第8話 水枕

 そうっとそうっと、静かに静かに二階にもどると、僕はベッドに横になった。グワングワン、水枕がゆれる音。


「大丈夫? おばあさん呼んでこなくてもいい?」


 忍者が僕の顔をのぞき込む。ちょっとドキドキした。


「僕なら大丈夫。あとはリアローたちにまかせるしかないよ」

「そうね」


 忍者は紫色のランドセルを背負った。


「じゃあ、帰るね」

「うん」


「……佐倉くん」

「ん?」


「ありがとう」


 そう言って、忍者はドアの向こうに消えた。


 忍者は今階段をおりているはずなんだけど、足音が聞こえない。本当に忍者みたいなやつだな。僕は体を起こした。頭がガンガンするけど、気になることがある。まだ眠るわけには行かない。


 ベッドを降りて机の上のタブレットのスイッチを入れた。頭が冷たい。髪の毛がまだぬれている。タンスからタオルを取り出して、頭をふいた。タブレットに『クジラ もぐる 深さ』と打ち込む。


 タブレットの画面にはいくつもの項目が並んだ。それを急いで読んでいく。クジラの中でもっとも深くまでもぐれるのはマッコウクジラ、その深さは3000メートル。どの項目を読んでもそう書いてあった。あとはアカボウクジラも3000メートル近くまでもぐれるという記事。なんにせよ、3000メートルというのが、クジラのもぐれる限界点らしい。かいじん6500はいま4000メートルの深海にいる。リアローはそこまでたどり着けるんだろうか。


 僕はベッドに腰をおろし、そして横になった。グワングワン、水枕のゆれる音。水枕に巻いてあるタオルをはずし、顔をくっつけた。熱があがったんだろうか、冷たさが気持ちいい。


 できることならお風呂に入りたかった。リアローたちと一緒にいたかった。でも胸が苦しい。のども頭も痛い。いまお風呂にもぐっても、きっと息が続かない。それにもし息が続いたとしても、ジュツの使えない僕に何ができるわけじゃない。どうせリアローたちの邪魔にしかならない。今は待つしかないんだ。


 水枕の冷たさを感じながら、布団を頭までかぶる。まっくらな中で、僕の心臓の音がする。そして頭が少し動くたびに、グワングワン、水枕のゆれる音。僕はなんとはなしに、左の耳をつまんだ。そうしなければ、落ち着かなかったからだ。そしてそのまま、右の耳を水枕にくっつけた。どれくらい時間がたっただろうか。それは突然だった。


「みつけたぞ!」


 水枕の向こうから小さな声がした。ニキニキの声だ。


「ようし、パパンヤ」それは大きなリアローの声「ニキニキの頭から場所を読み取れ」

「読み取りました」


「じゃあ始めろ、海の底まで『トンネル』を掘れ!」

「テレツテケレツ、トントンビーのホイ!」


 パパンヤの野太い声が呪文をとなえると、水枕の中からごおーっ!と風のような波のような音がした。僕は思わず右目をあけた。見えるはずがないと思いながら、つい見ようとしてしまった。その僕の右目に、見えるはずのない景色が見えた。


 ぐるぐるぐるぐる、世界が回っている。暗い水の中、ごうごうと音をたててうずが巻いている。そのまんなかに僕は浮かんでいた。リアローたちはどこにいるんだろう。僕がそう思ったとき、突然僕のまわりに大きな光の輪が浮かんだ。


 その輪は2つになった。4つになった。8つになった。16、32、64、どんどんどんどん増えていく。やがて光の輪はつながると、長い光のトンネルになった。トンネルは渦の中心で、真下に向かって伸びている。どこまで行くのかはわかっている。きっと深海4000メートル、沈んだ船にまで伸びているんだ。


