原橙も気がついた。これは佐々部の時と同じだと。薄野秋の命が終わろうとしていると。

「と、橙君?」

 薄野秋は支えていた彼の胸の中に倒れこんだ。

「もう、駄目…みたい」

「そんなこと言うなよ。明日から夫婦になるんだろ?」

 その答えに薄野秋は笑っただけだった。

「私から、離れて…。じゃないと橙君まで感染してしまう」

「何言ってんだよ。離れる訳ないだろ。ずっと一緒だって約束したろ?」

 その言葉を聞いて、薄野秋は泣き出した。

「橙君…」

「秋」

 海原橙は強く、彼女を抱きしめた。

 次第に強くなる光。そして薄れゆく身体。何もかもが受け入れたくなかった。さっきまであんなに楽しく話していたのに、笑っていたのに、こんなにも唐突に事が進むことが海原橙は許せなかった。彼女の存在を消したくなかった。

「あたしね」

 泣きながら、薄野秋は話し出した。

「すっごい幸せだったよ。こんなにも橙君に大切にされて。すっごい嬉しいよ。ありがとう」

「俺もだよ…。今まで凄く楽しかった。秋がいてくれてよかった。ありがとう」

 海原橙もまた、泣いていた。

「と…うくん」

「ん?」

「大好き…だよ」

「ああ。俺もだ」

 そう言って海原橙は薄野秋に口付けをした。そして、まるでそれを待っていたかのように、薄野秋の身体は光となり、星空の元へ帰っていった。

 一人残された海原橙は泣き崩れた。

 今まであったその温もり。それがまだ腕の中に残っている。しかしそれも夜風が攫い、そして彼に二度と与えることはない。

 最期に笑った彼女の笑顔が何度もフラッシュバックする。その笑顔ももう見れない。自分の脳内でしか会うことができない。

 大好きと言ってくれた。最期まで自分を好きでいてくれた。そんな彼女が愛おしくて堪らなかった。抱きしめてやりたかった。ずっとずっと一緒にいたかった。

「秋…秋…」

 まるでそこにいるかのように何度も何度も呼びかけた。しかし、帰ってくるのは自分の泣き声と風の音だけだ。

 答えて欲しかった。なに?と、いつものように笑って欲しかった。そして、名前を呼んで欲しかった。

 自分はここにいるのに彼女がいないなんて考えられなかった。まだそこにいるような気がした。けど、それは幻でいる筈もない。

 海原橙は声を上げて泣いた。

 こんなにも人を失うことが悲しくて、辛くて、苦しくて、死んでしまいそうなくらいきついとは思わなかった。大好きだった彼女。探すがどこにもいない。彼女だった光の粒すら、もう見当たらない。遂に一人になってしまった。

 今までにないくらい、声を枯らしてしまうくらい、海原橙は泣いた。

 そんな彼を夜風が優しく撫で、星空が見守っていた。

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