第2話
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背中で、ぎぃ、と椅子が音を立てる。揺り椅子はそのまま角度を傾けて、頼人に見飽きた天井を見せつけた。蛍光灯の明かりがやけに眩しく見える。
部屋は静かだった。
物音は頼人と腰を下ろす揺り椅子が奏でるものしかない。そんな小さなさざ波ですらもあっという間に飲み込むような、水を張ったように澄み切った、作られた静寂がここにはあった。
頼人のいるこの部屋は、父親の作ったオーディオルームだった。
正面には大きなステレオが鎮座しており、サラウンドを作り出すためのスピーカーも後方左右それぞれに設置されている。片側の壁を埋めるのは、床から天井までつながった大きな棚と、そこにびっしりと詰められたレコードたち。そこに並ぶのはジャズやロック、フォーク、歌謡曲。邦楽洋楽を問わずジャンルは多岐にわたる。これは全て頼人の父とその父――つまり祖父が長い時間をかけて集めたコレクションだった。
もう片方の壁にはレコード棚ほどの大きさはないが、それなりに立派な本棚があった。そこに並ぶのは、頼人の本だ。
頼人は父や祖父ほど音楽に興味があるわけではなかった。むしろ、それよりは本を読むほうが好きだった。だから、こうして父と祖父のオーディオルームに頼人は本を置かせてもらっていた。防音されているこの場所であれば、落ち着いて読書に集中できるし、気分のいいときには音楽を聞くこともできるからだ。
だが、今の頼人はそのどちらもしていなかった。
部屋の中心におかれた揺り椅子に腰を下ろし、ぼんやりと天井と正面の壁を交互に見ているだけである。
「遠野がレコードを聴くって、なんか想像つかないな」
ずっと考えているのは、クラスメイトである遠野真理のことである。
遠野真理は日中はいつも教室の片隅で本を開いていて、放課後は図書室で過ごすような、文学少女然とした女の子だ。騒がしいときは、まるで涼しい場所を探す猫のように、ふらふらとどこかへ場所を移す姿も見ていて、読書に集中したいのだろう、と思わされることは何度もあった。
そんな彼女がレコードを聴くというのは――特に特注品のレコードを持ち歩くというのは、どうにもそぐわないように感じる。
彼女の周りにあって似つかわしいのは、小鳥のさえずりや、風のそよぐ音のような、静かでささやかな自然の音のような気がする。
「まぁ……僕の勝手なイメージなんだけど」
実際、夕方の廊下でぶつかったときを除けば、頼人は遠野真理とほとんど話したことはなかったのだ。
加えて、それを思い返してみても、
「ご、ごめんなさい」
「あ、いや……」
「……」
「……て、手伝うよ」
と、どうにも歯切れの悪い会話にもなっていない会話を交わした程度でしかない。
詰まるところ、頼人は遠野真理のことをよく知らなかったし、予想を立てるには情報不足だった。
頼人は膝の上に置かれたレコード持ち上げて、天井に向けて掲げる。
どうしようか、と考える。
これが遠野真理のものであるなら、彼女がどんな音楽を聴くのか興味があった。
そして幸いなことに、自分の家にはこれだけ充実したオーディオルームがあるのだ。
しかし、いくらその設備があるとしても、勝手に他人のものを使うのは、どうにも気がひけることだ。それに、何しろ特注品である。まさかとは思うが、遠野真理の歌声でも録音されていたとすれば、そしてそれを聞いてしまったとすれば、それが上手い下手の関係なしに、プライベートを覗いたとして、頼人は二度と遠野真理に声をかけることができなくなるような気すらする。
「うーん……でも、遠野がどんなのを聞いているのかは、気になるんだよな」
自分で背中を押すように、つぶやき、椅子が揺れた。口に出した時点で、答えは決まっているようなものだった。
「――ん。聴いて、みるか」
揺れ椅子の勢いを使って頼人は正面に飛び下りると、レコードを手にプレイヤーへと向かった。
操作は慣れている。父や祖父から「レコードはすぐ変形するから大事に扱え」とよく言われていたことも、しっかりと頭に入っている。丁寧に傷がつかないよう、紙ケースから取り出し、頼人はあっという間にレコードをプレイヤーにセットし終えていた。
「回転数は特にいじらなくてもいいかな」
確認するようにつぶやきつつ、頼人はスイッチを入れた。
黒い盤面が、滑らかに回転しだす。頼人は丁寧に狙いを定めて、盤面の外側に針を向け、落とす。何度見ても不思議な光景だ。動いているのは黒い地面のはずなのに、どうしてか針が走っているかのように思える。
洗練された機械的な動きを眺めながら、頼人は音量のツマミを触る。まだ実際に音は流れていないので、細かい調整はできないが、今までの感覚から大体の目分量でできないこともない。
「少し小さめにしておこう。遠野の声だったら、困るし」
頼人がそうつぶやいたときだった。
かちん、と音の質が切り替わる気配。始まる、と直感的に伝わってくる。
『――――――――ええと』
頼人の心臓がどきりと跳ねた。
――これは、聞くべきものじゃない。
頭の中に渦巻くのはそんな考え。
遠野真理の声だ。
このレコードは、彼女の声が吹き込まれたものだ。
意識はスイッチを止めるべきだと向いている。引っ張られるよう、反射的に手も伸ばされている。
『昨日は、ミステリーを読んだから、今日は別のものにしようかな』
だけど、その誰にともなく話しかけるような遠野真理の言葉で、頼人は止まった。
『うーん。でも、折角わたしの頭がミステリーになってるし、同じ系列で攻めるのも面白いよね。続き物だし、連続で読んだ方がいいと思うし』
「これって……」
『ん。やっぱり続けて読んじゃおうかな』
「遠野の声……だけど、なんだ? ひとりごと……?」
ノイズは全く感じられず、音は非常にクリアだ。遠野真理の、丸っこい声だけが綺麗にスピーカーから流れている。
ちゃんと編集がされているのだろうか?