 ごうごうと鳴る水の音の向こうから、リアローが叫ぶ。


「キミヒコ!聞いてるんだろう、キミヒコ!」

「聞いてるよ、聞こえてるよ、リアロー!」


「俺はこれからトンネルを通って海の底に行く。おまえはこないだの、プールってところで待っていろ。いいな!」

「わかった。プールで待ってる!」


 僕は布団をけっとばし、ベッドから飛び起きた。ドアを乱暴にあけると、階段をバタバタと駆けおりる。おじいちゃんが驚いて居間から顔を出したその前を通り過ぎようとした。でもおじいちゃんは僕の腕をつかんで引きとめた。


「君彦! なにをしているんだ」

「放して、学校に行かなきゃ、プールに行かなきゃ!」


「なにを馬鹿なことを。すぐ部屋にもどりなさい。おとなしく寝てなきゃダメじゃないか」


 叱られて、僕はしゅんとして、うなだれた。おじいちゃんは安心したように、僕の腕を放した。いまだ! 僕は玄関に走ると靴をはいて外に飛び出した。


「あ、こら、待ちなさい」


 後ろからおじいちゃんが追いかけてくる。でも待ってなんていられない。胸が苦しい。のどが痛い。けど走らなきゃ。


 長い坂を駆けあがり、広い道路に出ると、あとは曲がりくねった一本道。僕は走った。いつの間にか、空は暗くなっている。たぶん時間は午後7時半を過ぎているだろう。太陽の沈んだ方向、西に向かって走って行くと、学校の影が見えてきた。


 足がふらふらする。頭がくらくらする。でも僕は走った。リアローが待っていろって言ったから。校門はもう閉まっていたけど、僕は植え込みにのぼり、その端から校門の上にとびついた。足を引っかけて、体を持ち上げる。


「こら、君彦!」


 遠くからおじいちゃんが走り寄ってくる。ここまで追っかけてきたんだとビックリした。でも、つかまるわけには行かない。僕は校門の内側に体を落とした。うまくおりられず、しりもちをついたけど、なんとか学校には入ることができた。だけど。


「誰だ、なにをしてる」


 突然目の前が真っ白になった。懐中電灯の明かりが僕に向けられている。


「なんだ、ここの生徒か。どうしたんだい、こんな時間に学校に忍び込んで」


 懐中電灯の明かりが消された。僕をのぞき込んでいたのは、警備員さんだった。


「あ、あの」


 どうやってごまかそう、僕が迷っていると、校門の向こうからガタガタと音がした。僕は門の上を指さした。


「あの人から逃げてきました」

「なにっ」


 警備員さんが懐中電灯を門に向けると、ちょうどそこには門をよじ登ったおじいちゃんの姿が。


「あんた、そこでなにをやってる!」

「あ、いや、私は」


 あたふたするおじいちゃんを横目に、僕はまた走りだした。校舎の外側を回り、裏手のプールへと急ぐ。金網かなあみを乗り越え、シャワーを走り抜けて、とうとうプールにたどり着いた。だけど。


 そこにリアローはいなかった。暗い空の下に、ただ水を張ったプールがあるだけ。僕は不安になった。もしかして、助けられなかったのか。いや、リアローが4000メートルの海の底までたどり着けなかったのかも。それともリアローが海の底でぺしゃんこにつぶれてしまったのだろうか。悪いことばかりが次々頭に浮かぶ。僕はプールの水際まで近づいた。


「おい、君、それ以上近づいちゃいかん」


 振り返ると警備員さんがプールの出入り口の鍵をあけていた。その向こうでおじいちゃんが呼んでいる。


「君彦、こっちに来なさい」


 僕はプールに向かって叫んだ。


「リアロー!」


 返事はない。ならば。僕は決めた。走った。そして飛んだ。


「あっ」


 それはおじいちゃんだったのか、警備員さんだったのか、それとも二人同時に声をあげたのか。とにかくその声とともに、僕の体はプールの水の中に落ちた。ごぼごぼごぼ、耳に水が入る音。鼻がツンとする。でもそんなことにはかまっていられない。僕は左耳をつまみ、右目をあけた。そしておでこから出せるだけの大声で叫んだ。


