第3話

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 終業のベルが鳴っていた。


 クラスメイト達は部活動に委員会、はたまた友人同士で遊びに出るからと、教室から足早に出ていっている。

 その光景を、頼人は眺めていた。ただ視界に収めているだけ。何かを知ろう、何かを聴こうなどといった思いはほとんどない。


 今日一日中、頼人の調子はこんな感じだった。一言で言えば、身が入らない状態である。


 その理由は紛れもなく、昨日聞いたあの15センチのレコードであった。


 頼人は机に頬杖を突きながら、視線だけを自分の鞄へ向ける。そして、五秒ほど見つめると、そのまま左斜め後ろへと視線を流した。

 今日一日の中で、唯一頼人が意識的に注意を向けていた先である。


「…………」


 そこに座っているのは、遠野真理だ。


 長い黒髪。ややオシャレから外れた野暮ったい眼鏡。インドア系らしい細っこい首筋に、白い肌。


 決して目立つような風貌ではない彼女は、目立たないようにクラスメイト達の喧騒にまぎれながら、下校の準備をしている。


 声をかけるべきだろうか。

 それを、頼人はずっと考えていた。


 だけど、結局この時間まで何もできなかった。

 そもそも、声をかけたとして何を話せばいいのか分からない。


 レコードが普通のものであればまだしも、心の声が吹き込まれているのである。遠野真理本人がそれを知っているのならいいが、知らなければ彼女を傷つけることになりかねない。

 しかし、知らないふりをしているのは、それはそれで辛いものがある。何しろ、勝手に彼女の心の声を聴いてしまったのだ。そしてそれを黙ったままでいるのは、罪悪感を刺激するのに充分だ。


「どうすりゃいいんだ……」


 頬杖を突いたまま、つぶやく。振動が腕と肘に伝わってくる。

 そうしていると、遠野真理は席を立った。そしてそのまま鞄を抱えて、教室にたむろするクラスメイト達の間をすり抜けながら、出ていった。


「あ……」


 一秒、二秒。


 頭の中で何かが回る。行くべきか行かざるべきか。二択。


 きっと遠野真理は図書室に行くだろう。それが彼女の日課だからだ。だから、彼女に会いに行くのなら、自分もいつものように図書室に向かえばいい。


 だけど、そう焦る必要があることなのだろうか。すぐじゃなくてもいいんじゃないのか。タイミングを見計らって、さりげなく図書室で話しかけたりすればいいんじゃないのか。そして、運が良ければ忘れて何もなかったことに出来るかもしれないんじゃないか。


「――――む」


 判断する。


 頼人は立ち上がった。

 行こう。先延ばしにして、あまつさえ何もなかったことにするぐらいなら、早いうちに片付けておきたい。


 何より、彼女の心の声を勝手に聞いてしまったという罪悪感は、どこまで行っても付きまとうのだ。


 頼人は鞄を引っ手繰るように掴み取ると、教室を出た。15センチのレコードはちゃんと中に入っている。何度も何度も確認したので間違いないだろう。


 廊下には遠野真理の姿はなかった。

 とは言え、図書室に向かうために廊下を曲がった程度のことだろう。焦る必要はない。


 どう話せばいいだろうか。突拍子もない話だと思われるかもしれない。むしろ馬鹿にしていると怒られるかもしれない。でも、それならそれで、いいのかもしれない。


 そう考えながら、頼人は廊下をやや小走りで進んでいく。

 廊下を曲がり、階段を上ったところですぐに遠野真理の姿が見えた。


「あ……」


 上手く声が出ない。息を吸って、喉を整える。


「遠野」


 そして見上げるようにして、階段の上にいる遠野真理に声をかけた。


「――――」


 遠野真理は立ち止まった。髪がゆっくりとなびいて、彼女の顔がこちらを向いた。


 彼女は驚いているようだった。それもそのはずだ。いきなり同級生から――それも、これまでたいして話したこともない男子からいきなり呼び止められているのだから。


 心細そうに鞄を抱きかかえている姿を見ると、どうにも申し訳なくなる。

 だけど、ここまで来たのだから退くわけにはいかない。


「あのさ、昨日のことなんだけど」


 ぴくり、と遠野真理が跳ねたような気がした。見上げる形になるため、彼女の足元は確認できないが、もしかすると少し後ずさったのかもしれない。


「昨日、ぶつかった時にさ、これ――――」


 頼人は自分の鞄を開く。そして、15センチのレコードを取り出して、遠野真理に見せた。


 ――つもりだった。


「え……?」


 だが、そこにもう遠野真理の姿はなかった。

 硬直する。


 消えた?


 そんなわけはない。なら、逃げられた?


 頼人は階段を二段飛ばしで駆け上がる。少し息が上がりながらも、頼人は上りきった先で廊下を見通す。


 遠野真理が走っていた。


 決して早くはない。ジョギングか、小走り程度。だけど、長い髪を揺らして走るその背中からは、一目散に逃げていくという形容が正しいような感じがした。


「ええー……」


 一体どういうことなのだろうか。


 頼人に話しかけられたのが嫌だったのか。

 それとも、レコードのことを知っていたのだろうか。

 自分の心の声を聴かれたと思ったから、逃げたのだろうか。


「少なくとも、図書室に急ぎたかったってわけじゃ、ないよなぁ……」


 遠野真理の姿が見えなくなって、頼人は息を吐く。


 図書室まで追いかけても、同じだろう。それに、たとえ数人でしかなくても図書室の方が人目はある。レコードのことを知っていて逃げたとすれば、第三者の目がある状況は余計に遠野真理が嫌うだろう。


 だからと言って図書室から出てくるのを待つのも、ストーカーじみていて怖がらせてしまいかねない。


「今日は諦めるしかないか」


 頼人はそうつぶやいて、登ってきた階段を引き返していった。

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