変わるもの、変わらないもの

秋本カナタ

変わるもの、変わらないもの

「こげなとこまでよお来たねえ。えらい疲れたでしょうなあ」


 開口一番、ばあちゃんは心配そうな顔でそう言ってきた。皺だらけの顔をさらに歪ませ、もはやどこが目なのかも分からない。最後に会った時よりも皺の量が増えているようにも感じる。


「うん、疲れた。山道は走り慣れてないからね」


 畳に荷物を降ろしながら、僕は息をついて答える。といっても、荷物の量は多くはない。せいぜい歯ブラシやタオルなど日用品がリュックサックに詰め込まれている程度だ。必需品は少ない方が動きやすい。


 ばあちゃんはゆっくりと頷き、まずは仏壇に手を合わせてきなっせ、と言い残して奥の部屋へ消えていった。きっと、いつものように多めのお菓子が出てくるのだろう。僕がいくつになっても、その習慣だけは消えはしないらしい。


 言われた通りに、隣の部屋へと移動する。その奥にある仏壇の前に正座し、手を合わせて目を瞑りながらご先祖様に挨拶を済ませる。ここに来ると、まず初めにこれをやらされてきた。小さいころはよく意味も分かっていなかったから、神様にお願いするような感覚で内心で願い事を唱えていた記憶がある。


 目を閉じて、僕は今日ここへ来た目的を思い出していた。


 実家のある都内から車で高速道路に乗って三時間、さらに下道に降りて深い山道を二時間ほど。こんなところに人が住んでいるのだろうか、と不安になりながらも先に進むと、小さな家がちらほらと見える小さな集落に辿り着く。その一番奥にある瓦葺の屋根の家が、僕の父方の祖母が住むこの家である。元々は祖父母が二人で住んでいたが、祖父は五年前に亡くなった。それからは、祖母が一人で住んでいる。


 ここへ一人で来たのは初めてだった。幼いころから毎年定期的に親に連れられてきたことはあったが、その度に僕はすぐに帰りたいと駄々をこねていた。なんせ、周りには遊ぶところも何もなく、一緒に遊ぶ友達もいない。持ってきたゲームも、ここでやるのは何か違うな、と子供ながらに謎の遠慮を感じて、つまりやれることが何にもなかったのである。たまに、裏の山を登った先にある小さな川で沢蟹を探していたりしてはいたが、もともと活動的な性格をしていなかったため、それにもすぐに疲れて飽きていた。


 高校生、大学生と年を重ねるにつれて、ここへ顔を出す回数は減っていっていた。先の理由もあるが、受験や部活、サークルやバイトなどで忙しくなってきていたというのが一番の理由だったと思う。特に大学生になってからは、地元を離れて一人暮らしを始めたこともあり、ここへ来ることもほとんどなくなっていた。働き出してからは一度も来られず、祖父が亡くなって以来、実に五年ぶりの顔見せだった。


 就活は尽く失敗した。三月から始めて、様々な業種の会社を片っ端から受け続けた。おそらく、五十社以上は受けたと思う。だが、僕を雇ってくれるという会社は現れることはなく、いつの間にか冬になっていた。


 周りの友達は皆既に就職先を決めていた、早い奴は四月、遅い奴でも十一月には決まっていた。初めの内は僕に焦ることはないと励ましてくれていた彼らは、次第に連絡をくれなくなった。僕も、劣等感からそんな彼らと徐々に距離を置くようになった。


 僕の働き先が決まったのは、卒業間近の二月だった。行われたのは面接が一回のみで、面接官は手元の履歴書を見ることもなく、その場で合格を言い渡した。心も体も疲弊しきっていた僕は、その会社に迷うことなく入社を決めた。給与も待遇も見ておらず、何をしている会社なのかも把握していなかった。


 それからの四年間、僕は地方の工場勤務として、馬車馬のように働いた。何かの部品を作っていたようだが、僕はその詳細さえ知らされず、ただ上から来る指示に従い、働き続けた。残業の長さや低賃金を嘆く暇もなく、休日には疲労から眠ることしか出来ず、それでも僕はここ以外で働く選択肢は残されていないと思っていた。


 体が悲鳴を訴えたのは、約三か月前のこと。


 勤務中、僕はその場に倒れた。親からも医者からも会社からでさえ働きすぎの過労が原因だと言われた。僕ももちろんそうだと感じていた。二週間の入院の後、会社から解雇通知が届けられた。抗うこともせず、僕は黙ってそれを飲み込んだ。


 実家に帰った僕を、両親は歓迎しなかった。世間体を気にする二人は、職を失った息子の存在をいつまでも家に置いておきたくはなかったらしい。直接言われたことはなかったが、邪魔者を見るようなその目がそれを物語っていた。


 ここに来ることを勧めてきたのは父だ。あそこならお前も少しはゆっくり出来るんじゃないか、しばらくそこで療養してまた再出発すればいい、という言葉だけを残し、十万円を渡して、それ以来僕と目を合わせようとはしなかった。明らかにその金は手切れ金だった。金なら四年間で貯まりに貯まっていたが、僕はそれを何も言わずに受け取って、その三日後の今日に家を出た。