「リアロー!」


 やっぱり返事はない。僕の右目に見える景色はまっくら。1、2、3……10秒がたった。11、12、13……20秒がたった。だめだ、もう息が苦しくなってきた。僕があきらめかけた、そのとき。水の向こうの遠い遠いところから、大きな声が聞こえてきた。


「サテモサテモ、サテモスッテモ、サモランパ!」


 プールの水が、まるで柱のように噴きあがる。僕の体は風に飛ばされる木の葉のように宙に持ちあがった。高く高く、校舎よりも高く舞いあがる。でもなぜか、こわくはなかった。


 僕の目にうつる、暗くなった東の空。闇にまたたく無数の光。天を横切る天の川。その輝く星空のまんなかが、突然切り取られたかのように、いや、なにかに食べられてしまったかのように見えなくなった。僕は目を丸くした。プールの上の空にいま、まっ黒い、けれどおなかの白い、大きな大きな菱形が浮かんでいる。


――待たせたな


 そんな声が聞こえた気がした。と同時に、僕の体は落ちた。耳元で風を切る音がする。でも地面に叩きつけられることはなかった。プールの周りのコンクリートの場所に落ちる寸前、僕の体はふんわりと持ち上がり、静かに足からおりることができたからだ。


 僕がプールを振り返ると、次の瞬間、どーん! という大きな音とともに、なにかがプールに落ちてきた。辺り一面に水しぶきが飛び散る。警備員さんの懐中電灯がプールを照らす。そこには。


 青いツナギの作業服を着た大人のひとが三人、プールの中に立っていた。


「こりゃあ、いったい」


 警備員さんはあぜんとしている。


「なにが起こったんだ」


 おじいちゃんも、それ以上言葉が出てこないようだった。


 僕はその三人に声をかけた。


「日高さんはいますか」


 すると三人の中で一番背の高い人が、僕を見た。なにが起きているのか理解できない、そんな顔だった。


「日高は私ですが。ここはどこですか」

「学校のプールです。ヒミ……じゃない、文子ちゃんが家で待ってますよ」


 そこで初めてヒミコのお父さんたちは、助かったんだと気がついたようだった。


「これはいったい、どういうことですか。なにがどうなって我々は助かったのです」


 ヒミコのお父さんは、プールからあがりながら、おじいちゃんと警備員さんにたずねたけど、二人とも返事のしようがなかった。と、そこへ。


 突然バリバリバリと音を立てながら、暗い空からヘリコプターが急降下してきた。そしてヘリコプターの横側のドアが開いたかと思うと、ロープをつたって黒づくめの人たちが何人もおりてきた。最初におりた黒づくめが、ヒミコのお父さんに敬礼した。


「日高船長以下三名の方、ただいまむかえにあがりました。ご同行を願います」

「私たちがどうやって助かったのかは、もしかして聞いちゃいけないことなのかな」


 その質問は、黒づくめの人たちには答えにくいものだったらしい。ヒミコのお父さんは一つうなずいた。


「わかりました、了解りょうかいです。同行しましょう」

「助かります」


 ヒミコのお父さんに礼を言って、黒づくめの人は青い作業服の三人に、ロープを結び付けた。すると、ロープがヘリコプターの上へと吊りあげる。


「君の名前は」


 ヒミコのお父さんは、ロープで吊られながら僕にたずねた。


「佐倉君彦です」

「ありがとう、覚えておくよ」


 ヘリコプターは暗い空へと飛びあがった。その大きな音が聞こえなくなるまで見送ってから、おじいちゃんは僕に言った。


「君彦、いったいどういうことなんだ」


 覚えているのはそこまで。僕の体は急に力が抜けて、立っていられなくなってしまった。

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