第7話 深海4000メートル
グワングワン、水枕の中で氷が揺れる音。月曜は学校を休んだ。僕は風邪をひいてしまった。リアローと約束したのに。でもいいや、もうリアローたちと会うことはないんだから。
ピピッ、と音がしたので、僕は
階段をのぼってくる足音が聞こえた。おばあちゃんだ。そういえば、昨日からおじいちゃんの顔を見ていない。まだ怒ってるんだろうか。そう思っていると、ドアが開いた。
「君彦くん、熱はどう」
僕はだまって体温計を差し出した。
「あら、まだ熱があるのね。お友達がお見舞いに来てくれてるんだけど、どうしましょう、帰ってもらう?」
僕は壁の時計を見た。もう学校が終わる時間なんだ。気がつかなかった。
「大丈夫だよ。入ってもらって」
たぶんヒミコだろうな、と僕は思った。ヒミコはああ見えて保健委員だ。お見舞いというより、今日出たプリントとかを持ってきたんだろう。でもドアがあいて、そこに立っていたのは、ヒミコじゃなかった。
「忍者……」
おばあちゃんと入れ替わりに入ってきた忍者は、紫色のランドセルからプリントを二枚出すと、だまって僕の机の上に置いた。
「ありがとう。でもヒミコが来ると思ってた」
「ヒミコは今日、早退したの」
僕はちょっと驚いた。ヒミコは超がつくほどの健康優良児だ。風邪をひいたという噂すら聞いたことがない。そんなヒミコが早退するなんて。
「なにかあったの」
「ええ、大変なことが起きたの。だから私がここに来た。あなたにお願いがあって」
お願い? どういうことだろう。忍者は続けた。
「あの船、竜姫丸の金の模型は、デパートの水槽にもどった」
それを聞いて、僕は思わず、ああ、と声を出してしまった。もどったんだ、良かった。そんな僕を、忍者は見つめている。
「かいじん6500を知ってる?」
「……怪人? なにそれ」
とつぜんの問いかけは、聞いた覚えのあるようなないような言葉だった。忍者は言った。
「
そう言われて思い出した。ああ、そう言えばヒミコがそんなことを言っているのを聞いたことがあるような気がする。でもそれが風邪をひいた僕と何の関係があるんだろう。
「かいじん6500は五時間前マリアナ
熱のある僕の頭には、話がむずかしい。忍者はなにが言いたいんだろうか。
「いま、かいじん6500は、乗組員三人を乗せたまま、海の底に沈んで動けなくなっているのかもしれない。このままだと、五日以内に酸素がなくなる。つまり……三人とも死んでしまう」
僕はハッとした。忍者は僕の目をまっすぐ見ている。
「助けられるのは、あなただけ」
「僕? 僕に何が」
「現場は深海4000メートル。生身の人間が助けに行ける深さじゃない。普通そんな深さにもぐったら、水圧で体がぺしゃんこにつぶれてしまうから。もしそんな深さまで、もぐって行ける可能性のある生き物がいるとしたら」
そのときやっと、僕にもわかった。忍者が何を言おうとしているのか。
「それはクジラくらいでしょうね」
「どうして、それをどうして僕に」
混乱する僕に向かって、忍者は決定的な言葉を口にした。
「あなた、ヤトウクジラを知ってるでしょう」
「……何でそれを」
「それは言えない。国家機密だから。ただこれだけは言っておいてあげる。ヤトウクジラのことを知っている人間は、あなただけじゃない。少ないけど、世界中にいるの。そしてその人たちはみんな、ヤトウクジラと知り合いになりたいと思ってる。でもその方法がわからない。それをあなたは知ってしまった」
「そんな。僕はそんなつもりじゃ」
「どんなつもりかは、いまはどうでもいい。ただ、かいじん6500の乗組員を助けられるのは、世界中であなただけ。ヤトウクジラの力が使えるあなたしかいないの」
僕は首を振った。
「無理だよ、そんなの無理だよ。だってリアローたちとはケンカしちゃったし」
「だから人が死んでもいいの。ヒミコにそう言うの?」
忍者の言葉は静かな、それでいて強い言葉だった。でも僕は。
「だけど、もう無理なんだ」
「私は、お母さんがいないの」
「えっ」
「私が五歳のときに、病気で死んだ。私は小さかったから、まだよくわからなかったけど、お母さんがいなくなってどんなに悲しかったか、どんなにさびしかったか、いまでも覚えてる」
そうか、墓場で持っていたあの黄色い花は。
「だから、ヒミコには同じ思いをしてほしくない。あなたは、誰よりそういう気持ちがわかる人だと思ってた」
忍者の目に涙が浮かんでいる。僕はベッドから体を起こした。