それとも、しっかりとしたスタジオで収録をしているのだろうか?
『そうしよ。今日は昨日に引き続き、図書室でミステリーを読んで、他に気になってるのは借りて帰ろう』
どちらであっても、この内容とはかみ合わない。
これは遠野真理の、普段の言葉だ。演技が含まれていたり、何かしらのコンセプトの元に録音したようなものとは思えない。そもそも、こんな内容をわざわざレコードで、それも特注品として作る意味がない。
「……これ、何なんだ……?」
『――――――――』
無音が流れる。しかし、どこか遠野真理の呼吸が聞こえるようでもあった。か細いが、これからの読書体験を思って心を弾ませているような息遣いである。
『――――プロローグ。私の故郷には――』
そして、小さな間をおいて、再び遠野真理の声が聞こえた。
ぽつりぽつりと続いていくそれは朗読のようだった。だけど、誰かに聞かせるためではなく、自分が読むために口に出しているような、ゆったりとしたマイペースさが感じられた。
本を読んでいるのか。
ふと、感覚が繋がるように、遠野真理の声が頼人の意識と重なった。
頼人も読書の際、頭の中で声を出すように意識して読む癖があった。その方が文章のリズムや、言葉のニュアンスを掴めるような気がするからだ。
レコードからは、遠野真理の声が揺れたり波打ったりしながらも、流れ続けている。それは本当に、頼人が本を読むときに行っているような、頭の中の朗読と似ている。
「これって……遠野の、考えていること、なのか……?」
いや、違う。
厳密には「考えていたこと」なのだろうか。遠野は「図書室で」と言っていた。ならば、すでに図書室が閉まっている今ではなく、今日か、それ以前に図書室にいたときのことだろう。それに、レコード自体が『録音されたもの』なのだから、そう考えるのが自然だ。言葉の発音が自然に思えるのも心の中の声だからなのだと思えば、普段あまりお喋りをしていない遠野真理の姿とも相反しない。
「でもなんで、こんなものが……」
心の声を録音してあるレコード。
それこそ、まるで物語の中のアイテムだ。SFの短編にでも出てきておかしくない。それがどうして実際に存在しているのだろうか。
そして、何よりこの存在を、遠野真理は知っているのだろうか――?
遠野真理の声は続いていた。
丸っこい声の、独りよがりな朗読は心地が良かった。
心の声であれば、聞くべきではないのだろう。だけど、部屋に満ちる遠野真理の声は、かつて母親から寝る前に絵本を読んでもらっていた時のように包容力があるように思えて、頼人はこの不思議なレコードへの疑問もふわふわと浮いていくようで、深く考えることができず、再生を停止させられないまま、朗読に浸ってしまっていた。
『――――』
それが二、三分ほど続いたとき、遠野の朗読は突然途切れた。
見れば、針が内側に落ちている。再生が終了したのだ。
「そっか。7インチより小さいのなら、収録時間も短いよな」
計っていなかったが、7インチレコードを考えると、再生時間は最初から合わせておおよそ四分程度だっただろう。長い時間に思えたのは、遠野真理の声のせいもあったのだろうか。
「……はぁ」
短い溜息を頼人は吐いた。
どうするべきなのか。少なくとも素直に遠野真理に返却するのは難しくなったのは間違いない。本人がこの存在を知っているかどうかも分からないからだ。
「ああ、そっか。裏面もあるんだ」
しまっておこうとプレイヤーからレコードを取り外して、頼人はそうつぶやいた。レコードには両面とも溝が彫られている場合もある。このレコードも最初に見た時、そうなっていたのを覚えていた。
「……ここまで聞いたんだし、裏面も聞いてみるか」
言い訳をするように独り言をして、頼人はレコードを反対にしてセットする。そして、同じように回転させ、針を落とす。ややあって、遠野真理の声がまた聞こえてきた。
『――今日はここまでにしておこうかな』
言葉の内容とやや疲れたイントネーションで、本をキリがいいところまで読み終わった後だと伝わってくる。
『あとは借りて帰ろう。あ、そういえば』
遠野真理の声が小さく弾んだ。そして小さな間。彼女の変化が、伝わってくる。どうしたのだろうか?
『佐倉君、今日は来てないんだ。どうしたのかな?』
「――――っ!?」
跳ねるように、胸の中で何かが爆発したかのように、頼人は慌ててレコードの再生を停止させていた。プレイヤーから取り上げたレコードを、目にもとまらぬ速さで紙ケースへと戻す。
――聴くべきじゃなかった。
後悔する。
「なんだよこれ」
へたり込む。
力が入らない。
遠野真理が口にした――いや、心の中で想った自分の名前が、頭の中で響いている。
「最悪だ。余計に、遠野に何も言えなくなったじゃないか……」
手のひらに収まる、たった15センチほどの遠野真理の声を抱えて、つぶやく。
静けさが戻ったオーディオルームに、頼人の声だけがこだましていた。
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