 そして、今に至る。


「……はぁ」


 思わずため息が出る。思い返せば返すほど情けない。


 要は、僕は両親からここへ逃げてきたのだ。嫌な目に合わないために、嫌な目から遠ざかるために、少しでも人の目が少ない場所へやってきただけだ。こんなところで何をしようとも、僕の中の何かが変わるとも、今後の人生に大きな影響を与えるとも正直思えない。それでも、僕にはここ以外来る場所はなかった。


 一度逃げた者を再び受け入れてくれる場所など、あるのだろうか。


 僕の未来には、不安と絶望しか待っていない。


 結局、何をどうしたところで、僕なんか――


「ほら、いつまでそうしとるね。はよこっち来て、菓子でも食べてゆっくりしとき」


 ばあちゃんの声で現実に引き戻される。振り返ると、菓子が沢山入った器を持って、僕を見守るようににっこりと笑っていた。



 ※



「調子はどがんね。まだきつかと?」

「いや、もう大分よくなったよ。心配しないで」


 僕は小さなテーブルで菓子を頬張りながら答える。畳が敷かれた、六畳ほどの小さな部屋。アナログテレビに古いタンス、黒電話と、昭和で時間が止まっているような空間である。ここも、何年も前から変わっていない。


「あんたが倒れたって聞いて、たいぎゃ心配したとよ。元気そうでよかったたい」


 ほっと胸を撫で下ろすようにばあちゃんはそう言った。


 昔からばあちゃんはそうだ。僕がいくつになっても、僕を子供としてしか扱わない。僕が一人っ子で唯一の孫というのもあるのだろうが、小学生でも中学生でも高校生でも大学生でも、来る度にお小遣いをくれたが、金額はいつだって千円だった。それでも、僕はもちろんお礼を言って受け取っていた。


「まあしばらくはここで休んでいきなっせ。次に何するのかも決まってなかとろう?」


 笑顔で尋ねるばあちゃんに、ありがとう、と僕は素っ気なく返事をした。それは聞かれて当然の質問だったが、僕が一番聞かれたくないと思っていた質問でもあった。


 次にすることが何もないからここへ来た。そんなの、誰が見たって分かる。お前が逃げてきたという事実は、誰からしても一目瞭然だ――そんな現実を突き付けられるような気がした。


 否定はしない。でも、認めたくない。


 悪いのは本当に僕だけか? 世間は、社会は、周囲は、本当に何も悪くなかったのか? 逃げるのはそんなに悪いことなのか? 誰だって、それこそ両親だって、いつだって逃げたいと思って生きてるんじゃないのか?


 子供みたいな言い訳が頭を巡る。自己嫌悪。結局、僕はまだ子供だという、それだけだ。大学を出ようが、社会人になろうが、会社を辞めようが、精神年齢はきっと二十歳さえ超えてはいない。ばあちゃんが僕をいつになっても同じ扱いしかしないのだって頷ける。


「なんば悩んどっとね。仕事を辞めたくらいじゃ、人生はどうにも変わらんよ。大丈夫、焦らんでよか」


 僕の心を見透かしたかのように、不意にばあちゃんがそう慰めてきた。それだけ、僕が分かりやすく落ち込んだ顔をしていたのだろう。こういうところも僕はまだ子供だという証だろう。


 その優しい笑顔を見ていると、甘えたくなってきてしまう。今は別に、それも許されるんじゃないか。


「――ばあちゃん、僕はこれからどうするべきなのかな。やりたいことが分からないんだ。やるべきことも、やらなくちゃいけないことも見つからない。何をどうすればいいのか、何が正しいのか、だんだん分からなくなってきて……」


 自然と、そんな言葉が口から溢れていた。一度言葉にすると、気持ちが次から次に湧き出し、止まらなくなる。一度弱みを見せると、心は連鎖的に弱くなっていく。


 気付けば、僕はいつの間にか涙を流していた。


 そんな僕に、ばあちゃんは変わらない微笑みで、語りかけた。


「そぎゃん時はね、美味しいもんばいっぱい食べるとよか。色々考えるのはそれからよ」


 ほれ、と菓子を手渡してくる。いつまでも僕は子供だ。小学生の頃から、やってもらうことは変わらない。情けない、何て僕は、情けないんだ――


「今夜はご馳走にしようかね。あんたの好きなもん、沢山作らなんたい」


 腰を叩きながら、ゆっくりとばあちゃんは立ち上がり、台所へと向かっていった。背中は丸まり、一歩進むだけでも辛そうに見えた。それでも、その後姿は、こんな僕なんかよりどうしようもなく強く思えた。



 ※


 

 ほかほかのご飯、二尾の大きなさんまの塩焼き、並々と注がれただご汁、山盛りのほうれん草のお浸し。それに、手作りの麦茶。


 この家で出てくるのはいつも和食だ。ばあちゃんは洋食を好まない。体に悪いからと言って、僕や両親にも和食を食べることを勧めてきた。僕も子供の頃からばあちゃんの作る和食は大好きだった。


