第6話 あたりまえのこと

 セミがミンミン鳴いている。チリンチリン、風鈴が鳴る。大きくあいた窓から入ってくる風はなまぬるい。太陽の熱い光はさし込まない。空には雲がいっぱいだ。どうやら雨が降るらしい。


 リアローたちのいる所では、ちゃんと太陽が見えるのだろうか。それが心配だった。僕は机に宿題を広げながら、まったく手をつけていなかった。机の上の時計を見れば、10時を過ぎたところ。まだ早い。僕は手に持った鉛筆をノートの上に転がした。


「馬鹿なことかどうか、いまにわかるよ」


 小さな声で、そうつぶやいて。



 おばあちゃんの呼ぶ声が聞こえた。時計を見る。もうすぐ12時だ。僕はいそいで階段をかけおりた。


「パラポロピレンのパラレンのハ」


 そう呪文をとなえながら。

 テーブルにはおじいちゃんがいて、テレビではちょうどお昼のニュースが始まった。最初のニュースはアメリカの大統領がどうのこうのという話題だった。僕はドキドキしながらテレビを見つめていた。二つ目のニュースは動物園の人がライオンにかまれたというものだった。あれ、もしかしてまだなのか。まだ竜姫丸の模型は盗まれていないんだろうか。そう思ったとき、僕は大変なことを思い出した。


 そうだ、理科の時間。理科の時間にならったとおりなら、太陽が一番高くなる時間は、場所によって違うんだ。だとすれば、リアローたちのいる場所では、まだ太陽が一番高いところにのぼっていないのかもしれない。しまった。その考えが顔に出ていたのだろうか、おばあちゃんが心配そうに声をかけてきた。


「君彦くん、そうめん好きでしょ。食べないの」

「あ、うん。食べるよ」


 そう答えて僕がテレビから目を離そうとしたとき。テレビの中で、アナウンサーの横から手が出てきた。その手は紙をアナウンサーに渡している。アナウンサーは紙を受け取って、あらためてカメラの方を向いた。


「ただいま入ってきたニュースです。都内のデパートに展示されていた純金製の船の模型が、突然消えてなくなりました。警察では何者かに盗まれた可能性もあるとして、慎重しんちょう捜査中そうさちゅうとのことです」


 やった、と声に出しそうになって、僕はなんとかこらえた。そして振り返ると、おじいちゃんとおばあちゃんは、あぜんとしていた。


「ほらね、僕が言ったとおりになったでしょ」


 僕はそうめんをすすった。おばあちゃんは目を丸くしている。おじいちゃんは……とても悲しい顔をしていた。


「君彦はなにか知っているのか」

「え、なにかって」


 僕はとぼけようとしたけれど、おじいちゃんは僕の目をにらみつけた。


「いいか君彦、この金の船をデパートに飾るということに、どれだけたくさんの人がかかわっていると思う。この船が消えたことで、どれだけたくさんの人に迷惑がかかったと思う。どれだけの人がつらい思いをし、どれだけの人が悲しい思いをしたと思う。誰かを困らせて、それを見て笑うなんていうことは、最低の人間のすることだぞ。この船が消えた仕掛けについて、君彦は何か知っているのか。もし知っているのなら話しなさい。おじいちゃんも一緒に行こう。あのデパートに行って、全部話してしまいなさい」


 おじいちゃんの言葉が終わるのを待たずに、僕は立ちあがった。そして家の外へ飛び出した。


 雨。外はものすごい雨だった。その中を僕は走った。雨がどんどん口の中に入ってくる。息が苦しい。目をあけていられない。でも僕の足は止まらなかった。


 誰かが困るなんて、誰かが悲しむなんて、そんなこと考えてもいなかった。僕はただ、世界中をびっくりさせるような大ドロボウの仲間になったことを、すごいって言ってほしくて。すごいことをすれば、おじいちゃんも喜んでくれると思って。僕はただ、笑ってほしくて。


 雨が顔にざんざん打ちつける。口にどんどん水が入って、おぼれそうだ。そのとき僕は思った。もしかしたら。僕は走りながら左耳をつまんだ。そして右目だけをあけた。そこには、いつもよりもぼんやりとした、リアローたちの姿が見えた。


「おう、やっと来たな。なんだ、今日はえらいぼんやりしてるな。まあいい。船はみごとに盗んでやったぞ」


 リアローのひれの上に、金色のカタマリが見える。はっきりとは見えないけど、たぶんあの純金の竜姫丸だ。


「実際に盗んだのは、おいらなんだぜ」


 ニキニキが、たぶん口をとんがらせている。パパンヤの野太い声が笑った。


「まあまあ、いいではないですか。仕事の成功はわれらチームの手柄ですよ」


 僕は迷った。どうやって言い出そう。


「あの、さ」


 僕はおでこから声を出した。ぼんやりと見えているリアローが、パパンヤが、ニキニキが、こちらに向いたのがわかった。


「それ、元のところへ返さない?」


 ふるえている僕の声。その場はしーんと静かになった。音のない時間が何秒か過ぎたあと、リアローが大きな声をあげた。


「なに言ってんだ、おまえ。盗めって言ったのはおまえだろう」


「うん、そりゃ、そうなんだけど、その、もう盗んだからいいじゃない。盗もうと思えばいつでも盗めるんだ、っていうのはわかったし、えっと、みんながすごいんだ、ってこともわかったし」


