第4話
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頼人は再び、自宅のオーディオルームで揺り椅子に体を預け、レコードを頭上に掲げていた。
音楽はなにもかけていない。ぎぃぎぃと、揺り椅子が規則的なリズムで軋みを奏でているだけだ。
「どうして、逃げたんだろう」
気になっていることはそれだった。
遠野真理はこの15センチのレコードのことを知っていたのだろうか?
反応を鑑みるに、その可能性は高そうに見える。
「じゃあ、これは遠野が持ち歩いていて、あの時本当に落としただけ、ってことになるのか。でも、そうだったとしたら、レコードを回収したいって思うよなぁ」
逃げ出すほど恥ずかしいと思うのなら、確かにそう考えるのが自然に思える。では、あの時は、単に恥ずかしさが勝っただけなのだろうか。階段の上下で分かれていたし、下に降りてからレコードを取るのは確かにひと手間かかってしまうのを思えば、納得も行く。
「でも……全部予想でしかないか」
あれこれ考えても、机上の空論にすぎない。
結局、真相を知りたいと思うのであれば、本人に聞くしかないのだ。
そう、本人に。
「……うーん」
掲げるレコードの紙ケースが少し変形する。知れず力が入っていたようだった。
「故意に聞くのは、やっぱり、ダメだよなぁ」
答えは手元にある。それは最初から気づいていたことだ。
昨日聴いたのは図書室を出る直前のところまでだった。裏面にしてすぐだったため、あと二、三分は遠野真理の心の声が録音されているはずだ。なら、図書室を出てすぐの場所で頼人とぶつかったときの心の声も、録音されている可能性は高い。
それを聴けば、遠野真理がレコードをどう知っているかを知ることができる。
「ううーん……」
しかし、二度目である。既に勝手に聞いたという罪悪感は胸の中にしっかりと腰を下ろしているのだ。そこに更に重しを加えてしまっては、今度こそ遠野真理に会うのが気まずくなりかねない。
「でも……何もわからないまま今のままでも十分気まずい、よなぁ」
逃げられちゃったし、と小さくぼやく。
「――――よし。一回も二回も同じだ。遠野にはちゃんと謝ろう」
頼人は椅子を飛び降りて、勢いを失わないようすぐにプレイヤーへと向かった。そして、いつものように――昨日と同じように、15センチのレコードをセットする。
回り始めたレコードへ、最後に再生していた辺りを目安にして、針を落とす。
『――――佐倉君』
「っ!?」
突然名前を呼ばれたようで、びくりとする。
「き、昨日のところからちょうど始まったのか……」
自分の目安は思った以上に正確だった。頼人は落ち着かせるようにそう考える。
『今日はなんだかよくわたしの方を見てる気がするけど、気のせいじゃない、よね』
しかし、続いた遠野真理の言葉で、頼人は混乱する。
『……わ、また目があっちゃった。やっぱり、佐倉君、わたしのこと見てる』
「あ……え……?」
頼人は口をパクパクとさせていた。喉が渇く。なんだこれは。昨日の続きなら、図書室から出たあたりのことが録音されているんじゃないのか?
あの日、遠野真理を見たのは、授業中を除けば図書室の方向から出てきた彼女とぶつかったときだけだ。放課後のそれまでは追試を受けていて教室に缶詰めだったから、間違いない。
『やっぱり、そうだよね。昨日、ぶつかっちゃったからだよね』
「え……今、遠野、今なんて?」
『あのとき、ちゃんとお礼もできなかったしなぁ……。どんくさいって思われてそう。実際、そうなんだけど』
「いや、僕は別にそんなことはっ」
慌てて否定しようとして、それがレコードの音声だと遅れて気づき、更に慌てて口を閉じる。
落ち着け。落ち着け僕。
頼人は息を整えながら、そう自分に言い聞かせる。
考えを整理しよう。
録音されていたと思っていた図書室を出てからの声――つまり、昨日の声は入っていなかった。そして、代わりに録音されていたのは、おそらく、今日遠野真理が感じた心の声だ。ぶつかったのが昨日だと言っている点、頼人が遠野真理を見ていたという点がまさに今日のことに該当する。
ならば、このレコードは随時新しい心の声が録音されているものということになるのだろうか……。
『あと……やっぱり佐倉君、あれ拾ったのかな……』
どくん、と頼人の心臓が跳ねる。
『あれ』。
そう代名詞を使っていても、何かは分かる。この15センチのレコードのことだ。
『わたしの声、聴いたのかな……わたしを気にしてるのも、きっと、それが大きいよね。うーん、自意識過剰かな。でもたぶんそう。うん』
やっぱり、遠野真理は15センチのレコードのことを知っていたのか。
疑問のひとつが解消されて、微かにほっとする。
『じゃあ……うん。いろいろ聞かれちゃったって、ことだよ、ね。うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
「っ!?」
叫び声のような遠野真理の声に、頼人は背筋を伸ばす。そして慌ててボリュームのツマミを回した。女の子の叫び声なんて、万が一にも親に聞かれたら誤解を受けかねない。
『ああああ……恥ずかしい。恥ずかしいよぉ』
続いた遠野真理の声は、か細いものだった。心の中での声とは言え、ここまで感情豊かになるのは、元のどこかクールに見える遠野真理の姿を思えば、面白い。いや、面白がっている場合ではないのだが。何しろ、こうして遠野真理を恥ずかしがらせている張本人が自分なのである。
『どうしよう』
ぽつり、とスピーカーから遠野真理の声が落ちる。
『佐倉君、きっとわたしのところに来る、よね。真面目だし。聞いてても、聞いてなくても』
遠野真理の声は波打つように揺れていた。頼人はそれに聞き入るように、耳を傾けている。
『ちゃんと、話せるかな。恥ずかしいけど、逃げちゃったり、しないですむ、かな』
「あ……」
『佐倉君は、悪くないもんね。ごめん、ってきたら、わたしから違うよって言わないと』
かたん、と針が外れる。録音されていた内容が終わったのだ。
四分前と同じように、オーディオルームに静寂が戻ってくる。
頼人はフローリングの床にぺたりと腰を下ろし、長い息を吐いた。自分の体の中にあるものを、全部吐き出そうとするように、長い長い息だった。
「あー……。なんだよ。遠野は、分かっていたのか」
逃げたのは、恥ずかしかったから。
なんて、なんて可愛らしい理由。
「追いかければよかったのか。逃げさせちゃったのは、僕のせいだな」
つぶやく。物事に正解はなくとも、後から振り返ればこうしていればいいと思えることはある。相手の気持ちを知ってしまえば、よりそれは顕著になる。
「いや……そうだな。後悔ばかりしても、一緒だし」
頼人は立ち上がる。プレイヤーにセットされたままのレコード回収して、紙ケースへとしまい込む。
「明日。また、ちゃんと話そう」
今度は、逃げさせないで済むように。
図書室へ向かう途中、追いかけるのではなく、さりげなく声をかけるようにでもして。
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