「手伝ってくれてありがとうね。あかわりもあるけん、たっぷり食べるんよ」


 隣でばあちゃんも座って、一緒に手を合わせる。彼女の量は、僕よりも圧倒的に少ない。半分以下だ。これでも多い方だよ、とばあちゃんは笑って言った。


 さんまの塩焼きから手を付ける。臭みがなく、淡白な味。だが、ご飯との相性は素晴らしい。さんまを一食べれば、ご飯を十食べたくなる。おかげで、すぐに山盛りのご飯がなくなってしまった。それを見たばあちゃんがすぐに僕の茶碗を受け取り、古い大きな炊飯器から、また山盛りのご飯をついでくれた。


 子供のころは、さんまの内臓を上手く取り除けずに、いつも身がぼろぼろになっていた。父からはもっと綺麗に食べろと言われ続けていたのを覚えている。少しずつ食べ方を覚えると、逆に魚を食べることが楽しみになっていった。今では、肉より魚派だ。


 だご汁は、味噌汁の中に、野菜と小麦粉を練った団子のようなものを入れたもの。汁を吸っただごは、噛むと中からうま味をたっぷりと溢れさせ、口の中を味噌の美味しさが満たす。大きさはバラバラで、小さなものから、一口では食べきれないほど多いなものが入っていることもある。でも、どれも美味しいことには変わりない。


 ほうれん草のお浸しは、ポン酢をかけて食べる。茹でられたほうれん草は葉をぎゅっと引き締め、何重もの層の重なりは、まるで厚い肉のような食感を生み出す。しゃく、しゃく、と噛む度に耳に心地よい音が響き、それを聞きたくてつい箸をどんどん伸ばしてしまう。気付けば、いつの間にかそれは消えていた。


 僕は夢中でそれらを食べていた。どれも懐かしく、昔からずっと変わらない。食べている内は童心に戻ることを許される、そんな不思議な感覚。


「あんたは昔からよお食べるねえ。なーんも変わっちゃいないよ」


 うん、僕もそう思うよ、と答えた。


 ばあちゃんの言葉が、どうしようもなく温かく聞こえた。僕は何も変わらなくていいんだって言っているようで、僕はそのままでも何の問題もないって言われているようで――


 ああ、結局、そういうことだったんだ。


 僕は、僕だ。


 ばあちゃんの作るご飯が大好きで、美味しくて、それだけで幸せを感じて……それが僕だった。


 昔から、何にも変わってない。


 見栄を張る必要なんてない。


 等身大でいいんだ。


 体からふっと力が抜けていく。抱えていたものがなくなり、重荷を下ろした時のような開放感。ありのままを受け入れてくれることの幸福感。僕は何をそんなに考えすぎていたのだろう。そう思うと、なんだか馬鹿馬鹿しささえ感じてくる。


「ほら、元気出てきた。そがんところも、昔から変わってなかね」


 にっこりと、ばあちゃんは笑った。その皺だらけの顔を見ながら、ばあちゃんも何にも変わってないね、と僕も笑って返した。



 ※



「持っていきなっせ。うちで作った玉ねぎよ」


 袋いっぱいの玉ねぎを渡される。この年になっても未だに家庭菜園を続けているところは本当に凄い。でも、あんまり無理はしてほしくないとも思う。


 五日間の滞在を経て、僕はここを離れることに決めた。何もしないのに長居するのも悪いと思ったし、改めて、自分のやるべきことを見つけたいと考えたからだ。それに、両親とも話し合わなければいけない。これ以上、僕は逃げてはいけないと感じていた。


「どぎゃんね。やりたいことは、見つかったね?」

「……まだ具体的には。でも、焦らずにゆっくりと見つけていこうと思う。まだまだ若いことだしね」


 そう、とばあちゃんは優しく頷く。他の人が僕の言葉を聞いたら、結局何も決めていないじゃないかと怒り出すかもしれない。それでも、ばあちゃんは黙って、僕を肯定してくれた。


「またいつでも来なっせ。ご馳走ば用意しとくけん」


 僕は、必ず行くよと答えて、手を振って別れた。しばらく歩いて振り向くと、まだばあちゃんはこっちに手を振ってくれていた。


 車に乗り込み、エンジンをかける。これからまた五時間のドライブだ。ゆっくりと観光でもしながら帰るとしよう。


 両親には何と言おうか。一週間もせずに帰ってきた僕を何と言って迎えるだろう。まあ、歓迎はしてくれないだろうな。それも仕方がない。考えてたって、何も進みはしない。


 まずは、ばあちゃんから教わっただご汁でも作ってあげよう。話はそれからだ。


 田舎の空は快晴だった。見渡す限りの田園が、太陽を反射してきらきらと光る。子供の時は何とも思わなかったこの光景も、今見るととても美しい。都会では決して見ることの出来ない、貴重な場所だ。


 いつまでも変わらないことを願って、僕は車を走らせた。


(終)


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