「すごいのはあたりまえだ。俺さまを誰だと思ってる。星食いリアローだぞ」

「いや、それは」


 僕が困っていると、パパンヤが不思議そうにたずねた。


「いったいどうして返せなんて言うのです?」

「どうして、どうしてって、それは、だって、いろんな人に迷惑かけちゃうから」


「あたりまえだ!」リアローは怒鳴った。「盗むってのはそういうもんだろうが!」


 そうだ。あたりまえのことだ。最初からわかっていたはずだ。誰かの物を盗むなんて、必ず誰かが困って、傷ついて、悲しんで、迷惑する、そういうことなんだ。そんなあたりまえのことを、僕は忘れていた。いや違う。いい気になって、調子に乗って、あたりまえのことを見ないようにしていた。わざと知らない顔をしていたんだ。


「ごめんなさい」


 僕は頭を下げた。ほかにできることはなかった。全部僕が悪いんだから。


「本当にごめんなさい。でも、その船は返してあげて」

「……いいだろう」


 そう言ったリアローの声は腹立たしげだった。


「こいつは返してやる。そのかわり、おまえとはこれっきりだ」


 そのとき、ザザッと音がしたかと思うと、リアローたちの姿が消えた。僕は両目をあけた。雨が小降りになっていた。



 目の前にはたくさんの四角い影が立っている。お墓だ。僕は墓場のまんなかの、参道さんどうに立っていた。参道をまっすぐ抜けて階段をのぼると、お寺がある。おじいちゃんの家からはずいぶん離れた場所だ。いつの間にこんなところまで来てしまったんだろう。


「佐倉くん?」


 突然背中の後ろから聞こえたその声に、僕はびっくりして振り返った。そこにいたのは。


「忍者」


 忍者は右手に紫色の傘をさし、左手には黄色い花を持っていた。


「佐倉くん、こんなところでなにをしてるの」

「いや、べつに」


 説明なんてできるはずがない。僕は忍者に背中を向けた。その背中に向かって、忍者はこうたずねた。


「じゃあ、誰と話していたの」

「誰でもいいだろ」


 答えてしまってから、あ、と思った。僕はリアローたちとは、おでこで話していた。声には出していない。なぜ忍者は僕が話していたことに気がついたんだろうか。


「さっき東京でね」忍者は言った。「純金の船の模型が消えたの」

「そ、それがどうしたんだよ。関係ないだろ」


「プールで吉村先生のメガネが消えたことも、関係ないの」


 ドキドキドキドキ。心臓の音が耳にまでひびいている。僕は返事ができなかった。口をあけたらこのドキドキいう音が、忍者に聞こえるんじゃないかと思ったんだ。


「佐倉くん……あなた、なにか変なモノにとりつかれてるんじゃないの」

「そんなことあるか!」


 僕が思わず振り返ったとき。そこには誰もいなかった。お墓が立ち並ぶ灰色の景色の中に、僕はひとりで立っていた。なんだか気味が悪くなった。気のせいか寒気もする。とにかく墓場から出よう、と僕が歩き始めたとき、遠くの方から声が聞こえた。


「おーい、佐倉」


 声のする方を見ると、階段の上、お寺の門のところに黒い傘をさした大人が二人立っている。いや、よく見れば違う。こちらに向かって手を振っているのは、フジミだ。僕がどうしようか迷っていると、フジミが走ってきた。


「やっぱり佐倉じゃねえか。返事しないから間違ったかと思っただろ」

「あ、ああ、ちょっとびっくりして」


「どうしたんだ、君。びしょれじゃないか」


 僕が顔をあげると、こっちは本当に大人のひとが――フジミより二回りほど大きい――フジミの後ろに立っていた。


「君、佐倉さんちのお孫さんだね」


 身をかがめて話しかけるその顔は、フジミにそっくりだった。


「あ、はい」

「今日は父ちゃんの仕事につきあってさ、そこのお寺まで行ってきたんだ。ケーキ食わしてもらってさ。佐倉は何してんだ。墓参りか?」


 うれしそうに話すフジミに、僕はなんだか重い頭で、ひきつった笑顔を浮かべた。


「いや、僕は」


 そのとき初めて気づいた。たしか忍者は花を持っていた。あいつ、墓参りだったのか。


「こら、困ってるじゃないか」


 フジミのお父さんはフジミの頭をツンとつつくと、僕に笑いかけた。


「すまないね、悪気はないんだけど」

「いえ、わかってますから」


 するとフジミのお父さんは、僕の顔をのぞき込むように見つめて、こうたずねた。


「おじいちゃん、怖いだろ」

「えっ」


 突然の問いかけに、僕はどう答えていいかわからない。フジミのお父さんはいたずらっぽく笑った。


「若いころはよく怒られたんだよ。『てめえは宮大工のくせに、木の削り方も知らねえのか!』ってね。あのときの佐倉さんは、そりゃあ怖かった」


 僕はおどろいた。おじいちゃんが怖いだなんて、思ったことは一度もなかったからだ。僕の中のおじいちゃんは、おじいちゃんは、あれ、どうしてだろう。仏壇に向かうおじいちゃん。坂の上で待つおじいちゃん。悲しい顔のおじいちゃんしか僕は知らない。


 そんなはずはない。お母さんとお父さんが生きていたころ、おじいちゃんは笑っていたはずだ。でもなぜだろう、僕にはおじいちゃんの笑顔が思い出せなかった。頭がグルグル回る。耳が熱い。体が冷たい。足に力が入らない。僕は横になりたかった。


 その後のことはよくわからない。目の前がまっくらになって、誰かが僕を抱きあげたような気がしたけど、それ以外はなにもわからないまま、しばらくして目をあけたら、僕の部屋だった。

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