「なんか、ずるいよ、そういうの」
僕は階段を静かに、静かにおりた。居間のふすまは閉じている。そろりそろり、足音を立てないように、おじいちゃんとおばあちゃんに気づかれないように下までおりると、僕と忍者はお風呂場に向かった。お風呂場に入ると、風呂桶の中には、きのうの残り湯が入っていた。もう冷たくはなっているけど、
「見張っといて」
忍者にそう頼むと、僕は何度も深呼吸してから、上半身をお風呂に突っ込んだ。左耳をつまみ、そして右目をあけた。
聞こえてきた歌が途中で止まった。リアローの
「これっきりだ、って言ったよな」
とぼけてやろうか、と
「あつかましいのはわかってる。最低のことをしてるのもわかってる。だけどこの仕事は、君たちにしか頼めないんだ」
「仕事だと? ふざけんな。おまえの持ってくる仕事なんぞ、二度とやるものか」
「まあまあ、そんなつんけんしなくても」
パパンヤがリアローをなだめている。ニキニキも横から顔を出した。
「そうなんだぜ。話くらい聞いてやってもいいと思うんだぜ」
「だめだ!」しかしリアローは受け付けない。「こいつはもう仲間じゃねえ、だったら話を聞く理由もないだろうが!」
その勢いに、パパンヤもニキニキもだまり込んでしまった。一呼吸おいて、僕は残念そうに言った。
「そうだよね。そりゃ僕の話なんて受けられないよね」
「あたりまえだ、馬鹿野郎」
「断られるとは思ってたんだ。だって、すごくこわい仕事だもの」
「な、こわいだと!」
僕は、ぶがががっ、と息を吐き出した。だめだ、風邪のせいで息が長くもたない。お風呂から顔をあげて何度も何度も深呼吸する僕を、忍者は心配そうに見つめた。
「なんとかなりそう?」
「わかんないけど、なんとかしてみる」
息をととのえて、思いっきり深呼吸して、僕はまたお風呂の中に上半身を突っ込んだ。
「マリアナ海溝、4000メートルの海の底の船、誰でも行ける場所じゃない。誰だってこわいよ。だけど、君たちのジュツなら船に届くと思うんだ。あの人たちを助けられると思うんだ」
「け、人助けかよ、くだらない。ドロボウがそんなことをするわけがないだろ」
リアローは吐き捨てるように言った。僕はひとつ、咳をした。口から空気がもれる。それを見て、リアローはあきれたように言った。
「おまえ、風邪ひいてやがんのか」
僕は返事をしようと思ったのに、また咳がでた。空気がぶくぶくもれて行く。
「だったらおとなしく寝てろ。他人の心配してる場合じゃないだろ」
また咳がでる。だめだ、止まらない。
「おいこら、キミヒコ、聞いてるのか。さっさと戻って……」
リアローの言葉は最後まで聞けなかった。僕は息をすべてはきだすと、お風呂から顔をあげた。胸がゼーゼーいっている。のどがヒリヒリ痛い。頭がガンガンする。
「佐倉くん、苦しいの」
心配そうにたずねる忍者に、僕は小さく笑った。
「大丈夫、まだ、あと一回だけ」
僕はお風呂に顔をつけた。
リアローは困っている。パパンヤはリアローをじっと見つめ、ニキニキはおろおろしていた。
「お願い……急がないと……早くしないと」
もうおでこから声を出すだけで精いっぱいの僕に、リアローは問いかけた。
「なんでだよ。なんでそんなボロボロになってまで他人のことに首をつっこむ」
「ヒミコは友達だから……ヒミコには僕みたいな思いはしてほしくないから……」
リアローはひとつ、大きなため息をついた。そして。
「パパンヤ」
「はい」
「そのマリアナなんとかってのは、どこだ」
「マリアナ海溝は、おそらくわれらの言葉で言えば、『
「あんなところに人間がもぐってるのか!」リアローは心底驚いていた。「ムチャクチャしやがるな」
ニキニキが
「どうする。船の中から人間連れ出すだけなら、おいらのジュツでできるんだぜ」
「おまえが連れ出してどうするよ。ここに連れてくるのか。水の中だぞ。おぼれ死ぬだろうが」
リアローにそう言われて、ニキニキはしょげてしまった。でも次のリアローの言葉に、ニキニキの顔はぱっと明るくなった。
「ニキニキは沈んでる船の場所をさがせ。パパンヤはそこまで『トンネル』を掘れ。地獄の門の向こう側へは俺が行く」
そしてリアローは僕をにらんだ。
「勘違いするなよ、今回だけ特別だからな!」
大きな声でそう言うと、ニッと笑ってみせた。
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